《2》かわいたままの
廃屋へと侵入してきた教会関係者と思しき男たちは、容赦なく私たちを引き裂いた。
大まかに男女で区別をつけられ、私たちは馬車に揺られて連れ去られていく。身体がまともな女は娼館に売る、後は奴隷だ。男たちはそういう趣旨の言葉を交わしていて、それは否応なく耳に入り込んでくる。
自分が抱えているのは、肩に残る焼き鏝の痕程度だ。それなら、奴隷ではなく娼婦にされるだろうか。
馬鹿みたいだ。神様なんていやしない、聖職者も皆嘘つき。あいつらの身体には、頭の天辺から爪先まで、腐った肉が詰まっている。
そんな恨み言がどこに届いたのか、結局、私は娼館に売られることも奴隷にされることもなかった。
乗っていた馬車が直後に暴走を引き起こし、男たちもろとも、私以外の人間全員が死んでしまったからだ。一緒に乗り合わせていた子も、皆。
たまたまその場を通りかかった医師に助けられ、私は一命を取り留めた。
奇跡だと医師は言った。
……なにが奇跡なものか。私ひとりが生き残ってなんになる。
惨劇の記憶のせいでしばらく口の利けない状態に陥った私の回復を、医師とその夫人は根気強く待った。
名の知れた名門貴族の出であるふたりは、私の知能が人のそれより優れているらしきことに、すぐに気づいたという。私自身がその事実を知らされたのは、もう少し後になってからだったが。
卑しい身分の浮浪児であることを告げてなお、ふたりは私を引き取って育てると言って聞かず、そして私は貴族の娘となった。
専属の教師をつけられ学ぶ日々が始まり、教会の内部が完全に腐敗してしまっていることを知った。
学べば学ぶほど――現状を知れば知るほど、それが明確な事実以外の何物でもないという認識が深まっていく。教会関係者が直接人攫いに関与し、さらにはそういった人間の存在を隠そうともしないまでに歪み、腐りきっている。
国を統べる王族たちとて、教会内部に関しては見て見ぬふりだ。腐っているのはそちらも一緒のようだった。
捨て置かれる子供を売りさばき、奴隷に貶める。民を守り導くべき立場にある教会自らが手を染めるそのビジネスを、完全に黙認している。その代わりに、王族たちは王族たちでなにかしらの甘い汁を吸っているのだろう。
両親は、教会に反対する人々に協力的な姿勢を見せていた。
その縁で、私もそれらの反対活動を行う人たちと触れ合う機会が日増しに多くなっていった。
何度か彼らへの助言を繰り返すうち、あなたも活動に参加されてはどうか、と促されたのはいつの頃だったか。
組織の中核を担う人材が欠如していたという状況も手伝ったのだろうが、人より少しばかり優れた知能を持つがゆえに無駄に有用な助言を繰り返す私を、参加者たちは次第に特別視するようになった。両親、特に母はそのことを懸念したものの、私はその流れを拒まなかった。
どのみち半端に助かってしまった命だ、どうせならなにかしらの役に立てた方がいい。
それが、かつての自分のような人間たちを苦しめ続けている教会に対する糾弾になるなら、むしろ望ましいことなのでは。
両親は腑に落ちない様子を見せていた。当然かもしれない。私は流されていただけで、覚悟もなにも胸に秘めてはいなかったのだから。
組織の中核としての立場を得れば、相応の危険がつきまとう。
命を狙われることだって出てくるだろう。自分の命に価値を見い出せない私のような者が、安易にその活動に携わって良いものか、それは確かに気懸かりだった。
そんな曖昧な気持ちをずるずると引きずったまま、結果として彼らの指導者として祀り上げられてしまうまで、それから半年もかからなかった。
あなたと初めて顔を合わせたとき、私はひと目であなただと気がついた。
けれど、あなたはそんな素振りを見せなかった。どれほどあの石を見せつけてやろうかと思ったか分からないが、結局、私はそのたび躊躇してしまった。
互いが生き残れている、それだけでも十分すぎる奇跡だ。
もしかしたら、この人は当時の記憶を失っているのかもしれない。そう思ったら最後、私からはなにも切り出せなくなった。
私たちにとって――否、あの日常を繰り返していた誰にとっても、あの日々は最悪の記憶だ。一度でもあれを体験した人間は、生涯あの苦しみから逃れられない。現状がどう変化したとして、関係ない。蛇のようにまとわりつかれ、延々と苛み続けられるばかり。
この人があの日々の記憶を失っているなら、それは僥倖だ。たとえ私の記憶ごと、すべてが脳内から抜け落ちてしまっているとしても。
燻るような胸の奥の痛みは、逢瀬を繰り返せば繰り返すほど膨張していく。
やがて、教会反対派の内部から、私との接見を繰り返す彼を危険視する噂が立ち上った。誰が最初に口にしたとも分からないまま、余すところなく組織内を駆け回り、染め上げていく。
あり得ないことではないのかもしれない。普通に考えるなら衝撃的な内容であるはずのその噂を、私はどこかぼんやりとした頭で呑み込んでいた。
あの日、私たちを襲ったのは教会サイドの人間たちだった。
女は娼館に売るか奴隷にすると口にしていた大人たち……なら、男は? 奴らは私たちだけでなく、彼を含めた男の子たちのことも全員攫った。なら、彼らにもなんらかの利用価値を見出していたと受け取れはしないか。
例えば、教会にとって都合の良い駒を確保するためだとしたらどうか。
彼は足が速かった。まともな食事を取れずにいたあの頃ですら、そう思えたほどに。
盗みに入るとき、いつだって私は補佐的な役割しか果たせなかった。逆に足手まといになる可能性が高かったからだ。
機転を利かせることも上手だった。捕まって焼き鏝を押しつけられそうになった私を、彼があれこれ手を変えて助け出してくれたことは一度や二度ではなかった。
あれほどの知恵と身体能力があるなら、あり得ないことではない。
記憶を失くしたわけではなく、単に私が私であることに気づいていないだけ。
それは、彼が私を標的にしているという事実そのものより、よほど深く私を抉った。
再会後の彼は、確かに好意的な印象を私に抱いているふうに見えた。
私にひと目惚れしたという。けれど、言葉以上のものが見えない。彼自身が見せようとしていない。私の立場を理解してくれている様子ではあるし、実業家だという自分の素性も明かしてくれた……でも。
なにもかもが薄っぺら。中身の伴わない逢瀬を繰り返しながら、彼は私の防御線が崩れるその瞬間を待っている。
その証拠に、彼はいつも、顔に嘘の微笑みを貼りつけている。まるで私をひとりの人間とは捉えていないかのような空虚な視線。目の奥に宿るそれまでは隠しきれないらしく、それがまた、私を甚く掻き乱す。
ああ、いずれ殺す相手だからそんな目で私を見るのか。ただの標的でしかないから。
ねぇ、思い出して。ああ、でも駄目。思い出さないで。絶対に気づかないで。
矛盾するそのどちらもが私の本心だが、殺さないでとは思えなかった。そもそも理解できないのだ、自分の命が持つ価値を。
地獄のようなあの日々は、私から――私たちから、そんなものまで奪い取ってしまった。
あなたも同じだろうか。にっこりと微笑みながらも声をあげて笑うことはない、目の奥も常に同じ色をしたまま。表情に命が宿っていない……けれど、それはおそらく私も同じだ。
いつまで経っても、私たちは満たされることのない渇きに囚われたきり。
*
決行がいつなのかは分からない、だが二度とあの男と会ってはならない。
それでなくても、お前の命はすでに常に危険に晒されているんだぞ。
数日前に父から告げられた言葉が、否応なしに脳内を駆け巡っては乱反射を繰り返す。
告げられたのは、私の暗殺に関する詳細だった。相当に危険な手を使ったらしく、通常なら考えられないほどに緻密な情報を入手した父は、疲れた顔をして私に説いた。
日に日に、彼に対する周囲の不審感が高まっていく。教会側が放った暗殺者だと囁く者もいた。それでも彼との逢瀬を繰り返す私を、周囲はなじった。
私自身が揺らいでいる。彼の命を繋ぐためなら、この命など別に渡してしまっても構わないのではないか。だって、彼は何度も私を助けてくれた恩人だ。そうやって、自分の死さえも簡単に受け入れてしまいそうになっている。
異常以外の何物でもない。
だとしても、私にはこの人を切り捨てることなどできない。絶対に。
きつく私を抱えながら息を切らせて走る男の胸元に、そっと身を寄せる。
できることなら永遠にこのままでいたい。そんな甘ったれた夢物語に縋りつきたくなり、知らず涙が零れた。
さっきの爆撃音、あれは合図なのだろう。
おそらくは今日がその日なのだと悟る。
この人を死なせたくなかった。同じように、自分の命もここで終わらせるべきではないと思う。それこそ教会側の思う壺、その事実も十分理解できている。
けれど、この人が私を捕らえ損ねたら、この人はまず確実に命を落とすことになる。今の私には、自分の死以外でそれを回避する術を見つけられない。
もっと良い解決方法があったのかもしれなかった。けれど、ただ時間の経過をぼんやりと傍観していた私には、今となっては選択肢などいくつも残されていない。
今になって、自分の行いの軽率さを思い知る。自分の死がもたらすだろう影響を思うと背筋の冷える思いがする……それでも。
腕の中で、あの石を握り締める。
私たちはどちらも自分の名前を知らなかったから、あれだけ長い間一緒にいたのに、互いを呼び合うことがなかった。
だが、焼き鏝を初めて肩に喰らった日だったか。
醜く爛れた私の肌をなぞり、あなたは、助けられなくてごめん、と悔しそうに呟いて、そして。
次からはマズいと思ったらちゃんと俺を呼んでくれ――そう言ったんだ。
アンタにも私にも名前なんてないじゃないか。
そう独りごちた私に、『じゃあ今からつけよう』とあなたは平然と口にした。互いにつけ合ったその名は、生みの親から名すら受け取れなかった私たちの心に、特別な感情を植えつけた。
お願い、覚えているならどうか返事をしてください。
逞しい腕に抱きかかえられながら、願いを込めて囁いたのは、あの日私がこの人につけた名前だ。私たちだけの、秘密の暗号。
……反応は、なかった。
ああ、やっぱりこれで最期なのか。
奇跡は起きなかった。起きなくてもいい奇跡ばかり実現する癖に、神様など、やはりこの世にはいやしないのだ。
今の私の脳裏を満たしているのは、あれほど身を焼いていた教会への不穏な感情でも、死を目前にしているという絶望でも恐怖でもなかった。
碌な知識を持たなかった私が、適当に口に上らせた名前らしき呼称――それを聞いて照れくさそうにはにかんだ、あの日のあなたの顔だけ。
囁きに似た私の声は、乱れた足音と遠い喧騒にあっさり掻き消され、零れた涙ごと空気に溶けて消えてしまった。
こんなにすぐ傍にいる想い人の鼓膜を、少しも揺らせないまま。
〈了〉
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