Killing me softly
夏越リイユ|鞠坂小鞠
Killing me softly
《1》重篤
月日は巡る。
与えられた役割を果たす。ひとつの役割を終えたなら、新たに訪れる役割を静かに待つ――その繰り返しだ。
そのことに疑問を抱くはずもない。僕らのような者たちは、誰もがそうやって生きている。
自分に与えられている役割は、確かに他人のそれよりも幾分か重い。だがそれさえも、不服と捉える要素にはなり得ない。用意されている道を、ただ、日々歩き続けるだけ。
疑問に思うことはない。思ってはならない。そもそも、そうした疑問に思い至ること自体が異常である。この世界に生きる者にとっての「普通」とはそういうものだ。
それは安定であり、平穏でもある。この世で生きていくための常識、認識、そんな類のもの。
僕も、曲がりなりにも続けていたのです。そうした生き方を。
それなのに、あなたは僕のそれを根底から壊し、粉々にしてしまった。
あのときに僕が感じていたことを、いつかあなたへ詳らかに伝えられたならと、からっぽになった心のどこかでずっと思っていた。
*
「気をつけてね。」
「ありがと! ……って、それどういう意味? 後はもう私、この部屋から出るだけなんでしょ? あ、戻った先でってこと?」
「はは。そういう意味もあるかもねぇ。」
「あはは、そうだね。またアカルのお世話にならないようにしなきゃね!」
目の前の女性は、くるくると表情を変えながら、大きく口を開いて笑っている。
二年前、死人じみた顔でここを訪れたときとはまるで別人だ。今の彼女の顔も、声も、生きる希望に満ち満ちている。
この人の傷は完治した。後は元の世界へ戻り、歩むべき道を進んでもらうのみ。
できることなら、またこちらへ訪れることのない、豊かな人生を歩んでほしいと思う。そうでなければ、僕がこの人の治療に携わった意味がなくなってしまう。
「……じゃあ私、そろそろ行くよ」
「うん。」
「元気でね、アカル。あーあ、私が触ったらアカルの寿命が縮むって話じゃなかったら、戻る前に一度抱いてほしかったんだよなぁー!」
「あはは、やっぱり最初に言っておいて正解だった。サユリみたいな女の子に不用意に触られたら、命がいくつあっても足りないよ。」
「うっさいバーカ、チャラい童顔茶髪の癖に! 反則だよ、触っただけで寿命が縮むなんて。キスもできないとかマジで最悪」
「待って待って、チャラいってなに? 童顔だって結構気にしてるんだぞ、軽い感じで
あはは、と彼女はまた高らかに笑う。
軽口を叩き合えるようになって、どれほどの月日が経ったか。初めてのそれが遠い昔のことに思える程度には、今の彼女の表情は明るく、光り輝いている。
「けどほら、サユリはとっても綺麗な人だから。向こうで幸せになれるよ、僕のことなんかすぐに忘れてね。」
「……忘れないよ。椿の花を見たら、そのたびに思い出すと思う」
椿、という言葉を強調するサユリは、少々不服そうだ。
椿は僕の本体だ。こちら側の人間は皆、物に宿った思念体が人の形を成したものであり、特に僕らのような役割を担う者たちは植物に宿っている場合が大半だ。
実体ではない。今の彼女は、まだ。
だから、今の彼女の姿は、初めてここを訪れた当時とほぼ同じだ。
肩の上で緩く巻かれた明るい茶髪に、十分派手と呼べる化粧。着ているものだけが例外だ。今、彼女は女性患者用の地味な着物を着ている。当初との違いはそのくらいだが、それも、向こうに戻れば彼女が普段着用していた衣服に戻るはずだ。
なにごともなかったかのように、なにもかもが元通りになる中で、果たして彼女の心にはどれほどこちらの記憶が残り続けるだろう。どれほどの間、僕の記憶が留まり続けるのだろう。
『忘れないよ』
きっと、その言葉はサユリの本心だ。
サユリは嘘をつかない。それは、決して短くはない治療期間を通して僕が理解した彼女の本質だ。
しかし、向こうの人間は――彼らの心のあり方は、時にこの上なく残酷だ。
「じゃあね、アカル。ばいばい」
減らず口の合間に覗いた彼女の本心には、気づかなかったふりを貫くことにする。
そんな僕のごまかしも、サユリにはすべてお見通しなのかもしれなかった。だが、それでもサユリは、そうと分かっていてそれを許容できる程度には聡い。
「うん。ばいばい。」
口元を緩めて零した僕の最後のひと言に、サユリは、扉の取っ手に指をかけたきりで振り返ってにこりと微笑んだ。そして、それ以上なにも言わずに出ていってしまった。
彼女の両目が濡れて見えたのは、単なる僕の気のせいだと思うことにした。
*
――終わった。
ひとり残された診療室の中を、小さく落とした溜息がうろうろと泳いで消える。
役割を終えたときに僕を満たすものは、達成感でも安堵でもない。不安定な浮遊感、それのみだ。
サユリの治療期間は、他の患者に比べると長いほうだった。およそ二年の月日を経て、ようやく、彼女の心は健康な状態まで修復を果たした。
サユリは、向こうで「ほすてす」なる仕事をしていたという。
こちらでは聞かない言葉だが、要は男性を相手にする女性の職業らしい。働き続ける中で、意図せず同僚の恨みを買うに至ったサユリは……相当ひどい目に遭ってしまった。それが彼女の来訪の理由だった。
ここを訪れて十日あまり、サユリは口さえまともに利けない状態が続いていた。
彼女を襲った悪意の正体について、僕が知るに至ったのは、治療開始から半年が経過した頃だった。
ここ数十年、こちらを訪れる患者たちが抱えている傷は、少しずつ深くなってきている傾向にある。向こうで生きることは、きっとそれほどまでに困難を極めることなのだ。
彼らが語る自らの傷の原因は、他人からの悪意であったり、偏った愛情であったり、あるいは燃え盛る嫉妬であったりと、実にさまざまだ。豊かな感情がもたらす歪みによって深い傷を負った彼らは、それでもいずれは立ち上がる。「もう一度」と、心の底からそう願うようになる。
……自分だったらどうか。
そんな考えが不意に脳裏を掠め、僕は苦笑交じりに首を左右へ振り、それを掻き消した。
どうかしている。ここ最近は、考えなくても良いことばかりが頭を巡る。
僕らと彼らでは、生きる理由も、そこに見出す価値も、なにもかもが根本的に異なる。生きる世界が違う、すべてはそのひと言に尽きてしまう。
『反則だよ、触っただけで寿命が縮むなんて』
『キスもできないとかマジで最悪』
『忘れないよ』
サユリは、別に特別でもなんでもなかった。彼女よりももっと破天荒な言葉を残して去っていった患者など、過去にいくらだっていた。だが、僕らのような人間が長い期間接し続けるには、向こうの人々の心はあまりに豊かすぎる。
引きずり込まれてはならない――そう明確に意識していないと、簡単に流されそうになる。例えば、彼らが抱える傷の理由に。あるいは、彼らが再び立ち上がろうとするその強さに。
彼らの心の変化は、こちらの人間にとっては毒に等しい。そして、僕らのような者はなおさらその毒に弱い。時にひどく甘美な気配を湛え、それは僕らの目に映り込んでしまうことがある。
再び溜息を落とした、そのときだった。
玄関の扉を叩く音が聞こえた気がして、ふと我に返る。慌てて玄関に向かい、扉を開くと、そこには馴染みの配達屋の姿があった。
「毎度どうもー。配達です。」
「どうも。お久しぶりです。」
食事の必要がないこの世で、よくここまで肥え太ったものだ……毎度ながら、相手の豊かな腹部に目が向いてしまう。
取り繕うように視線を上げると、朗らかな笑みを浮かべる彼と目が合う。人の好さそうな笑顔の中に、わずかに同情めいた気配を察知し、僕は思わず眉を寄せた。
「え……まさか通達じゃないですよね?」
「あっ、ええと……その。お仕事、今日で終わりでしたよね? いや本当に大変ですねェ、新しいお仕事みたいですよ。」
配達屋の顔には、今度こそはっきりと同情が滲んでいた。理由は、彼が今口にした通りの事情によるものだ。
対する僕はといえば、知らず溜息を落としていた。
このところ、治療を終えてもすぐに新しい患者の情報が届く。休暇など、情報が届いてから新たな患者が訪れるまでの数日間しかない。
そもそも、向こうの人間に接すること自体が、こちらの人間にとっては危険だ。僕らのような者たちは、そうした危険と常に隣り合わせで役割を果たしているに過ぎない。
一度治療が始まってしまえば、決して短くはない期間、訪れた患者とほぼ一対一で過ごし続けることになる。その間、彼らの豊かな感情に引き込まれてはなるまいと、四六時中、細心の注意と自覚を保ち続けていなければならない。
僕らのような者たちは、他の人間に比べ、基本的な性質が向こう側の人間のそれに近い。そうでなければ、彼らが抱え込んだ複雑な心の内や、傷を深めた原因に対し、うまく理解を及ばせられなくなるからだ。
役割を果たすために、向こうの人々に近い心を持っている。同時に、彼らの豊かな感情と心の変化に、流されやすい環境に置かれている。
僕らの役割は、そうした矛盾と危険を常に抱えながら執り行わなければならないものだ。加えて、そのことにさえ必要以上に疑問を抱いてはならない。己の存在について疑問を抱くことは、それそのものが僕らの存在を脅かすことに直結するからだ。
今日落としたどれよりも重い溜息が、薄く開いた口から零れ落ちる。
瞬間、配達屋は手にした書類を強引に僕へ握らせ、逃げるように去っていった。なにを伝える間もなく、丸々とした彼の後ろ姿は見る間に小さくなっていく。
ふう、と息をつき、僕は改めて手元の封筒へ視線を向けた。なんの変哲もない角型の茶封筒だが、なんの変哲もないとは到底思えないくらいに分厚く膨らんでいる。その表面、右上の部分に記載されているのは、「
伍。これも、まただ。
堪らず、僕は空いた指で目頭を押さえた。ここしばらく、重度の患者ばかり任されている。
訪れる者の傷の深さを示す際、その指標として「壱」から「伍」までの漢数字が用いられる。伍は、それが最重度の患者であることを意味している。
サユリは「
こうした異変が少しずつ深まり始めたきっかけは、二年前にある。同じ役割を担う者のひとりが禁を犯し、この世を去った――それが発端だ。
数十年前であれば「伍」と認定されていただろうサユリが「肆」の患者としてこの地を訪れたのも、ちょうどその頃だった。
役割の中核を担っていたその男は、すでにこの世にはいない。この世の異端者は、自らを異端と罵らない世へ羽ばたいていった後だ。そして残された僕らは、ますます身動きを取りにくくなる中で、これまで以上の重責に喘いでいる。
歪んだ口の端から、何度目になるか数える気にもなれない溜息が落ちた。
新たな憂鬱を抱えたきりで室内へ戻り、僕は封筒の中から書類を引っ張り出し……だが。
「……え?」
思わず声が零れた。
真っ先に目に留まったのは写真だ。そこに写っていたのは、幼い子供がひとり。
こちら側へ、子供は滅多に現れない。特にここまで小さな子供は、僕が役割を担い始めて二百五十年あまり、一度も診たことがなかった。
再び写真に目を落とす。髪色が特に目を惹く。サユリのように、元の髪色から別の色へ染めている患者は、近年では珍しくなくなってきている。だが、こんな幼い子供でも染髪するものだろうか。写真の子供――女児の髪は、眩しいほどの淡い金色だ。
僕自身、こちら側においてはやや異質な色素を持って生まれ落ちた人間ではある。しかし、これが生まれ持ったものだというなら、この子供のそれは僕の比ではない。
よく見ると、伏せがちな瞳の色も、過去の患者たちのそれとは異なっていた。片方が黒、もう片方は微かに青みがかった色をして見える。
なんだ、これ。
つい首を傾げてしまう。単なる光の具合なのか、あるいは写し方のせいか。
年齢は五、六歳といったところか。肩の上で揺れる、柔らかそうな金の巻毛――それが緩くかかる頬には、外傷と思しき大きな痣が浮かんでいる。
逸らされた視線も、写真であるにもかかわらず伝わってくる憂いを孕んだ表情も、確かに、この子供が心に傷を抱えていることの表れだ。
……こんなに小さな子供が?
ぞわりと背筋が粟立った。同封されていた複数枚の写真を揃えて机の端に置き、次は本人の詳細について記された書類をと指を動かした、そのときだった。
ゴン、と、なにかが扉にぶつかるような鈍い音が響いた。
はっと玄関を振り返る。
椅子から立ち上がると同時、扉越しに、なにかがドサッと地面に落ちる音がした。
喉が鳴る。走った緊張をどうにもできないまま、玄関へ足を進めていく。取っ手へ指を伸ばし、慎重にそれを押す。
「……あ……。」
薄く開いた扉の先に、丸いなにかが見えた。
それが人――小さな子供の背だと気づき、次いでその頭部を彩る鮮やかな金色が目に飛び込んでくる。
「……、ぅ、う……」
背を丸めた子供の呻きは細く、すぐには身体が動かない。
……まさか、こんなに早く訪れるとは。混乱に呑まれた頭に思い浮かんだのはそれのみだ。
写真で見たよりも遥かに鮮やかな金の髪が、小刻みに震える背に合わせて揺れる。怯えた瞳が髪の間から覗き見え、僕はようやく確信に至った。
深い海の底――僕自身、それを実際に見たことはないが――を彷彿とさせる、昏くも鮮やかな瞳。それも片側だけだ。
「ぁ、だ、れ」
「医者だよ。立てるかな?」
「……ぁ」
弱々しい呻きを最後に、子供はなにも言わなくなってしまう。そのときになってから、果たしてこの子は言葉を理解できるのかという疑問にぶつかった。僕が告げた言葉の意味を、この特異な色素を持った子供は、どこまで正しく拾えるのか。
だいたいが、これほどに幼い子供なのだ。自分が今どこにいるのか、なにが起きたのか、大人でも理解に時間がかかる。この子供にそれを咀嚼できているとは思えなかった。
診療室に連れていきたいが、自力で立ち上がることもできない子供を前に、僕はすっかり途方に暮れていた。
見るからに憔悴している。この状態では、治療云々といった問題以前に考えるべきことがあるように思う。
抱きかかえて運ぼうかとも思ったが、直に触れることはさすがにためらわれてしまう。
たった数刻前まで、向こうの別の人間と――サユリと接触していた身だ。保つべき精神状態が、本来の状態にまだ戻りきれていない自覚はあった。サユリとの最後のやり取りを経て、向こうの波長に捕らわれたきりの僕の心は、今この子供に直接触れてなにごともなくいられるとは思えない程度には波立っている。
ここまで間を置くことなく次の治療を始めなければならない状況は、過去になかった。とはいえ放置するわけにもいかない。
この子供は「伍」の患者だ。悪戯に傷を深めさせている場合ではなかった。
そもそも、治療を始めるまでに相当の時間をかけねばならない可能性が高い。その間、いかに今の傷を同じ大きさに留めておけるかが鍵になる。放置などして、無駄に傷を深めさせるわけにはいかなかった。
大丈夫だ。
少し触れただけでどうにかなるとも思えない。
僕は、あいつとは違う。
ちり、と胸の奥が焼ける感覚があったが、無視した。
骨と皮のみでできあがっているような細い腕へ、僕はゆっくりと手を伸ばしていく。
「怪我はしてない? ここは寒いから、中においで。」
向こう側の人間を安心させるための謳い文句を、そっと口に乗せる。
こちら側の人間は怪我をしない。否、怪我をしたとして、痛いと思わなければ怪我にはなり得ない。身体そのものが思念体だからだ。
精神が現象を上回っていれば、現実に起きていることにはならない。同じ理屈で、暑い、寒いといった感覚とも僕らは無縁だ。空腹や喉の渇きとも。
しかし、向こうからこちらに訪れたばかりの住人は違う。感覚的なものが身体に残っている可能性は高いし、それ以前に、訪れて間もなくこちら側の仕組みに順応できる人間がいるとは思えない。
おいで、という言葉に反応したのか、丸い背中がぴくりと動いた。
意識はあるらしい。僕の声も聞こえている。ほっと安堵の息をつき、地面に放られた小さな手を拾い上げようとした――その瞬間だった。
「っ、いや……ッ!」
ぱん、と乾いた音が辺りに響いた。それが差し伸べた手を払われた音だと、一拍置いてから気づく。
払われた手に痛みなど走るわけもないが、この状態の子供に伸ばした手を払いのけられたという事実にこそ衝撃を受け、僕は堪らず目を見開いた。なおも衝撃に揺れる視界に、少しずつ、地面に倒れ込んだ小さな身体の全貌が映り込んでくる。
「……マヤちゃん?」
資料に記されていた名で呼んでみるが、反応はない。
仕方なく、抱きかかえて運ぶことにした。背に腹は代えられない。だいたい、はなからそうするつもりで手を差し伸べたのだ。僕は。
重いと思いさえしなければ、どれほど大きな人間でも抱え上げられる。それが、思念体のみで構成されているこの世の理屈であり、常識だ……だが。
こちら側でなくても、この子供の身体は、もしかしたら鳥の羽と変わらぬ重さしかないのではと思う。そしてそれは、おそらく、子供だからという単純な理由によるものばかりではない。
わずかにでも力を込めれば簡単に骨が砕けてしまいそうなこの身体つきは、きっと。
新たな患者――マヤを抱え、開いたきりの玄関を通り抜ける。
たった数刻前まで別の患者が使っていた診療室へ、僕は静かに足を向けた。
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