《2》飴と約束
新しい患者が訪れ、ひと月が経過した。
あれ以来、マヤは一度も口を開いていない。
来訪の直前に届いていた資料のおかげで、彼女の名前や基本的な情報だけは把握できていた。しかし、それを熟読する、あるいはなんらかの準備を進める、そういう時間的な余裕は一切なかった。
とはいえ、憔悴を極めた彼女の睡眠時間は長く、昏々と続く眠りの間に追加の情報を頭に叩き込む程度のことはできた。
僕はすでに知っているが、自分では名すら名乗らない。それどころか、口を開いているところを一度も見ていなかった。
来訪初日、倒れ伏す直前に僕の手を拒絶したときに放った、掠れた悲鳴。僕の耳に残っている彼女の声は、今もなおそれのみだ。
傷は相当に深いのだろうと簡単に予測がつく。加えて、年端も行かない子供であるという事実も影響しているのかもしれない。
扉の前で蹲っていたマヤの、その憔悴加減は、明らかに常軌を逸していた。
こちらへ渡ってくる患者は、大抵、向こうで過ごしていた最後の瞬間の格好で現れる。怪我をしているならその状態で、薄汚れた服を着ているならその服装で、といった具合だ。
誰もが荒んだ心の持ち主だ。抱える傷や疲弊した内心、そういったものが外見に現れていても不思議はない。ところがマヤの場合は、ひと月が経過してなお、いまだにそれを引きずっている。
もっとも、彼女と僕はまともな会話を交わせていない。ここを訪れるに至った経緯についても、僕はまだマヤに説明できていなかった。
マヤの外見に変化が見られない理由には、当然ながら、そうした事情も影響しているのだろう。
「おはよう、マヤ。昨日はよく眠れた?」
「……」
「もしかして結構前から起きてた? マヤは早起きなんだね。」
話しかけても返事はない。これも予想通りではあった。
かれこれひと月、延々と同じことを続けている。反応がないことを苦とは思わない。僕を含め、こちらの人間はその手のことに淡白だからだ。無視された、理解してもらえない……そうした違和感や苛立ちを、僕らはほとんど感じない。
他人との関わり、それ自体がこちらでは重視されない。生きていく上で必要になったり望まれたりする要素が、向こうの人々とは根本的に異なるのだ。
それがなぜ向こうの人々にとって苦悩の種となるのか、こちらの人間にはそれすらも理解しがたい。僕がそうした事情に思い至れるのは、長年こういう役割を果たし続けているからというだけの話だ。
口を閉じたまま、マヤはぼうっと自分の手を見ている。
袖口を覆う、おそらくは彼女が元の世で身に着けていた服とは作りの異なる衣服が、彼女なりに気に懸かっているらしい。深い青色の目は、紺色の布地から一向に逸らされない。
今、マヤが着ているのは、特別に仕立ててもらった子供用の着物だ。
繰り返しになるが、これほど幼い患者を迎えるのは初めてで、彼女に合う着物もまたなかった。そもそも、サユリの治療終了とほぼ同時にマヤを迎え入れている手前、彼女のための支度はなにひとつ調えられていなかった。
濃紺の布地に、金と白の糸で花の模様が描かれている着物だ。マヤの髪と片目、それぞれと同じ色調で仕上げられたそれは、マヤがこちらに現れた翌日、僕が早々に仕立て屋に頼んでおいたものだ。
どのみち、治療期間は相当に長くなる。それを見越して、せっかくならきちんとしたものをと考えた。
そんなところから心を開いてくれるかもしれない、という打算ももちろんあった。むしろ、ほとんどがその理由によるものと言って良かった。綺麗ごとばかり零しているわけにはいかない。治療の開始は、できるだけ早いほうが良いのだから。
仕立て屋もまた、小さな子供用ですか、と目を丸くして驚いていた。無理もない。
急ぎで仕上げてくれたらしく、仕立て屋は七日の後には完成した品を届けてくれた。僕の目にはいまだに、普段着として使うには少々もったいない一着に見えてしまう。随分手の込んだ仕上がりだ。
納品当日、仕立て屋は診療室へ足を運び、マヤにそれを着せるまでを請け負ってくれた。ひとりで着ろとは言いにくかったし、かといって僕が着せてやるには躊躇があったから、その配慮はありがたかった。ちなみにそこの仕立て屋は女性だ。
着つけられている間、結局、マヤは一度も口を開かなかったという。
特段期待を寄せていたわけではないが、当初の予想通り、前途は多難だ。
*
さらにひと月が経った。
マヤがこの地を訪れてから、ふた月が経過した計算になる。
いつも通りの朝だった。
マヤに声をかけ、マヤからは沈黙を受け取る。それが日常となっていた僕とマヤとのやり取りに、その日、ついに変化が訪れた。
マヤが喋ったのだ。
「……ない……」
「……ん?」
気を抜いていたなら、気のせいかとやり過ごしてしまうほどに小さな声だった。だが、マヤからの反応をこの上なく待ち望んでいた僕がそれを聞き逃すはずもない。
食らいついてはならない。それでいて、糸口を見失うことのないように。細心の注意を払いながら、僕はマヤの言葉をそっと拾う。
「どうしたの?」
「……、たべて、ない……」
「ああ、食事のこと? そうだね、ずっと食べてないね。でもここでは食べなくても大丈夫なんだよ。お腹、空いてないでしょう?」
子供心にも、それがどれほど不思議なことか訝しく思ったらしい。微かに眉を寄せたマヤはまた黙り込んでしまった。
その間、なにごともなかったかのようにカーテンを開き、窓も半分ほど開ける。差し込んできた日差しにふと目を細めたマヤは、自分の手元へ視線を戻したきり、ただじっとしている。
三ヶ所のカーテンと窓をすべて開け終えたそのとき、細い声が再び僕の耳を掠めた。
「……あめ」
「ん?」
「……、あめ……たべたい。いちご、の」
マヤが口にした言葉は、それまでの僕らの会話を完全に無視したものだった。しかし、マヤは腹が減っているからそう告げたわけではきっとない。
複雑に入り組んだ心の内は、たとえ子供であっても変わらないらしい。それは、こちらの人間には理解を及ばせられない種類の思考だ。だが。
なにはともあれ、ようやく引っ張り出せたマヤの願望だ。叶えてやらない手はない。
どのみち、マヤの治療を行うには、彼女の信頼を得ないことには始まらない。これは願ったり叶ったり……絶好の機会でしかなかった。
「そっかあ、イチゴのアメか。」
「……」
「よし。ええと、作ってみるから、ちょっと待ってて。」
怪訝そうに僕へ視線を投げて寄越すマヤの表情は、いまだ硬く強張っている。ふた月前とほぼ同じで、そこに変化は見られない。
だが、僕が告げた言葉をゆっくりと咀嚼しているらしかった。黙り込んだきりでも、これまでは一切見せなかった関心の視線を、今、マヤは僕に向けている。
役割を担って二百五十年あまり、過去に診てきた患者からは、実にさまざまな話題を振られ続けてきた。当然ながら、そこには食べ物の話題も含まれる。
苺、飴――そのどちらも、知識として僕の中にきちんとある。特に苺は植物だ、それを本体として生を繋いでいる人間を知ってもいる。多分、難度はそれほど高くない。
「……こう、かな? それともこんな感じ……いや、もっと……こう……。」
ぶつぶつ呟きながら手を握ったり開いたりし始めた僕を、マヤはやはり怪訝そうに見つめている。訝しげな視線が突き刺さるものの、集中を途切れさせたくない僕はふっと目配せして微笑むに留まった。
……時間稼ぎをしているわけでも、気を惹こうとしているわけでもない。
難度は高くないなどと見栄を張ってはみたが、それなりには難しい。なにしろ「イチゴのアメ」なる食べ物の実物を、僕は目にしたことがないのだから。
とはいっても、ここは思念体のみで構成された世だ。作ろうと思えば作り出せてしまう。無論、誰にでもできるわけではない。こうして向こうにあるものを利用し、患者の信頼を得ることもまた、僕らのような者の力量のひとつということだ。
「……うん、できた。と思う。」
「……?」
「はい、どうぞ。」
手を差し出したと同時に、マヤの両目が大きく見開かれる。
僕の手の中には、小さな紙が蝶々状に結ばれた、丸い物体がひとつ。おそるおそる手を伸ばしてきたマヤは、途中から奪うようにそれを掴み取り、そうっと包み紙を開いた。
中から出てきたものを一瞥し、とうとう、マヤは驚きを隠しきれなくなったらしい。
「……あ」
「イチゴ味イチゴ味って、ちゃんと思いながら食べてね。ええと、もしかしてマヤが思ってたのと違う?」
首を横に振った後、マヤはその小さな口に飴を放り込んだ。
その両目が、見る間にうるうると濡れていく。零れ落ちる涙が、彼女の白い頬を伝ってはシーツへ落ち、染みを作る。
涙さえも、この世においては「ないもの」と思えばなくなってしまう……だが。
しゃくりあげては涙を落とし続けるマヤを、僕は静かに見つめ続けていた。
*
涙が止まった頃、初めて、マヤが僕に自分の名を名乗った。
その後、瞳にわずかばかり警戒の色を宿しつつ、彼女は僕に問いかけてくる。
「どうしてまやのなまえ、しってるの」
「僕がお医者さんだからだよ。マヤの痛いの、治す人なんだ。」
「……まや、びょうきじゃない……」
「けど、痛いでしょう? ほっぺとか。」
言い方が重くなりすぎないよう気を揉みながら告げると、それきり、マヤは黙り込んでしまった。
ここを訪れてふた月が経過してなお、マヤの頬には、明らかに外傷と思われる大きな痣が浮かんだままだ。向こう側で同じ時間を過ごしたとして、十分消えていい頃合いだと思う。だというのに、願えばすぐに消えるこの世において、マヤの痣は少しも消えない。小さくもなっていない。
それは、マヤにとってその痣が、あるいは痣を作ったときのできごとが、心の底に居座り続けている証拠だ。
「……もう一個アメ食べる?」
「……、いらない……」
「そっかあ。」
顔を歪めたマヤの、微かに震える両手が目に留まる。
小さなそれに無性に触れたくなった僕は、躍起になってその衝動を抑え込んだ。
触れては、ならない。
背筋を強張らせ、幾度となく心の中でそう呟き続ける。
本格的な治療を開始しているわけではないが、駄目だ。
触れれば削がれる。心を動かされていてもいなくても、やはり、僕らのような者にとって触れるという行為はそれ自体が危険だ。理屈ではなく、そういうもの……マヤの震えが寂しさに影響されてのものなのではと思ってしまった僕が、今の心理状態でマヤに触れるのは危険だった。
意図的に話題を変えながら、なんとか、僕は再びマヤに視線を向ける。
「ねぇ、マヤ。マヤがここに来てから、僕、ずっと思ってたんだ。マヤの髪の色って綺麗だね。金色で、きらきらしてる。」
目を見て告げると、途端に小さな肩が派手に上下した。解れかけてきていた表情もまた、再び硬く強張ってしまう。
……触れてはならない話題だったらしい。降って湧いた焦燥に駆られながらも必死に取り繕い、僕は言葉を続ける。
「ああ、その、きらきら光ってて……お星様みたいだなって、思ったんだけど。」
呆然と僕を見つめるマヤの頬へ、ほのかに色が差す。
淡く頬を染めるマヤは、精巧に創られた人形のようでいて、ひどく愛らしくもある。その顔を見て、僕はほっと胸を撫で下ろした。
良かった。禁忌というほどの話題ではなかったみたいだ。
「……うん……あの、はじめて、ほめられて、びっくりして……」
「そうなの? そんなにキレイなのにねぇ。」
「……まや、はーふ、だから」
「はーふ?」
馴染みのない言葉に思わず小首を傾げた僕は、マヤの言う「はーふ」が「ハーフ」を示していると、一拍置いてから思い至る。
「うん。パパが、にほんじんじゃ、ないんだって」
「……そっか。」
数十年ほど前まではそんな言葉を聞くことも滅多になかったが、ここ最近では、それを患者から耳にする機会はわずかながらも増えていた。
向こう側の人々が、さらに別の人種との間に成した子のことをそう呼ぶと自分に教えてくれたのは、一体誰だったか――確か、三十年以上前にここを訪れた患者だった。その男性はハーフである女性に思いを寄せ、結果、心に甚大な傷を負ってこちらに現れた。詳細は……まぁ、今そこまで触れる必要はないだろう。
とにかく、話には聞いて知っていた。とはいえ、実際にそのような患者がここを訪れたのは、僕が診てきた中ではマヤが初めてだ。
「パパ、しらない。みたことない、だから……どんなひとか、しらない」
「……そう。」
向こう側の人間にとって、「親を知らない」という事態は、どういう状況を経て起こり得ることなのか。
父親と母親、どちらかが欠けていては、向こう側の人間は世に生まれ出ることができないはずだ。だというのに、マヤは父親を知らないと言う。マヤが産まれた後、間もなく他界してしまったのか、それとも。
『パパ』
そう言いながら、マヤは自分の頬の痣へ指を伸ばした。そのときの表情が、またも、なんの感情も抱いていない無機質なものに戻っているように見え、ぞわりと背筋が粟立つ。
不意に空恐ろしくなった僕は、意を決してある問いを口に乗せた。
「ねぇマヤ。そのほっぺ、どうしたの。」
おそらくこれは、マヤの心の傷にごく近い場所にあるだろう問いだ。
そうと分かっていて尋ねると、案の定、マヤは黙り込んだ。さらには深々と顔を俯けてしまった。
「言いたくなかったら言わなくてもいいよ。でも、僕はマヤのそのほっぺ、治してあげたい。」
小さく上向いたマヤの視線に、自分の視線を絡め合わせる。
マヤは迷っているようだった。しかし、すぐに諦めを滲ませて首を横に振り、彼女は小さく声をあげる。
「……ママに、たたかれた。まや、いい子にできなかったから」
ぽつりと呟く彼女の声を聞きながら、僕は確信していた。
マヤの傷の要因は――化膿を続ける傷口がじくじくとマヤを苛んでいるその理由は、もう眼前にある。
だが、まだ早い。マヤが震わせているのは両手だけではなかった。その顔色からは完全に血の気が引き、唇も色を失っている。髪を褒めたときの反応が嘘のように、彼女は今、深く心を痛めている。
この先を急いではいけない。
下手をすれば、余計に傷口が開いてしまう。今以上の詳細を引き出せるほどには、僕はマヤからの信頼をまだ勝ち得ていない。
「ごめんね。嫌なこと、聞いた。」
「……ううん。いい」
「マヤ。僕は、マヤの痛いのを治す人なんだ。『アカル』っていうのが僕の名前。」
「……あ、かる」
「うん、そう。これからはそうやって僕のこと、呼んでね。それから、ひとつお願いがあるんだ。」
こくりと頷くマヤをまっすぐに見つめ返し、僕は告げる。
「マヤ、僕に触っちゃ駄目だよ。マヤに触られると、僕は死んでしまうんだ。」
大きく開いたマヤの双眸に、分かりやすく驚きの感情が宿った。
その気配に気づいたからこそ、僕は畳みかけるようにして確認を入れる。
「分かった?」
「……う、ん。わかった」
ほとんど間を置かず、思慮深く頷いたマヤは、とても利発そうな少女に見えた。
こちらの人間であれ、向こう側の人間であれ、僕がこんなに小さな子供と顔を合わせること自体ほとんどなかった。
それでも分かる。マヤは賢い。あるいは、彼女のそれまでの常識とは異なるだろう異質なこの環境において、さほど難を示さずに馴染めるだけの、高い順応性を備えている。
そんなマヤの心を深々と抉った要因は、なんなのか。
先刻のやり取りで想像がつく部分もあるが、はっきりした答えまでは、僕にはまだ見えなかった。
「良かった。マヤはとってもオリコウサンだね。」
「……そうかな」
「そうだよ。ねぇ、もう少しお話ししない? マヤのこと、もっと教えてほしいんだ。」
微笑んだつもりではあったが、マヤは動揺を覗かせている。
仕方のないことだとは思う。マヤにとって僕は他人であり、しかもいくつも年上の男。父親を知らないなら、なおさら、僕のような人間と接する機会はほとんどなかったと考えるのが普通だ。
向こう側に暮らす小さな子供たちは、その多くが親に守られながら暮らす。マヤにもその概念を当てはめるなら、知らない大人――僕に、マヤが簡単に心を許すはずもない。
いつだったか、治療中の患者が喋っていた話を思い出す。
知らない大人に平然とついていく子供は、向こう側にはまずいないという。それは非常に危険なことで、どの子供も、自分の親から、あるいは周囲の大人から、「そうしてはならない」ときつく言いつけられているものなのだと。
その常識が、マヤにもまるごと当てはまるかどうかは分からない。頬の痣の原因が「ママ」、すなわち彼女の親にあるとしたら、その手の注意をマヤが正しく受けていたかはかなり疑わしくなる。だが。
「……アカル、は、まやのこと、たたかない?」
「えっ、叩かないよ。僕、マヤに
驚きつつも伝えると、マヤは表情に安堵を浮かべてみせた。
その理由を――それをマヤが「大人の男性」である僕に見せた理由を、このとき、僕はあと一歩踏み込んで考えるべきだった。
マヤがさっそく心を開き始めてくれているのかもしれない、などと期待している場合ではなかったのに。
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