《3》逃げられると追いかけたくなる件

「ちょっと、ひっつかないでよ暑苦しい! ウッザいなぁちゃんと歩いて!!」

「うぅぅううぅぅぅ……」

「ったく、なんなの!? まっすぐ歩けないし、眼鏡は忘れそうになるし!! こんなダメ上司だと思ってなかった!!」

「うぅ、うるせえ。ウザいって言ったほうがウザいんだぞ、あとダメって言ったほうがダメなんだからなぁぁぁあぁぁ」


 諏訪部行きつけのバーを出て数分。

 店を出て以来、一歩たりともまっすぐ歩けていない。そんな俺に向けて放たれるキレ気味の諏訪部の叫びが、周辺一帯にわんわんと響き渡る。


 バーは駅にほど近い店だったから、想像よりも時間をかけず駅構内のタクシー乗り場に到着できた……とはいっても、千鳥足の俺を支える諏訪部にとってはさぞ大変な数分間だっただろう。

 周辺の人影は少ないが、皆無ではなかった。見るからに怯えた素振りで俺たちを避けて歩く人と、一度のみならずすれ違っている。

 俺たちのことを、だれも上司と部下の組み合わせだとは思うまい。しかも上司が俺のほうだとは露ほども。諏訪部が年下の上司、というほうがまだ信憑性がありそうだ。


 なぁ、皆も見てくれ。この魔女みたいなザル女、実は俺の部下なんだ。すごいだろ。

 こんな毒舌なのに、会社では俺の指示をちゃんと聞いてくれるんだぞ。マジですごいだろ。


 いつしか俺は、千鳥足のまま「ふふふ」と声を出して笑っていた。

 あからさまに危険な状態にある俺に、諏訪部はこれ見よがしに大仰な溜息をついてみせた。


「放置してたら捕まるレベルだよ、絶対。悪酔いしすぎだしタチ悪すぎ……ほら、タクシー来たよ。乗れる? ちゃんとひとりで帰れる?」

「うん、帰れる。多分。ってなんかお前、うちの母ちゃんみたいだな」

「うっさいわ。誰がアンタのおかんだよ」


 侮蔑のこもった目で見つめられ、居た堪れない気分になった。本来なら悪態をついて返していいような暴言を前に……どうしたものか、うまく言葉が出てこない。

 やかましい、お前みてえなおかんなんざこっちから願い下げだ――そう返せばいいだけだ。そうすれば諏訪部だって鼻で笑ってこの流れを終了できるはずで、なのにそういう類の台詞が俺の喉を通過することはなかった。


 むしろ、ひとりで帰らなければならないと思うと寂しい気さえしてくる。

 おかしい。だが、それをおかしいと思えるまともな精神は、俺の中にはすでに残っていない。


 気づけば、タクシーの後部座席に俺を押し込めようとする諏訪部の手を掴んでいた。

 見開いた諏訪部の目に、にわかに焦りの色が浮かぶ。


「はァ!? 放せっつの、あたしは乗らないよ!」

「やだよー。もうちょっとだけ付き合ってよアイちゃーん……」

「馴れ馴れしく名前呼んでんじゃないよ、マジでなんなのアンタ……」


 露骨に引いていると分かる視線が突き刺さる。

 さすがにこれ以上はマズいだろうか。マズいだろうな。仕方がない。

 仕事上の関係に響いても困る。いや、そんなのはとっくに確定だなんてことは自分でも十分すぎるほど分かっている。


 鉛を詰められたような憂鬱を覚えながら、触れていた指先をすごすごと放そうとした、その瞬間だった。

 俺だけが握り締めていた手に、微かに力がこもる。訝しく思いつつ手の主を見やると、当の本人は頬を赤く染めていた。暗がりでもそうと分かる程度には、確かに。


 ……ん? 顔、赤くない?

 ど、どうした? ドン引きしすぎて赤面とは意外……というか、ちょっとおかしくないか。


「……じゃあ、ほら」


 繋いだ手を放すことなく、諏訪部は俺の身体をタクシーの後部座席の奥に押し入れる。そして自分も一緒に乗り込んできた。

 手が触れていただけだったのに、今度は腕ごと身体が密着し、息が詰まる。呆然と隣の厚化粧顔を眺めていると、不躾な視線を感じ取ったのか、諏訪部は居心地悪そうに眉をひそめた。


 諏訪部は俺を見ない。だが、やはり頬が赤い。

 これほどの厚化粧にもかかわらず、顔色がはっきり分かるということは、素顔ではどのくらい赤くなっているのか……こちらまで頭が茹で上がりそうになる。


 なんだよ。可愛すぎないか、その反応。

 ちょっと待て、俺は今までこの子のなにを見ていたんだった? なにによって、マイナスからイメージがスタートしていたんだった?

 仕事は真面目、言葉はキツいが根は優しい。おかしい。なにがマイナスだったのか、本当に思い出せない。濃い化粧だろうか。それだけ……そんなわけはない。もっとなにかあったはずだ。だが、具体的には結局なにも思い浮かばない。


 そもそも、俺は青山さんのなにを見ていた?

 彼女のどこが好きだったんだ?

 何年も好きだった人なのに、どうしてかひとつも思い浮かばない。


 愚痴を零したから吹っきれたのか。酒を飲んで愚痴るとスッキリするというのは、もしかしてこういうことなのか。

 そう思うと同時、根本的に間違っている気もした。その思考を皮切りに、今日起きたできごとのなにもかもがどろどろと不明瞭になっていく。


 走り出したタクシーの中で、繋いだ手を握り返してみる。露骨に震えた感触があり、ちらりと視線を隣に向けると、ますます頬を赤く染めた諏訪部の横顔が覗いた。

 諏訪部はこちらを見ない。心なしか、顎を引いているように――もっと言えば顔を伏せているようにも見える。


 困った。急激に可愛く思えてきてしまった。

 間違っている気がするのに、これが正しい気もする。今までの自分こそが間違っている気もして、どれが正解か判断がつかなくなる。


 タクシーの運転手の「どちらまで?」という間延びした声が沈黙を緩く裂き、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。

 その感覚からうまく浮上できないまま、俺は自宅の住所ではなく近くのホテルの名前を呟いた。瞬間、諏訪部があからさまに顔を引きつらせた様子が、暗がりの中でもはっきりと見えた。


 追われると逃げたくなる。だが、逃げられると追いたくなる。

 自分の目が、熱っぽく諏訪部を追っている自覚はあった。手のひらに力がこもる。再びふるふると震えた細指に、絡めるように自分の指を這わせた。


 これが世に言う「一夜限りの」という展開なのか。

 相手は勤め先の部下なのに? そんな関係になったら、絶対に気まずくなるに決まっているのに?


 ……でも、もう無理だ。

 だいたい、止められる気なんて随分前からしていなかった。

 唐突に、そう理解した。



     *



 開いた後部座席のドアから、滑り降りるようにして外へ出た。

 無論、手は握り締めたままだ。指を絡めた手は容易には外れず、戸惑いを孕んだ視線を左右に泳がせる諏訪部を引きずる形で歩き出す。


 うちの会社では、飲み会の予定を立てる際、週末ではなく平日まっただ中を選ぶことが多い。今日みたいに、木曜に設定されるケースが最も多かった。理由は単純で、単身赴任中の社員が金曜に帰宅しやすいように、という配慮によるものだ。

 平日ならば、どこのホテルも大して混んでいない。それを見越して、タクシーに乗り込んだ時点で最も近いと思われるホテルの名前を運転手に告げた。


 予想通り、部屋は簡単に取れた。駅前だろうとなんだろうと、地方都市のホテルなんて大概こんなものだ。それなりに上等なホテルでも余裕だし、むしろ案外こういうところのほうが空いている。

 先ほどまでグラグラにふらついていたにもかかわらず、今颯爽とフロントに向かえている俺、一体なんなんだ……ふとそんなことを思う。朦朧としているわりに気合いが入りすぎている。


 頭が茹だって仕方なかった。行きずりのホテルでラグジュアリースイートなどという最上級の客室を取れてしまう程度には、完全に盲目状態だ。

 今日に限って都合良くそんな豪勢な部屋、空いてんじゃねえ――悪態をついてみたが、誰に対する悪態なのかも分からない。分からないまま、フロントスタッフからキーを受け取る。


 フロントでやり取りをしている間……いや、タクシーに乗り込んだときから、諏訪部は一度も口を開いていない。困惑を極めている様子だ。

 かといって、繋いだ手を放しても逃げ去るわけでもなんでもなく、頬を染めて困った顔をしているだけ。ただ、黙って俺についてくる。


 ……了承、と受け取っていいのか。

 いいに決まってる、ともうひとりの自分が声高に叫ぶ。

 うん。いいんだよな。俺もいいと思う。


 部屋に入るなり、閉じたばかりのドアの内側に華奢な肢体を押しつけた。

 移動中のエレベーターの中で、どれくらい同じことをしてやろうかと思ったが、監視カメラがあるかもしれないとなんとか思い留まった。酔っ払いの分際でよくそんなことに頭が回ったものだと、自分で自分を褒めたくなる。


 すぐにも触れたいと思っていた分、想定以上に雑な触れ方になった。そうと分かっていながら配慮ができるだけの余裕を完全に欠いていた俺は、驚いたように見開かれた諏訪部の目に熱っぽく視線を絡め、無防備に薄く開いている唇を強引に塞ぐ。

 ムードもなにもない性急なキスに、諏訪部は固く目を閉じた。そして、反射的になのだろうが、しがみつくように俺の胸元に縋る。


 可愛い。それしか考えられない。

 この子のなにが、俺をここまで掻き乱してしまうのか……ああ、赤く染まった頬だ。タクシーに乗り込んだときもそうだった。俺を無駄に狂わせる、赤い赤い、やわな頬。


 素顔が判然としないほどの厚化粧の女性は、元来苦手だった。俺の好みは、清楚な感じの、控えめな……いや、そんなことはもうどうだっていい。

 唇を割って奥を探ると、諏訪部はびくりと身体を震わせた。胸元に縋りついている彼女の手にはますます力がこもり、スーツのジャケットに皺を刻む。


 慣れていない感じがする。意外だ。見るからに派手なイメージの諏訪部が……この程度、余裕で慣れていそうなのに。

 過ぎった違和感は、不意に舌先を掠めた甘ったるい酒の味に掻き消されてしまう。

 荒ぶったケダモノよろしく、ひたすら口内を貪り続ける。甘い。諏訪部、甘い酒、飲んでたっけ。そういえば最後のあれは美味かった。もひ、もひ、……モヒ? なんだったか。短い名前であることは思い出せても、結局きちんとは思い出せない。


 唇が離れた途端に荒い呼吸を繰り返す諏訪部の顔には、深い困惑が滲んでいた。

 室内は薄暗い。光源は、リビングの大窓から覗いている外の夜景やら車のライトやら、わずかばかりの灯りのみだ。

 それらが中途半端に目の前の顔を照らし、濡れた唇を艶やかに染め上げる。どちらのものか分からなくなった唾液に濡れた諏訪部の唇は、眩暈がするほど色っぽかった。


 メチャクチャにしたくなる。

 頭の中で声高に叫ぶ本能に逆らうことなく、ドアに押しつけていた身体をきつく抱き寄せた。


「慰めてくれるんだろ? 嫌じゃねえから黙ってついてきたんだよな」

「……あ……」

「黙ってるなら肯定って受け取る」

「あ、あの、ちょっと、待……っ」


 続く言葉を遮るように、もう一度唇を塞いだ。

 訊いておいて返事は聞こえないふり、しかも無理やりキスでごまかす。そんな自分の行動がどれだけ卑怯かは分かっていて、それでもこれ以上は耐えられなかった。


 嫌だったなら、タクシーになんか乗らなければ良かった。俺の手を振り払って、無視して帰れば良かったんだ。

 ホテルに着いてからだって同じだ。ずっと手を繋いでいたわけじゃない。逃げようと思えばいくらでも逃げる隙はあったはずで、なのにお前はそうしなかった。

 答えさせたくない。拒絶の言葉は聞きたくない。これほど戸惑っている理由も、全部、聞きたくなかった。


 もう遅い。絶対に逃がさない。

 このまま、黙って俺に喰われてしまえばいい。

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