《3》赤い指
治療の核は、会話にある。
僕らの言葉は、言うなれば言霊だ。交わした言葉はそのまま患者の心へ入り込み、傷口の痛みと警戒に震える心の防衛を直接溶かしにかかる。
沈黙も、時に大切な言葉となる。彼らの言葉を引き出すため、そして傷を作った理由を知るために、時間をかけ、頑なに強張った心を解きほぐしていく。
治療中、患者の身体へ直に触れる行為は禁忌とされる。
確かに、傷そのものは直接指を伸ばしたほうが癒える。そのほうが、言葉を交わすよりも確実に彼らの心の内を覗けるからだ。
しかし、この方法では我々に危険が及ぶ。彼らに触れることは、それだけで僕らを脅かしてしまう。ゆえに、治療方法は言葉を交わすことのみ――そう言ったほうが正しいかもしれない。
マヤの傷は深い。完治までには、おそらく、サユリにかかった以上の時間と労力が必要になる。
加えて、マヤは年端も行かない子供だ。こちらの世について説明しようにも、そもそも向こうの側の常識やあり方さえ碌に理解できていないに違いない。言葉による説明だけでおおよそ理解を示してくれる通常の患者とは、そういった面でも異なる。
焦ってはならない。
もちろん、傷は一日でも早く塞がったほうがいい。とはいっても、僕にできることは限られているわけで、焦ったところで仕方がない。
理解しているつもりだった。そんなことは。
だが、頭で理解していることとそれを実行に移せることは、どうやら別物だったようだ。
*
マヤが初めて言葉を発し、三日が過ぎた。
朝、いつもと同じく、僕はマヤの眠る診療室へ向かっていた。
多くの場合、マヤはその頃には目を覚ましていて、ベッドの上に小さく座っている。ひとりでベッドを出ていてもいいんだよ、と伝えても首を横に振るばかりだった。
このふた月、マヤはいつだって僕の迎えを頑なに待ち続けていて、今日もまた同じになるはずだった……だが。
「マヤ?」
開けたり閉めたりするたびに微かに軋む扉を、彼女に呼びかけながらそっと開く。
ベッドに座る金色の髪の持ち主が、ゆっくりと僕を振り返るさまが目に留まり、それきり僕は固まった。
「……え?」
そこにいたのは、見慣れた子供ではなく、大人の女性だった。
ぺたりと足を崩した座り方は、普段の朝のマヤと同じだ。また、彼女が身に着けている、明らかに身体にそぐわない大きさになってしまった濃紺の着物も。
休む前に帯を緩めていたのか、マヤと同じ色を持つその着物は、彼女の肌を隠すという役割をすでに果たせていなかった。
僕を振り返った彼女の、はだけた胸元と大腿の白さが派手に目を焼き、僕は深い困惑に突き落とされてしまう。
「あ、アカル。あの、おはよう……」
……やはりマヤだ。声はさほど変わっていない。
本人も戸惑っていると思しき細い声を聞き、右頬に青黒く残る痣を見て、彼女が今の自分の患者だと信じざるを得なくなる。
こちら側の人間がそういう感覚に頓着しない性質だといっても、いくらなんでも目に毒だ。普通の女性患者特有の警戒心など一切覗かせない、あけすけとも呼べる無防備さが、いっそ呪わしく思えてくる。
けれど、マヤは子供だ。どういう経緯で大人の姿になっているのかは分からないが、精神は子供のままなのかもしれない。
直視に耐えず床へ視線を落とし、必死に平静を振る舞いながら、僕は無理やり声をひねり出した。
「マヤ。その格好は?」
「あ、その。大人に、なりたくて」
「うん。」
「きのうのよる、ねるまえに、そうおもった。そしたら、あさおきたら、なってた」
自覚はなさそうだ。昨日までよりわずかばかり低くなった声色からも、動揺が抜けきれていない様子が窺える。
今、マヤは「大人になりたくて」と言った。その理由が気に懸かる。
今の彼女が思念体であることを考えれば、こうした姿の変貌は決して不可能ではない。しかし過去、ここまではっきりと自身の姿を変化させた患者はいなかった。
元々実体を持っていた彼らにとって、自身の身体が思念体であるという現状が、まず現実的ではないだろう。
多くの患者は、環境には順応できても、自分の身体にまではなかなか順応できない。そのまま、やがて治療を終えて元の世へ帰っていく場合がほとんどだ。
稀に、「化粧をした状態の顔を常に保ちたい」などと願う女性はいた。例えばサユリもそうだった。とはいえサユリとて、その願望が思念体に反映されたのは、彼女がこちらに渡ってきて一年あまりが過ぎてからだ。
つまり、今回のマヤの変化に関しては異例と判断できる。
マヤは、大人になりたいという願いを直に思念体へ反映させ、具現化した。こちら側へ渡ってきてまだふた月、さらにはこちら側の世について説明してから三日しか経っていないのに。
幼さゆえの順応なのか、願う力が強すぎたのか、あるいはその両方が要因として関わっているのか――もしかしたら、深すぎる傷ゆえの願いなのでは。そう考え至った瞬間、胸が不穏な音を立てて軋んだ。
右頬の痣が残っていることが、僕の心を余計に掻き乱す。
姿を変えるほどの願いを叶えられる順応性を備えていながら、その痣は消してしまえないのか。
忘れて、しまえないのか。
「……アカル、どうしたの。これ、いけないこと?」
「っ、ううん、大丈夫。なんでもないよ。いけないことでもない。」
心配そうに眉を寄せるマヤへ、努めて明るく返す。
気づかないふりを貫くには、その軋みはあまりに大きすぎた。それでも、無理やりなかったことにして片づけるしか、僕には手段がなかった。
*
日中のうち、大人の女性用の着物を手配した。
こちらへ渡ってきた患者は着替えの必要がない。思念体になっているからだ。
着るものも、予備を一着用意しておくかおかないかぐらいであって、マヤの着物の予備も一着しか用意していない。それとて揃いの子供用だ。まさか、彼女の治療期間中に大人用のそれが必要になるとは思ってもみなかった。
仕立て屋に用件を伝えると、彼女もまた大層驚いている様子で、だが再びマヤ用の着物を仕立ててくれた。
……暇なのだろうか。ここしばらくは忙しそうにしていたと思うが、意気揚々と新たな依頼を引き受けた彼女は、三日とかけずに新たな着物を完成させた。仕上がるまでの間にと用意された間に合わせ、それだけで十分だとは切り出しにくいほどの張りきりようだった。マヤの髪や目の色に、なにか閃きでも感じ取ったのかもしれない。
以前と同じ濃紺の布地も、施された刺繍の色にも、変化はない。ただ、描かれた模様は、子供用のそれよりも艶やかな、大人らしい柄になっている。
前と同じく、仕立て屋はマヤにそれを着つけるところまで請け負ってくれた。相変わらず言葉数は少なかったようだが、マヤもまた、前回よりは表情豊かに彼女と接していたのではないかと思う。
仕立て屋は、僕らのような者とは違う。彼女を含めたこちら側の人間の大半は、向こう側の人間が抱える傷について理解できない。マヤが傷を抱えている人間かどうか、治療がどこまで進んでいるのか、彼らには判断がつけられない。
だからこそ、仕立て屋はなんの恐れもなくマヤと接していられる。着つけの際、あるいはそれ以外の際にマヤへ触れたとして、即座に心を奪われたり命が解れたりといった心配がない。
彼女がマヤと同じ女性だから、ではない。そんなことよりも遥かに大きな、根本的な理由があるからだ。
なんだろう、この感じ。苛々する。
どうして僕はこんな役割を任されているのだったか。どうしてマヤの傷が、その痛みの程度が分かってしまうのだったか。
そうでなければ治せない、なにを馬鹿なことを考えている……それは理解できている。実際にそう思っている。けれど、僕が言いたいのはそういうことではない。
そういうことではなくて――ではどういうことなのか。
マヤの傷を知らなかったら、きっと、僕はマヤに触れたいなどと思ってはいない。
知っているからこそ触れたいと思ってしまうのに、そんな状態で彼女に触れたら、そのとき僕は……僕の命は。
馬鹿らしい。堂々巡りを繰り返しては溜息を落として、愚かしいにもほどがある。
心が揺れる要因が幾重にも折り重なった結果、僕は、過去に一度たりとも経験したことのない危険を眼前にしている。
そして、そのことを自覚できてしまっている。
*
それから、マヤは大人の姿で過ごすようになった。
それでいいのかと尋ねると、どうやったら元に戻るのか分からない、と返された。やはり、今回のマヤの変化は、明確な意志のもとに訪れたものではないのだろう。
遠慮というよりは、僕も含めた「大人の人間」に怒られることを恐れている。マヤの態度は終始そういった感じで、そのときもまた、僕になにか尋ねたそうな顔をしながら、マヤが口を開くことは結局なかった。僕とマヤの間にある壁は、いまだ厚い。
『大丈夫。僕はマヤに触れないから、叩くことも絶対にないよ。』
『……うん。アカル、たたかない』
安堵の滲んだマヤの表情は、彼女がまだ子供の姿をしていた頃に見せたそれと変わらない。だが、どうしてか僕の目には、少し寂しそうに見える気がしてならない。
マヤが寂しそうなのか、僕の目にそう映って見えるのか、あるいは僕がそう見たいだけなのか……それ以上は考えるべきではないと強く思う。
マヤに声をかけるたび、僕自身がどんどん不安定になっていく。そんな得体の知れない恐怖に煽られ、それ以降は同じ言葉すらかけてあげられず、ただ時間だけが刻々と過ぎていくばかりだ。
外を散歩したり、絵を描いたり、マヤはゆっくりと日々を過ごす。
一度ふたりで散歩したときに、診療所の裏に咲く椿の花を見せた。良い機会だと思ったからだ。
マヤが過ごす診療室の窓からは死角になって見えないその椿は、僕の本体だ。
向こう側では主に冬に咲くらしいが、ここでは常に花開いている。無論、僕の本体だからだ。僕の命が磨り減れば、花も葉も落ちる。
「見て、マヤ。この花……これが僕の本体だよ。」
「ほん……たい?」
「そう。これと僕は一緒なんだ。この花が枯れると僕は死ぬし、僕が死ぬとこの花も枯れる。」
死ぬ、という言葉にびくりと肩を震わせ、マヤは僕をじっと見つめる。
分かりやすいかと思ってわざと直接的な言葉を選んだことを、僕は悔いた。
「ええと、綺麗に咲いてるでしょう。だから、僕はまだまだ死なない。」
「……そっか。よかった」
内心慌てながら急いで補足すると、マヤはほっと息をつき、安堵を覗かせた。
「じゃあ、あれはアカルの花なんだね。あのお花のなまえは、なんていうの?」
「椿。」
「つばき。きれいだね。まや、つばきのえ、かきたい」
ここ数日で、マヤは少しずつ自分の希望を言えるようになってきていた。怯えがちだった当初とは比較にならないほど屈託ない表情で、彼女はいろいろなことを僕に伝えてくれる。
例えば、マヤは絵を描くことが好きだ。画材はこちらでもある程度普及しているから、前回の飴のようにわざわざ作らなくても入手できる。
カンバスと油絵用の絵の具を用意した日には、マヤは大きく目を見開いて固まっていた。
『チラシのうらと、クレヨンで……いいのに』
『チラシ? それはなに?』
『……ううん。なんでもないの、ありがとう』
わざと当を得ない顔で尋ね返す僕に、マヤは笑って首を横に振っただけだ。
目元が緩やかな弧を描くさまも、唇が淡く綻ぶさまも、恥ずかしそうな「ありがとう」という声も、多分、僕はこの先永遠に忘れられなくなる。そう直感していた。
あってはならないこと。残ってはいけないもの。
普通なら焦げつくはずのない心が、危うい燻りに震えている。忘れられなくなると思った理由を明確に自覚してはならない、すべきではないと、強く思う。
それなのに。
絵を描いているマヤは、いつも真剣そのものだ。
指先を真っ赤に染め、ひたすらにカンバスへ向かい、赤い椿の絵を描き続けている。稀に他のものを描くこともあるが、マヤはことさら椿を描くことを好んだ。僕の本体である椿を。
『おうちにいるときよりも、うまくかけてるとおもうの。大人の手だからかな? それとも、どうぐ、りっぱだから?』
『どうだろうね。絵、マヤはおうちでも描いてたの?』
『……うん。おえかきしてると、じかん、あっというまにすぎるの。ママがいないことも、ちゃんとわすれられるから』
ひとりぼっちで絵を描いていたのか。
あんなに小さな身体で、寂しさを紛らわせるために、たったひとりで。
寂しそうに微笑むマヤの横顔がちりちりと瞼の裏を焼き、それはすぐさま全身へ転移を始め……心臓が軋む音は日に日に大きくなっていく。
向こう側で感じていた思いをときおり吐露してくれるようになったマヤに影響され、少しずつ、しかし確実に、僕の心は瓦解を始めていた。
それでもマヤは変わらない。僕の抱える得体の知れない葛藤に気づくこともなく、ゆっくりと過ごし続ける。
口数は相変わらず少ないが、ときおり、寂しそうに僕を見る。子供の姿の頃よりも、主に心配りにおいて大人になっている気がしてならない。身体のみならず、心もまた大人に近づいているということか。
それでいて、向こう側の女性が持つ警戒心や危機感といったものを、マヤは一切持っていない。おそらくは無意識のまま見せているあどけない表情や仕種に、ともすれば簡単に引きずり込まれそうになる。
手遅れなのかもしれなかった。マヤを見ていると、どの患者を見ていたときより、遥かに心が乱れる。
こんな僕に、果たしてマヤの傷を癒すことはできるのか。不意にそうした不安に襲われることも増えた。
僕のこの乱れの理由は、サユリの治療が終わった後、間髪入れずにこの治療が始まったからというだけではきっとない。僕には、すでにこの役割を担う資格などないのかもしれない……そんなふうに気が滅入ることさえある。
どうして、マヤだけが特別に思えてしまうんだろう。
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