《2》部下の注文するカクテルが魔女の秘薬みたいな件

 場違い感が尋常ではない。得意のポーカーフェイスが今にも崩れ落ちそうだ。

 拉致に等しい形で諏訪部に連れてこられた先は、いわゆるバー。雰囲気満点の小洒落た店だった。


 テーブル席がふた席、他はカウンター席のみ。椅子は数える程度しかない。

 週末ではないからか、俺たちが到着した頃、店内にはひと組のカップルしかいなかった。そのふたりも、俺たちと入れ違いに帰っていった。


 去り際の彼らにちらりと視線を向けられ、そんな些細なことさえ卑屈に捉えてしまいそうになる。

 なんだよ。別に援交とかパパとかじゃねーよ。こいつはとっくに成人済みの、ただの俺の部下だ。というかむしろ俺が拉致されてきたんだ、俺は被害者なんだ……と、誰に訊かれたわけでもないのに、脳内は勝手にそんな思考を巡らせ続けている。


 店に入ってすぐ、諏訪部はバーテンダーのお兄さんとひと言ふた言話した後、カップルが座っていなかったほうのテーブル席へ歩みを進めた。

 無言で再び腕を引っ張られ、「うあぁ」と情けない悲鳴をあげた俺は確かに薄気味悪かったかもしれないが、俺に罪はない。こいつが強引なのがいけないんだ。

 先刻の誘いの最後に見せていた殊勝な表情も態度も、もう見る影もなかった。やはり俺は選択を誤ったのだ。


 席に着いてから、バーテンと知り合いなのか、とそっと訊いてみた。すると「高校の先輩なんだー」と返された。

 ちらっとカウンターを見やると、大変にイケメンなバーテンと目が合う。にっこりと微笑まれ、男相手でも余裕しゃくしゃくの笑顔を前に、俺は強い脱力感と敗北感を抱いた。


 少々手狭な印象を受ける店内を、オレンジ色の照明がほんのりと照らし出す。ダークブラウンを基調とした内装に、アジアンテイストのインテリアがさりげなく配置されていて、さながら高級リゾートホテルのバーといったイメージだ。

 雰囲気は良い。さっきのカップルも、そういう感じに惹かれてこの店に来ていたのかもしれない。


 注文からさほど間を置かずに運ばれてきたビールも、普通の居酒屋のビールと中身は変わらないだろうに、泡がキラキラと輝いてやたら美味そうに見える。しかし。


 ――残念ながら、今の俺の相手は諏訪部なんですよね。


 どこまでも濃い化粧と生意気な口調と無愛想な態度しか目につかない、俺の好みの真逆に位置していると言っていい、そんな女だ。

 おかしい。よりによってこんな洒落たバーで、どうして俺はこのギャルと酒を飲む羽目になっているのか。しかも会社の部下……なんの罰ゲームだ。


 バー、厚化粧の女、誰かと飲む酒。

 そのどれもが、普段の俺からはひどく懸け離れた位置にある代物でしかない。


 俺の前にはほぼからっぽになったビールジョッキが、そして諏訪部の前には上品な雰囲気全開のカクテルグラスが置かれている。

 華奢なグラスの中には、透き通るような青色の液体がまだ半分ほど残っている。中身を訊いたところ、諏訪部はちらりと俺を一瞥し、ブルー、ブルー……ブルーナントカとかそんな感じの名前を口にした。


 さすがにそこは俺でも分かる。それだけ青い色をしていれば。

 だが、後半のナントカのほうは記憶に残らなかった。


「ブルーキュラソーにね、ジンとレモンジュースと、それから卵の白身が入ってるの」

「そ、そうか。卵……の白身、か」


 意外にも、諏訪部は丁寧に説明してくれた。完全にタメ口だったが……いや、いまさらその点をどうこう言うつもりは毛頭ない。

 俺はといえば、カタカナめいた名前の大半が途中から不穏な呪文みたいに聞こえたために、そうか、と再び呟くしかできない。結局、卵の白身という単語しか覚えられなかった。そんなものを入れてしまうのかと思えば、酒の世界の奥の深さに感心せざるを得ない。


 俺自身、酒にはあまり詳しくない。飲めないからだ。

 正確には「飲めないから」ではなく「飲まないから」と言ったほうが近い。飲まないから、詳しくある必要がない。


 人前で飲んだら最後、碌なことにならない。これまで生きてきた決して短くない月日の中で、俺はそれを嫌というほど学んできた。

 さっきの居酒屋でだって、実は一滴たりとも飲んでいない。そもそも、社内の飲み会で酒を飲んだことは過去に一度もなかった。


 ――ああ、ついに人前で飲んでしまった。

 しかも社内の人間、よりによって部下の前で。


 断ろうと思えば断れたのかもしれない。だが、もう飲んだ後だ。今頃になって後悔したところで遅い。

 諦めの境地に辿り着いた矢先、小さなカクテルグラスに半分ほど残っていたブルーナントカを、諏訪部はくいっとグラスを傾けて飲み干した。

 豪快な飲みっぷりを目の当たりにして、俺は思わずヒョッ……と、息を呑んでいるのか吐いているのか分からない悲鳴をあげてしまう。


 酒豪かよ。そんな飲み方をしたら、俺なら一発でぶっ壊れる。死ぬ。

 小さなグラスに入った酒は基本的にキツいものだと、その程度はいくら俺でも知っている。そんなものを、そこまであっさり飲み干すとは。


 強い……んだろう。いわれてみれば、諏訪部は見るからに強そうな顔をしている。

 無論、俺は大して強くない。飲酒そのものを避けている分、鍛えられる機会も碌になかった。自分の限界もいまいち分かっていないままだ。


 震える息が零れた。

 帰りたい。今すぐ帰宅したい。喧騒にまみれた先ほどの居酒屋とは大きく異なる店内の雰囲気が、どんどん俺から現実感を剥ぎ取っていく。

 俺が飲むのは、スーパーのプライベートブランドの発泡酒でいい。雰囲気程度に酔えればいいだけだから、それで十分なんだ。


 なんとかして帰路に就く方法はないかと頭をひねっていると、ダラダラとメニューを眺めていた諏訪部がまたも新しい酒を注文した。帰路は遠のく一方だ。途方に暮れた。

 そうこうしているうち、今度はなにやら白っぽいというか透明というか、そんな液体の入ったグラスが運ばれてきた。


 諏訪部が面倒そうに名前を教えてくれた。

 ばら、ばら……バラナントカと聞こえた。また覚えられなかった。


「ちょっと飲んでみる?」

「はあ……」


 グラスを差し出され、断るのも気が引けた俺は嫌々ながらも口をつける。

 瞬間、リアルにオエッとなった。キツいにも限度がある。咄嗟に片手で口を押さえると、対面に腰かける諏訪部がサッと身を引いた。

 いや、別に吐かねえよ。なんなんだよ、その失礼にもほどがある態度は。しかも無駄に迅速だし。


 なんとなく柑橘系の匂いはするが、辛くて喉が灼けそうだ。いや、実際灼けた。堪らず眼鏡を外し、俺はひたすらゴフゴフと咽せ続ける。

 そんな俺を見たイケメンバーテンダーが、カウンターの奥からひょっこりと顔を出し、申し訳なさそうに謝罪を入れてきた。


「すみません、それ亜唯あいチャン仕様なんですよー」


 亜唯チャン仕様。なんだそれは。

 まさかわざわざこの子のために特別な配合で作ってでもいるのか。おかしいだろ、そこは全オーダー分均一に作成してくれないか。こういう事故だって起こり得るんだ、スタンダードな感じで作ってくれよ頼むから。


「あっはは、ごめん。いっつも強めに作ってもらってるんだよねー忘れてた。ってか眼鏡取ってるトコ初めて見た、超ウケる」


 ……なにひとつウケねえよ……!!


 そろそろいい加減にしてほしいと全身全霊で思いつつ、先刻からこんな酒をバカスカ飲み続けている諏訪部がだんだん心配になってきた。お前、肝臓は大丈夫なのか。

 気を取り直し、丁重にグラスをお返しさせていただく。


「せっかくのところすみませんが、僕はビールのみで結構ですね……」

「ふーん。っていうか『僕』ってなにその一人称?」


 つまらなそうにグラスへ視線を戻した諏訪部は、酔っている感じがまったくない。

 ザルなのか、と思ったら、顔に貼りつけた笑顔がパラパラと剥がれ落ちていく錯覚に襲われた。


 どうしよう。この調子だと、きっと夜はまだ長い。

 猛烈に泣きたくなってきた。



     *



 そして、小一時間後。

 合間合間にあれこれとキツい酒を味見させられ、完全に酔い潰れていた。もちろん俺が。

 こうなると分かっていたから、ビールだけでいいと頑なに言っていたのに。いろいろ飲んだら悪酔いする。いや、別にいろいろ飲まなくても悪酔いはするが、もっと危険な感じになるに決まっている。


 決まってたんだよ、バカヤロウ……!!


「くっそくっそ! ふっざけやがって……デキ婚だと? あり得ねえだろ、付き合ってたことも知らなかったのになんなの急に!? 駄目だ駄目だよ青山さん、楠田なんかじゃ駄目なんだってちっくしょおぉぉ社会人なら避妊くらいちゃんとしろォォッ!!」

「……うわ……」

「うう、青山さん! あんな頼りねえ旦那じゃ幸せになんて絶対なれやしねえよ……うう、帰ってきてくれぇぇ青山さぁぁぁん」

「帰ってきてって……別に元々アンタの彼女でもないでしょ……」

「うるせえ! 会社にって意味だよ、分かってて言ってんだろお前!! うう、俺にとっては高嶺の花だったんだ……清楚で可憐で可愛くて、あの子が入社してきた頃から俺、ずっと見てたのに……ッ!!」


 完全に引いている諏訪部の視線が心身に突き刺さる。眼鏡を外しているにもかかわらず、そこだけ切り抜かれたようにしてはっきり見えるのはどうしてなのか。

 仕方ないだろう。そもそも、「付き合ってやるから愚痴ったほうがいい」などと言い出して俺をここに連れてきたのはお前だ。


 はは、いまさら後悔か?

 ほら見ろ、後悔まみれで不甲斐ないゴミのような俺を、さっさと見捨てて帰ればいい。いっそそのほうが俺だって気楽だ。


 諏訪部の手元には、今度は三層に色の分かれたデンジャー感満載のカクテルが置かれている。

 それの味見が一番ヤバかった。キツいなんてものではなかった。ちょっと泣いた。

 スプリング……ナントカ……みたいな、そんな名前の酒だった。悲しくなってくるくらい頭に情報が入ってこない。だいたい、その色合いはなんなんだ。緑と黄色と薄いピンク。毒々しいにもほどがある。


 ……しかし、本当に美味しそうに飲むよね。君は。

 魔女かな。いわくありげな秘薬を喜々として飲む魔女、といったイメージが速攻で思い浮かんだ。そういう類の人種なのかもしれない。


 一番下の緑のそれは酒ではないのか。は? グリーンチェリー、だと? ふざけてるのか、さくらんぼは赤いものだ。そしてそのまま食べるものだ。違うのか。

 う、やめ、やめろ「あーん」じゃねーよバカ! 謎の秘薬に浸された謎の果実なんぞ誰が食うかよ!


 ああ、常識が全部覆っていく。

 俺の常識……常識? はは、そんなもの、多分この子にとってはまったく常識ではないんだろう。


「つーかお前、露骨に失望に満ちた視線向けてくんじゃねえよ」

「この程度で済んでることをむしろ喜びなよ。ホンット酒グセ最悪だね、桐生さん。さっきまでほとんど顔に出てなかったのに、今もう取り返しつかない感じになってるよ? 会社の飲み会でまともに飲んでなかった理由、嫌んなるくらい理解したわ」

「うるせえ! 元はといえばお前から誘ってきたんだろが!!」

「ここまでだとは思ってなかったもん、正直超ドン引きだよ。……あ、先輩、注文いいですかー? うるさくてごめんねー、次のやつ飲んだら帰るよ。コレもなんとかしなきゃだし」

「コレとか言うな。しかも指差してんじゃねえ」

「申し訳ありませんでしたー」

「棒読み! っつーか謝罪しながらダルそうにスマホ弄ってるとかおかしいだろ!!」

「んー、次はどれがいいかな。あっモヒートにしよ、やっぱ夏はコレだよね! 桐生さんはどうする? 最後もビールでいいの?」

「あっはい、すんませんお願いします……」


 毒舌、毒舌、毒舌に次ぐ毒舌。その癖、意外にも面倒見がいい。本当になんなんだ、こいつは。調子が狂いっぱなしだ。


 社外だからか、いつの間にか普段の「課長」呼びではなく名字で呼ばれている。そんなことばかりが無駄に気に懸かる。

 なんだこれ。デートみたいだ。俺、最高に情けない感じしか出てないけど……とまで考えて、デートなどという思考が浮かんだ時点でアウトでは、と胸が苦しくなった。無論、社会的立場の危機という意味で。


 気を取り直したい。なんとしてでも取り直したかった。

 正面に視線を向け、改めて諏訪部の顔をまじまじと眺める。いつにも増して、目に痛いくらいの派手なメイクだ。

 微かに尖らせた口元に目が向く。アヒル口、だったか……うろ覚えだがとにかく若い。そんな顔をしたところで俺を騙せると思うな、というかお前はなぜこんなおじさんを相手にしているんだ。暇なのか。正気か?


 あ、ところでお前ってその顔、どうやって作ってんの? 完成まで何分かかんの? スゲェね、毎朝そのためだけに早起きするわけ?

 なぁ、今度作ってるところ見せてくれよ。徐々に仕上がっていく様子を隣でじっくり眺めてみたいんだ。わくわく。


 ……などと、口に出そうものなら殴られても文句を言えないようなことを取り留めもなく考えていると、今度は葉っぱまみれのロックグラスが運ばれてきた。


 もひ……もひ……モヒナントカ。短めの名前なのに覚えられなかった。

 そろそろ末期だなという自覚はあった。例によってひと口勧められ、やはり例によっていやいやながら口をつけ……だが。


 ――なんだと。ちょっと美味い。


 な、なんだこれは。お前が頼んだ酒の中で、唯一美味いと思えたぞ。衝撃だ。

 葉っぱはミントだという。そうか。ライムのさっぱりした感じとちょっと甘めの感じ……は? ラム? そうか。

 これなら飲んでやってもいいかな……あ、すみません。そうだね、俺のはそちらのビールですね。そんなに睨まなくてもいいじゃないか。


「あーもうホンットうるさくてごめんねー。この人今の上司なんだけど、いつもはこんなじゃないんだー」


 やめろ。イケメンバーテンにうっかり詳細の説明をするな。

 イケメンバーテンの、少しも陰らない完璧な笑顔がまた痛い。心臓に突き刺さる。


 いいよ、二度とこの店には来ないから……!

 というかとてもではないが来れないよ、恥晒しにもほどがあるだろ今日の俺……!!


 ああ、でもなんだろう。沁みる。諏訪部のさりげない優しさが。

 正直、ここでドン引きされながら「え、あの、あたし、全然、気にしてないんで」などと嘘っぽい笑顔で言われるほうがずっとキツい。それこそ立ち直れなくなる。


 ズケズケ本音を言いつつも、きちんと俺を見てくれている気がする。

 ジョッキの残りだって気に懸けてくれている。さらにはこんな不甲斐ないおじさんの追加注文まで、甲斐甲斐しく取ってくれている。


 改めて、心底、意外だ。



     *



【注釈】

ブルーナントカ→「ブルー・レディ」

バラナントカ→「バラライカ」

スプリングナントカ→「スプリング・オペラ」

モヒナントカ→「モヒート」

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