カンラクカクテル

鞠坂小鞠|夏越リイユ

《1》傷心の夜、ケバい部下に拉致された件

 七月下旬、夏も盛り。

 外を歩けば、燦々と照りつけてくる太陽に全身を溶かされそうになるほどの暑さが続いている。


 とはいえ、この時間になればそれなりに涼しくなる。昨日まではそうだった だが、今日は随分と蒸し暑く、外気温はなかなか下がる気配を見せない。空調の効いた室内だから快適に過ごせているだけだ。

 一歩外に出たらと想像すると、途端に帰宅が億劫になる……いや、正確には「帰宅」ではない。


 今日は、直属の部下と別部署の女性社員の送別会がある。

 二課合同ということで、納涼会も兼ねていると聞いている。これから、その現場に向かわないとならない。


 残業している場合ではないのでは、とも思うが別にこれでいい。自分のような立場の人間など、いないほうが絶対に盛り上がる。

 むしろ、あえて率先して残業を引き受けたのだ。にっこり笑って「先に楽しんでて」と言っておけば、誰も訝しく思わない。部下思いの上司が残業を代わってくれた、やったね、で終了だ。こちらの株も上がるし、いいことずくめだ。


 時計を見ると、午後八時手前だった。

 そろそろ向かわないとまずい。不参加ではさすがに後味が悪いし、なにより残業を代わってやった部下が気を揉む羽目になる。


 社内の飲み会などただでさえ億劫で仕方ないのに、よりによって今日の主役は……ああ、考えたくない。そしてものすごく行きたくない。

 シャットダウンしたノートパソコンを閉じ、俺は戸締まりのために重い腰を上げた。



     *



 部下の楠田くすだと営業一課の青山あおやまさんが結婚するという話を耳に挟んだのは、一ヶ月ほど前だ。

 楠田には他支社への転勤の話が持ち上がっていたが、それを機に青山さんを連れて、とのことだった。しかも青山さんは妊娠しているそうで、会社は退職するらしい。いわゆる「授かり婚」だ。


 こんな言い方は失礼かもしれないが、楠田が、という点は大して意外ではない。問題は青山さんだ。

 入社以来、社内の男どものアイドルだった彼女は、仕事に対して非常に真摯な女性だ。他の社員のミスを補填するために夜遅くまで残る姿を何度も見かけてきたし、そんな彼女がよりによって楠田と……意外でならない。


 授かり婚で退職だなんて、なんの冗談だ。

 誰でもいい、冗談だと言ってくれ。嘘でいいから。


 ――青山さん。ずっと好きだったのに。


 ふたりが付き合っていた事実を一ヶ月前に初めて知ったという滑稽ぶりだ。誰に笑われてもなにも言えない。その手の話題には昔から疎いから、こればかりは仕方ない。

 そもそも、会社は仕事をする場所だ。どいつもこいつも浮足立った話題で盛り上がって、笑わせてくれる……などと、社内の人間に長く片想いしてきた身で言うのも完全にお門違いだが。


 結局、なんとかお開きになる前、送別会兼納涼会が行われている居酒屋へ到着した。


 結論から言って、その場で吐くかと思った。最悪だ。とても耐えられなかった。なんだ、あの楠田のデレまくったツラは。ふざけてんのか。

 はは、良かったな? 社内のアイドルを独り占めして、しかも結婚前に孕ませて、その上で十分栄転と呼べる異動ときた。

 うん、お前は今が絶頂期だ。人生バラ色、というのはまさにこういうときのための表現なんだろう。


 まぁ後は落ちるだけだがな。十年後が楽しみだ。


 ……こんなドス黒い考えしか浮かばない自分が、あの場に居合わせること自体間違っている。だから早々に退席させていただいた。

 感情の一切を顔に出さず済ませる自信はあったが、問題はそこではない。あのムードの中、心からお祝いできていない時点でアウトだ。

 一課の課長もあいにく欠席。それなら、なおさら自分のような立場の人間などいないほうが場の空気も和む。一応顔を出し、主役のふたりに激励の声をかけ、「ほら、二次会で使えよ」と万札を置いて帰るのがこういうときの自分の役割だ。今夜のミッションは達成したに等しい。


 もういい、十分だ。家でひとりで飲もう。

 先週末に買っておいたプライベートブランドの発泡酒を冷蔵庫で冷やしてある。ああ、安酒が俺の帰りを待っている。


 何人かの女性社員――特に一課の子たちが『えー、桐生きりゅう課長、もう帰っちゃうんですか?』とか『来たばっかりなのに~』とか不服そうな声をあげていたが、微笑み返すに留めた。

 その手の顔は、時に言葉以上にものを言う。不満げに口を尖らせていた彼女たちは、俺の顔を見るなり申し訳なさそうに顔を伏せ、以降はなにも追及してこなかった。


 うん、えらいぞ皆。

 空気を、というか俺の内心を読んでくれてありがとう。あ、当然「帰りたい」という内心のほうの話だぞ。


 お開きの時間が近づく前、そっと、かつ足早に店を出た。

 帰ろう。一刻も早く帰ろう。早く自室の冷蔵庫を開けたい。冷蔵庫のドアを開閉したときのひんやりした空気を味わいつつ安ビールを飲んでさめざめと泣きたい、そうやってなにもかも忘れてとっとと寝るんだ。明日も仕事なんだからよ。


 ……などと考えを巡らせていた脳味噌が、不意にくらりと揺れた。

 後ろからぐっと腕を引かれたせいだ。一滴も酒を飲んでいないにもかかわらず、酩酊感に似た眩暈を感じ、堪らず空いた手で額を押さえる。


 誰だ、俺の家路を邪魔するのは。

 降って湧いた苛立ちとともに振り返ると、そこには部下の諏訪部すわべが立っていた。


「えっ……?」


 思わず声が出てしまう。そのくらい意外な人物だったからだ。


「どうも。もう帰んの、課長?」

「……え、ええ」


 砕けた口調で尋ねられ、勢いに呑まれつつも返事をする。

 諏訪部は派遣社員だ。所属は、俺が統括する営業二課。営業事務の仕事に就いてもらっている。つまり直属の部下だ。


 就業規則ギリギリ……いや、十分アウトと言っていいだろう明るい髪色と派手なメイクが特徴の、いわゆるギャル系のお嬢さんだ。

 派遣社員として当社へ配属されて早半年、諏訪部は意外にも仕事が早く、しかも丁寧で精度も高い。正規の事務社員よりミスなく仕事をこなしてくれているのでは、と驚かされることもある。

 派遣にしては珍しく……と言ったら失礼かもしれないが、諏訪部は少々珍しい。例えば業務中、基本的に無駄口を叩かない。加えて、女性社員にありがちな群れる感じもない。淡々と職務をこなす姿が印象的だ。


 だが、どうにも派手なのだ。


 ガングロというわけではない。肌の色は至って普通、むしろ色白だと思う。

 女性社員には制服が貸与されるから、職務中の服装にも問題はない。着崩しているとか乱れているとか、そういうこともない。問題なのはそれ以外だ。


 例えば化粧。ものすごい目力を込めたメイクで出社してくる。それも毎日。

 そこまでガードしなくても、それほど目に汚れは入らないと思う。むしろその塗りたくっている粉こそが、瞬きの際などに眼球を傷めてしまっているのではとつい心配になる。


 私服姿は今日初めて目にしたが、予想を裏切らない雰囲気を前に、もはや感動を覚える。

 肩が剥き出しになった、濃いピンク色のキャミソール。それから白の……ホットパンツだったか、すごく丈の短い……年齢的にもうおじさん寄りだからうまく言葉が出てこなくて悲しい。

 さらに、足元は凶悪な角度のついたピンヒール。頭の先からつま先まで完全に想像通りで、逆にびっくりだ。


 あまりの露出に、正直、目のやり場に困る。

 とはいっても、諏訪部はまだ二十代前半という若さだ。こんなおじさん上司が、その辺りについてあれこれと口を出すわけにはいかない。セクハラを指摘される可能性が高い。諏訪部は、思いのほかキツい性格をしているのだ。


 以前も、新人の酒井さかいがこの子に静かに怒られていた。酒井ときたら、手短な説教だったにもかかわらず半泣きになっていた。

 話を聞いたところ、悪いのは酒井だったようだ。そんなことをされれば事務スタッフなら誰だって怒るだろうな、という感じのミス。諏訪部は仕事で手抜きをしないタイプだから、ミスの内容とそれがもたらす損害の甚大さを、にこりともせず淡々と本人に語って聞かせたらしい。


 その点に関しては、別に諏訪部は悪くない。むしろ、きちんと伝えておいたほうが、次に酒井が痛いミスをやらかす確率は確実に減る。

 だが、残念ながら酒井は己のミスを反省するどころではなかったらしい。半泣きの理由も、自分のミスを嘆いていたのではなく、おそらく単に諏訪部が怖かっただけだ。

 低く呻きながら泣き続ける酒井が不憫で、そっとフォローに回った……というほろ苦いエピソードが脳裏を巡る。


 俺としては、諏訪部といえばその記憶が速攻で蘇るのだが、今回も例に漏れず速攻で思い出してしまった。

 そんな彼女が、俺の腕を掴んだまま微動だにしない。空いた手でスマホを弄りまくってはいるが。


 一体、なんの用だ。


「なにか用ですか、諏訪部さん」

「えー、桐生課長帰んの見えたからー、くっついて出てきただけ。ぶっちゃけそろそろ退屈だったしー」


 ……くっそ。

 部下のプライベートに干渉する気はさらさらないが、なんだその間延びした喋り方は。とりあえずスマホから目を離していただきたい。


 かといって、媚びるような声ではなかった。どこまでも無愛想にダラダラされている。

 これはキツい。下手をすると例の傷口がますます開く。走った動揺をごまかそうと、掴まれていないほうの腕を動かして眼鏡を直すと、「うっわ神経質かよ」と聞こえてきた。お前の知ったことか、と心の中で毒づいてしまう。


 完全に足を止めて振り返ったからか、不意に腕の拘束が外れた。

 気怠そうに指で髪をくるくる弄る仕種を目の当たりにして、さすがに苛立った。人を呼び止めておいて取る態度ではない。


 明るい茶髪とはいえ、勤務中は後ろで一本にまとめられている髪が、今は……盛り髪、だったか。派手にデコレーションされたパフェを連想させる髪型だ。盛られた部分から流れ落ちた毛先が、剥き出しの肩の下で風に揺れている。

 仕事中は真面目だから、見た目で判断するのは良くないよな、と思い始めた矢先にこれだ。


 危なかった。

 コロッと騙されるところだった。


「なにか用? 俺はもう帰りますけど」

「えーマジで? せっかく慰めてあげよーと思ったのにー?」


 ……あ?

 なんか言い出した。最後、なんでちょっとニヤッとしたんだ。怖いんだが。


 しかも、視線の先の対象物がいつの間にかスマホから俺に変わっている。

 頼むからその目力でガン見してこないでほしい。次に喋ることを間違えてしまいそうだ。


「……ん?」

「ねー課長。青山さんの件、残念だったね? 課長ってあの人が好きだったんでしょ?」


 なんとか浮かべていた笑みの形のまま、表情筋が派手に引きつる。

 とんでもないことを言われているはずなのに、即座には否定できなかった。

 投げやりすぎるだろう、口調。そしてなにごともなかったかのようにスマホに戻る視線がつらい。「正直そんなんどうだっていいんだけどさぁー」とでも言わんばかりの態度が、癇に障るどころかもはや感動を生みつつある。


「あっは、当たりでしょー? 超図星って顔してるよ、顔に出すなんて珍しいねー? だからさ、ふたりで飲み直そ? あたしまだ全っ然飲み足りないし」


 軽い口調のまま朗らかに笑っていらっしゃるが、話している内容はとことん容赦ない。「あっは」ってなんだ? 笑うところか? ついでに言うと、勢いに押されて流されそうになっている自分が非常に怖い。

 いやいや、飲み足りないなら今すぐ店に戻れ。どうして俺がお前とふたりきりで飲まなければならないんだ。


 だいたい、なぜ青山さんの件を知っている。

 ……まずい。動揺がひどい。落ち着かなければ。


「青山さんが……なんだって?」

「なんとなくそうかなーって思ってただけだけど、今の課長の顔見て確信したよねー。ヤバいウケる」


 なんなんだ、この女。

 どこからどこまでを知っている。なんて恐ろしい奴なんだ。


「ねー早く行こうよー、どうせ家に帰ったってひとりでヤケ酒して潰れてふて寝するだけでしょ? アイ、いい店知ってんだ。付き合ってあげるからさぁ、ほらほら行くぞ! なんだその辛気くさいツラ、ボケッとしてんな!!」


 ええええ、ちょっと黙れよお前。

 再び引っ張られた腕が痛みを感じるレベルの力強さな上に、誘い文句が無駄にたくましい。

 というかアイって誰だ。もしかしてお前か。いわれてみればそんな名前だった気もしなくもないが、動揺が過ぎてうまく記憶を辿れない。


 お誘いくださったところ誠に恐縮だが、断る。

 お断りする気満々で声をあげかけた矢先、先手を打って諏訪部が口を開いた。


「……あのね、課長」


 かしこまった声が聞こえ、脳内で巡らせていた断りの口上が掻き消えた。

 ふざけ気味の表情も口調も、すっかりなりを潜めている。ヘラヘラと笑っていた諏訪部の顔に今浮かんでいるのは、俺を慮るかのような遠慮がちな気配だけだ。


 文字通り、不意を突かれた。


「自覚ないのかもしれないですけど、課長ね、今かなり分かりやすい顔しちゃってるんですよ。そういうのって愚痴っちゃったほうが絶対スッキリするし、きっとズルズル引きずらないで済みますよ? ね?」


 遠慮がちに覗き込まれ、口がぽかんと開いたきりになる。

 ふざけた態度はすでに見る影もない。まるで俺個人を心配しているかのような物憂げな表情に、つい毒気を抜かれた。


 な、なんだ、急に。うっかり間抜けヅラを晒してしまったぞ。

 ダラダラとした口調は、仕事中と変わらない敬語に戻っていた。ちょっと可愛いなと思った直後、いやいやいやいやいや、ともうひとりの俺が全力で否定し始める。可愛いなどと思わされている時点で相当まずい。


 ……ちょっと待とう。これは多分、普段との、そして直前までのやり取りとのギャップだ。諏訪部のイメージがゼロどころかマイナスからスタートしているゆえに、少しいいところを見て大幅な加点がなされてしまっているだけ。

 頭ではそうだと理解できていて……だが。


「……はい……」


 気づけば、俺は誘いを受けるように頷いていた。

 にっこり口角を上げた厚化粧顔を目にした瞬間、「やっぱ俺、選択誤ったなこれ」という気持ちが脳裏を満たし、すさまじく憂鬱な気分になった。

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