かみさまのこどもたち

夏越リイユ|鞠坂小鞠

《1》どこにもいない

 濁った色をした街、カビが生えかけたパン、怒鳴り声をあげる大人。

 先端を真っ赤に染めた焼きごて、ところどころ屋根のない廃屋、手や足の欠けた子供、元が何色か分からない黒ずんだ衣服。


 毎日誰かが欠けては、新しく誰かが捨てられてくる。

 それが俺たちの世界――腐っていると分かっていながら、それでも生き続けなければならなかった場所だ。


 最後に交わした言葉を、君は覚えてくれているだろうか。

 それとも、君はすでに幸福の国へと旅立ってしまった後なのだろうか……俺を置いて。


『ねぇ、これ持ってて。これさえあればどんなに時間が経っても、私のこと、私だって分かってくれるよね?』

『また会えるって信じてる。だから絶対に、死んじゃったりしないで』


 あの言葉を覚えている人間は、今はもうこの世に自分しかいないのかもしれない。そう思うだけで心が鮮血を噴き上げる。

 それは本当に、痛くて痛くて、声すらあげることができないほどなのです。



     *



 約束していた場所に数分遅れて現れた俺を、彼女は花が綻ぶような笑顔で迎えた。


 今日ばかりは、遅れての到着は極めて望ましくなかった。だが、直前まで別件をこなしていて、そちらのパートナーがヘマをやらかし、その後の始末に時間を食われた。

 舌打ちをしたくなる。同僚だろうがパートナーだろうが、足手まといになるなら手にかける。今日の相手は、そこまで無能ではなかったようではあるが。


 今回の標的は、この貴族だ。

 現教皇に対して反旗を翻す組織、その筆頭協力者の令嬢。


 自分は教会側に属している人間で、分かりやすく表現するなら駒だ。

 ターゲットを捕らえろと言われれば捕らえる、殺せと言われれば殺す。失敗すれば処分、命令に背けば悲惨な末路を歩まされることが目に見えている。


 珍しく、今回は誘拐や拉致などではなく、ひとのない場所へおびき出して殺害し、その後遺体を回収しろというものだった。

 反組織のリーダー本人相手でもないのになにを大袈裟な、と思いきや、ターゲットの令嬢本人が随分と熱心に活動しているらしい。むしろ、親が彼女を心配しているくらいなのだという。

 ……実際には、その辺りの詳細はどうでもいい。現教皇に対しても特に関心はない。雇い主のそのまた主、それだけだ。腐れきった宗教観も退廃した教会内部の本質も、俺には一切関係ない。その捨て駒として働くことで生き長らえているという自覚はあるが。


 俺が頭を働かせるべきは、遂行のみ。

 すなわち誘拐、拉致、殺害――課されたそれらを、実際に滞りなく行うことだけだ。


 今回の作戦の裏側にどんな思惑が働いているかは知らないし、興味もない。しかし、実行犯である俺がその後捕らえられるリスクは極めて高いだろう。ほとぼりが冷めるまで潜伏するにも困難を極めることは、容易に想像がつく。

 だとしても、俺に選択権はない。それが任務だと言われれば受け入れる。死ね、あるいはターゲットと心中しろと言われる以外は。


 任務に失敗したらそのときは殺せ。だが、自ら死ぬことはできない。

 それが、組織に唯一認められている俺の要望だ。死ねという指令を課されない以上、後は不用意に命を落とさないよう任務に失敗しなければいいだけの話。


 そのためにも、遂行時の時間厳守は絶対だった。

 ただ、幼少の頃から時間の概念が碌にないまま育ったせいか、今も、俺は時計をこまめに確認することが苦手だ。


 遅れての到着を謝罪すると、彼女は「気にしないで」と笑った。


 私も時計を見るのは苦手なの、などと口にしながらも、俺より遅れてやってきたことは過去に一度もない。

 最初は、この女との接触を作戦の一部だとしか思っていなかった。だが、月日が経つにつれて妙に絆されてしまっている気がする。大した時間を過ごしたわけでもないのに、これはどういうことなのか。こういう感覚は、俺のような人間には不要……それどころか邪魔になるだけだ。


「ねぇ、今日はあなたに報告したいことがあるの。後で聞いてくれる?」


 あまりにも嬉しそうに、その上真剣な様子で口を開くものだから、一瞬自分が今なにをしているのか分からなくなりかけた。すぐに内容を聞き返しそうになりつつも、なんとか自分を現実へと引きずり戻す。

 そんなことを聞いてなんになる。そうできるだけの時間の余裕は皆無に等しい。だいたい、「後」なんてものはあんたにはない。俺が根こそぎ奪ってしまうのだから……それも、今から数分も経たないうちに。


 こうやって接近を果たして以降、彼女の様子に変化はない。俺のことを若き実業家だと信じて疑わない様子も、ともすれば違和感として捉えられるほどだ。

 確かに、作戦を計画する側の人間は、ターゲットに怪しまれる可能性を限りなくゼロに近づけるために全力を尽くす。とはいっても、あまりに無防備な気がする。


 この数日の間に、そこまで気を許してくれたのか。そう考えると、なにも知らない目の前の女に対し、同情めいた気持ちが湧いてくる。

 この女を亡き者にしたがっている人間がいて、直接手を下すのは自分。そんなこと、別にどうでもいいことのはずなのに。


 報告したいこと――その内容が無駄に気に懸かる。

 だが、作戦の遂行を前に、余計な情報は寸分たりとも聞き入れたくなかった。


 優に半年を超える月日をかけて綿密に行われてきた計画のすべてが、今日決する。

 失敗すれば処分、それはなにも俺ひとりに課された地獄ではない。同じ条件のもとで怯えながら生きている人間など、他にもごろごろ転がっている……だから、別に。


 そこまで考えが至ったとき、突如、けたたましい爆撃音が周辺一帯に轟いた。


 楽しげに口を開きかけていた女の表情はすぐさま強張り、それに合わせるように自分も驚愕の表情を作り出す。

 予定通り……これは開始の合図だ。俺と彼女が合流した様子を、組織の人間の誰かが確認したのだろう。

 賑わっていた休日の公園は、瞬く間に混乱の渦に落とされた。動揺する彼女の手を引き、人目につかない場所――計画されていたその場所へと導いていく。


 安全な場所にエスコートする恋人にでも見えているのかもしれない。周囲の人間にも、この女にも。

 ああ、そんなだから、どいつもこいつも簡単にひどい目に遭ってしまうんだ。


 時計を見やる。

 定刻まであと二分、思いのほか差し迫った時刻を示す時計の針が目に入り、背筋が冷えた。


 息を切らせて走る彼女は、派手な運動を行うには到底ふさわしくない服装をしている。

 ……遅すぎる。焦る。途中から抱きかかえて走った。そのとき一瞬、言葉では表現しがたい既視感のようなものが微かに脳裏を過ぎったが、その正体を突き詰めている余裕はなかった。


 どうせ殺す人間なのにそこまでしなくても、と思われても仕方ないかもしれないが、問題はそこではない。ターゲットが死ねばそれでいいという単純な話ではない。計画された場所で、計画された時間に遂行しなければ、なんの意味もなかった。

 時間が迫っている。絶対に遅れられない。時間の概念に弱い俺の頭の中身が、先刻からけたたましく警鐘を鳴らし続けている。


 ……まずい。なんでだ、想像より時間が足りない。

 ああ、そうか。今日遅刻してきたんだっけ、俺。だからだ。


 その上、顔を突き合わせた直後に「報告がある」などと切り出されたから、無駄に思考が乱れてしまった。現実に追いつけていない感覚と、得体の知れない焦燥が、じわじわと胸を浸食していく。

 そもそもがタイトなタイムスケジュール、かつ各々が己の命を懸けた暗殺劇だ。わずかな躊躇さえ命取りになる。作戦の遂行が遅れれば、それはすぐさま死という結果に結びつく。

 人の命を狩るばかりのこんな人生など、さっさと終わらせればいい。そう思わないわけではない。それでも。


 死ぬことだけは、絶対に、避けなければ。


『絶対に、死んじゃったり、しないで』


 あの声が、俺の命を今に繋げた。

 あの人だけが俺の……だから、俺は。


 目的の地点まであと数歩というところで、抱きかかえていた女を地面に下ろした。

 わずかに息を乱した彼女は、呆然とした様子ながらも随分おとなしく自分に抱えられていたが、地面に足をつけるなり先刻の惨劇を思い出したようだった。


 だが、それよりも今は。


 手のひらになにか握り締めている様子が見えたが、気を回せる猶予はなかった。

 報告の詳細が毛ほども気にならないわけではないが、もう無理だ。だいたい、自分のような人間がそんなことを気にする必要など少しもない。


 彼女に背を向けたまま、ジャケットの内側に隠し持ったそれに手をかける。


「っ、あ……お願い、聞いて、私……ッ」


 ――ダン。


 閑散としたその場所で振り向きざまに放った凶弾は、やすやすと彼女の胸元を貫いた。

 見開かれた両目に、自分が撃たれたという事実すら理解できていないだろう困惑の色を浮かべたきり、華奢な身体がゆっくりと崩れ落ちる。

 混乱の渦中にあると思しき声を紡いでいた口元は、最後の言葉の形のまま、動きごと止まってしまっていた。一拍置いて、そこからこぽりと零れ出た鮮血が宙に弧を描いた。


 腕の時計を見やる。

 時間ちょうど。間に合ったようだ。


 ドサリという低い音が鼓膜を打ち……後は遺体の回収だ。

 そこまでが今回の指令だった。急所を狙い撃って仕留めた骸をぞんざいに抱え上げた瞬間、小さな手のひらからなにかが落ちた。そういえばなにか握り締めていたな、と今頃になって思い当たり……だが。


 見覚えのある小さなそれに、心臓が不穏な音を立てて軋んだ。


『これさえあればどんなに時間が経っても、私のこと、私だって分かってくれるよね?』


 地面に転がり落ちたそれが立てた耳障りな音が、麻痺した鼓膜を焦がす。

 視界に映り込んだそれは、ひとつの丸いそれが中央から半円型に割れた形をした、琥珀色の石だった。



     *



 突如現れた教会関係者たちにとって、碌な体力を持たない子供の住処を一網打尽にすることなど、赤子の手をひねるに等しいらしかった。

 女は娼館に売るか、奴隷に――そんな声が飛び交い、自分の耳が壊れたかと思ったことを覚えている。目の前が焼けるように赤く染まって、息が乱れて、それでも自分のことではなく彼女のことばかり考えていた気がする。


 隣にあったはずの身体が簡単に引き剥がされ、いかつい男の腕が彼女の手首を捕らえた。その隙間を縫うようにして手渡されたのは、いつか彼女がゴミ置き場で見つけたという、色鮮やかな石の欠片だった。

 盗みに入ったパン屋の裏で彼女が転んだ際、すぱりと半分に割れてしまったさまを、俺も実際に目の当たりにしていた。あの日無理やり手を引いて逃げる間も、彼女はその破片をふたつ、角で手を切ってしまうのではと思えるほど強く握り締めていたのだ。


 それは、地獄のような日々を生き抜いていたあの子にとっての宝物。

 あの子はその片割れを、あの日、俺に……俺に?


 耐えがたい苦痛を強いられながらも、前へ進むために記憶からわざと切り離していたそれが、徐々に頭の中を占拠していく。

 意識とは裏腹に、力の抜けた両膝が地面を叩いた。その拍子に、内ポケットに仕込んだダガーがかちゃりと音を立てて地面に転がり落ちる。カランと音が聞こえ、ぼんやりと視線を下げると、今の衝撃のせいかダガーの柄の部分に嵌め込んでいたある物が外れ落ちていた。

 それはコロコロと地面を転がり、やがて彼女の手元から零れ落ちた石の隣で動きを止めた。


 同じ色の石がふたつ――元はひとつだった欠片。


 ああ、そうか。絶対に無くさないようにって、ここに仕込んでたんだっけ。日頃から肌身離さず持っているものだから。

 いつまで生きられるかなど分からないが、それでも生きているうちにこれを手放すことはないだろうからと思って……それで。


 割れた石は、二度と元の形には戻らない。

 そのはずが、まるで引き寄せ合うように身を寄せるふたつの欠片が、嫌というほど頭を揺らしてくる。


 血の池を広げていく、すでに事切れた身体をそっと抱き寄せた。まだ体温の残る身体は妙に重い。さっきまで同じように抱きかかえていた人と同一人物だとは、到底思えなかった。

 今にも押しつけられそうな焼き鏝から、すんでのところで助け出してやったこともあったっけ……不意に古い記憶が蘇り、無意識のうちに口端から笑いが零れた。


 震える指で、華奢な首筋に触れる。

 きっちりと結ばれたリボンを解き、その先に覗いたわずかな肌――首の下、ちょうど右肩辺りに、ケロイド状となった火傷らしき痕が見えた。


 あの後、どのような経緯を経て彼女が貴族の令嬢となったのかは分からない。

 今、俺の目の前に突きつけられている事実は、俺自身が彼女を殺してしまったという、それだけだ。


 この人との約束を守るためだけに、人殺しの人生を受け入れてまで死ねずにいたのに、こんなのは……おかしい。


 どうして気づかなかった。今頃になって思っても、もう遅い。

 ドブネズミみたいな姿で日々を繋いでいた俺たちは、髪の色も肌の色も、汚れに汚れて碌に判別がつかなかった。痩せこけた頬をした薄汚い姿の少女が一瞬で脳裏に蘇り、その姿が骸と化した目の前の女性の姿と融け合う。そして、次第に明確なひとつの像を作り上げていく。


 どうして。嘘だ。あり得ない。

 数分でいい、時間を巻き戻してくれ。もう一度、この人と話を――そこまで考え至ったところで、自分が巡らせている思考のあまりの愚かしさに乾いた笑いが零れた。


 そんなことを願っても叶いやしない。だって、神様なんてどこにもいないんだ。

 誰にも優しくないこんな腐った世界で俺が見つけられたものなんて、あんたしかなかったのに。全部、あんただけだったのに。


 あんたは俺がそうだと気づいていただろうか。

 報告……ああ、もしかして、そういうことなのか。


「……なんで」


 なんで今日だったんだ。たった数日とはいえ、何度も顔、合わせてただろ。

 時間は腐るほどあった。もっと早く教えてくれていれば、俺もあんたも、こんなことには。


 まともな思考を紡げたのはそこまでだった。

 いつしか大声をあげて笑っていた俺は、たった今彼女を死に追いやった凶器を再び強く握り締め、その銃口を自分のこめかみへ突きつけた。

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