《4》傷の形

※ 幼児の虐待・性的虐待描写あり




 一年が経った。


 こちら側と向こう側の時間の流れは変わらない。向こう側のマヤが今どうしているか、不意に気になってそれを確認したのは、ひと月前のことだ。

 向こう側の様子を覗く鏡――それは、僕らのような者の仕事道具のひとつだ。

 その鏡を使い、マヤを映し出した。本来は、まだ向こう側にいる来訪予定の患者を視る道具だが、そのときは、向こう側に残っているマヤの実体を視るために使った。


 本来の目的で使用していないせいか、あるいはマヤがすでにこちら側にいるせいか。映し出された映像は大きく乱れ、とにかく判別がつきにくかった。

 なんとか視えたものは、虚ろな目をして椅子に腰かけている小さなマヤの姿だ。それから、そのマヤの手を握る男の姿。そこへもうひとり、髪の長い女性が歩み寄ってきたところで、映像は途絶えてしまった。


 マヤの傍にあった男女は、ちょうどマヤの親くらいの年齢だろうか。男の髪色は黒だった。だから、彼はおそらくマヤの父親ではない。

 女のほうはそれこそ予測がつかない。彼女がマヤの母親である可能性もある。だが、映像の最後に映り込んだ、思慮深くマヤに伸ばされる両腕を考えると、彼女が幼いマヤの頬を打つような人間だとは思いがたい。


 彼らは誰なのか。

 マヤの実体は抜け殻状態にある。そんなマヤを、あれほど愛おしそうに見つめるあの男女は、一体。


 こちらへ渡ってきている間も、患者の実体には時間が流れている。


 家族や知人に保護されていたり、病院内で寝たきり状態になっていたりする患者もあるが、食事など最低限の日常生活を送れている人も珍しくない。不思議な現象ではあるが、実体から完全に意識が途切れることは稀で、最低限の生活や快・不快の意思表示ができる程度には意識が残るらしい。

 その年齢に達するまでに培った日常生活の送り方や常識などが糧になり、命を存続させようと本能が働く――ある人物からの受け売りではあるが、そういうものだという。


 だが、マヤは違う。彼女は小さな子供であり、加えて傷の大きさが尋常ではない。

 結果、彼女の精神はこちらに渡りきり、向こう側のマヤにはほとんど意識が残っていないようだ。


 鏡から手を放し、震える溜息を落とす。

 ……まあいい。大人の人間に保護され、大切に守られていることが分かっただけでも。


 万が一マヤの実体に危害が及べば、こちらの世で傷を治せたとして、癒えた心を持って帰る先がなくなってしまう。それでは意味がない。だから、良かった。

 マヤの手を握る男に対して感じた苛立ちは、なんとか無理やりごまかした。



     *



 マヤに対して僕が抱く、不穏な――それも普通とは明らかに異なる感情の蠢きに、葛藤を巡らせながらも必死に否定を重ね続け、一年あまり。

 月日の流れは僕らを待たない。いっそ残酷なほど平等であって、ともすれば気が滅入りそうになる。


 治療はほとんど進んでいなかった。傷ができるに至った真の要因を、マヤ自身がまだ口にしていないからだ。

 それを経ない限り、成果は望めない。だからといって、無理に口を割らせても意味がなかった。結局、マヤが自発的に話してくれる日を待つしかない。

 頬の痣は、微かに痕が残ってはいるものの、元の肌色に戻りつつある。時間が解決した面もあるのだろう。治療がどうこうというよりは、きっと、頬を打った人物と長期間顔を突き合わせていないことこそが強く影響している。


 そしてまた、今日という一日が終わろうとしていた。

 マヤは画材を片づけ、僕はといえば、部屋の隅で新しい蝋燭に火を灯し、欠伸を堪え……そんな僕に、マヤが遠慮がちに声をかけてきた。


「……あの」


 振り返ると、マヤが僕を見つめていた。真剣な瞳が、暗がりの中にあってもまっすぐに僕を射抜いていると見て取れる。

 途端に、心臓がぎりぎりと軋み始めた。


 ごまかしも、ここまで来ると限界に近い。なんとか平静を保ちながら、マヤの言葉に必要以上に心を動かしてはならないと、強く自分に言い聞かせる。

 そのせいでマヤへの態度が素っ気なくなることも、マヤが悲しそうに顔を歪めてしまうことも、どちらも痛いほど分かっていた。ここしばらくはこうしたやり取りばかり続いていて、ますますマヤを苦しめてしまうのではと危惧することもあった。


 だが、これ以上は僕がもたない。


「……アカル」

「なに?」

「マヤのこと、アカル、もしかして、きらいになった?」


 思いもよらないことを尋ねられ、危うく、手にしていた使用済みの蝋燭を取り落とすところだった。

 ……どうしてわざわざそんなことを。気が滅入りそうになりながらも、僕は小さな既視感を覚えていた。マヤに尋ねられた内容にというよりは、それを口にしているマヤの表情に対してだ。


 うろうろと泳ぐ不安定な既視感の正体は、過去に診てきた患者だった。それも特定のひとりではない。

 思い詰めたような、それでいてある種の決意を滲ませたような。マヤの表情は、かつての患者たちが自身の内側を――心の傷に関係する言葉を紡ごうとしているときの顔に、ひどく似ていた。


「そんなことないよ。どうしてそう思ったの?」


 尋ね返しながら、胸が高鳴る。

 冷静にならなければ。もしかしたら、今、マヤは。


「……だって、アカル、マヤにさわらない」

「そうだよ。僕はマヤに触れないし、叩いたりもしない。約束したでしょう?」

「うん、しってる……でも」


 淡い蝋燭の灯りに浮き上がるマヤの顔には、困惑が色濃く滲んでいる。

 迷っているのだと察した。それを口に乗せていいものかどうか、一度話し始めたにもかかわらず、今になって怖気づいているような、そういう顔だ。


 やがてマヤは目を伏せた。

 いつしか大腿の横で握り締められた彼女の手は、拳を作っている。


「あの人は、……さわったよ」


 蝋燭の炎が揺れる。

 それに合わせてマヤの顔色が黒く沈み込んだ気がして、ぎくりとした。


「あの人?」

「うん。ママの、かれし。ママがいないとき、おうちにきて、それで……」


 ばらばらの言葉を貼り合わせるようにたどたどしく話すマヤの声を聞きながら、僕は確信していた。

 ようやくこの日が来た。マヤが、自分の傷について自ら打ち明けてくれる日が。


 無理やり治療をしても、一方的に心へ入り込もうとしても、マヤの傷は塞がらない。だからこそ、この瞬間を待ちに待っていた。

 平穏に過ごしてきたこの一年あまり、マヤの精神は、ここを訪れた当初より遥かに安定している。とはいえ、傷が塞がったかどうかという基準で考えるなら、それは亀の歩みよりも遅いとしか言えなかった。


 けれど、これでやっと――それなのに。


「まやのからだ、いっぱい、……きもちわるかった」

「……。」

「やめてって、言った。そしたらたたかれて、ママがかえってきて、たすけてって、ママに言って、でも」


 ぞわぞわと胸が騒ぐ。

 聞かなければならない。確かにそう思っているのに、これ以上は聞きたくないと心が悲鳴をあげている。


「ママ、おこった。今まででいちばんおこった。いっぱい、たたかれて、……いたくて、こわくて、まやは」


 ――まやは。


 沈黙が落ちる。

 蝋燭の弱々しい灯りだけでは、室内のすべてを照らしきることはできていない。そんな暗く淀んだ光景から、わずかに残る色までもが消え失せていく。


 ……これが、マヤを苛む傷の形。

 それに近いものだろうとは、だいぶ前から推測できていた。だが。


 眩暈がした。

 向こう側は悪意に満ち溢れている。たった数年しか生きていない子供が、無残に心を引き裂かれてしまうほどの、醜く爛れた、両の世に漂う穢れをすべて掻き集めてできているかのような、底無しの悪意。マヤの中に蓄積したそれが、見る間に僕を呑み込んでいく。


 自覚をごまかし続けることを、このとき、僕は初めて手放した。

 結局、いずれはこうなると心のどこかで理解していた気もする。それもずっと前から。


 手にしていた短い蝋燭を、雑な所作で机に置く。

 蝋燭と蝋燭がぶつかり合って転げる音が聞こえたのか、深く俯いていたマヤがびくりと身体を震わせ、僕を見上げる。


「……アカル?」


 怯えたような呼び声を無視し、僕はマヤの傍へと歩み寄っていく。

 近くまで歩を進めてから、夜目の利かないマヤの双眸をじっと見つめる。見ようと思えば見える。僕は――こちら側の人間は、そういう生き物だ。


 窓の前で立ち竦むマヤの細い腕を、勢いに任せて引く。

 もう変えられない。僕の綻びは、隠し続けてきたそれは、解放されてしまった。


「アカル。だめ、……はなして」


 マヤの声は大いに上擦っていた。またその顔色は、暗がりであることを差し引いても青白い。血の気が引いているのだろう。

 仕方がない。触れれば死ぬ、彼女にそう言って聞かせたのは他ならぬ僕自身だ。


「大丈夫。」


 囁く自分の声が、驚くほど耳に遠い。

 ……なにも今に始まったことではない。自覚したくないと必死に思い込んでいる時点で、それは自覚できていることと同義だ。

 今、マヤに触れようと触れまいと、崩壊の準備はとうに始まっていた。


『お前、正気なのか』


 かつての友人に向けて放った言葉が脳裏に蘇る。

 もう三年も前のことになる。同時に、まだ三年しか経っていないのかとも思う。


 あの日、彼の背後にひとりの患者が覗き見えた。僕を見て驚いたように目を瞠ったその女性を、彼は、焦った素振りで彼の診療室へ閉じ込めてしまった。

 言い方は悪いが、抜きん出て美しい容姿をしているわけではない。目立った特徴のない、ごく普通の女性にしか見えなかった。

 どうして彼がそこまでして彼女に尽くし、心を砕いているのか、さっぱり理解できなかった。禁忌を犯してまで、文字通り命を砕いてまで、その女性を守ろうとする意味が。


『俺にとって、彼女は生きる理由のすべてだ。お前には分からないだろう……分かりもしない癖に、俺を異端だなんだと責めるのはもうやめてくれ!』


 吐き捨てられた彼の言葉にすら、理解は及ばなかった。

 当然だ。彼は最初から異端だった。僕らのような者の中で、彼だけが根本的に異なる、本来あるべき規格から外れた存在。

 手に負えなかったから、理由の判然としない焦燥も苛立ちも、僕はまるごとその場に投げ捨てた。理解を及ばせられない自分こそが悪いことをしている気にさせられ、とにかく不愉快だったのだ。勝手にしろ、と最後に告げ、あの日の自分はわざと苛立ちを足音に込めて帰路に就いた。それなのに。


 ――ああ、とうとう分かってしまった。


 かつての友人が抱いていた心境を、抱え込んでいた葛藤を、今頃になってから、僕は心の底から理解できてしまっていた。

 友人の破綻に触れたあの日から、僕の崩壊はすでに始まっていた気さえしてくる。今だからこそそう思うだけなのかもしれないが。


 どうして、触れてはいけないんだろう。

 どうしてマヤがこんな目に遭わなければならないんだろう。これほどの苦しみに、こんなに小さなマヤが、どうして。

 もしかして、マヤの傷は僕には治しきれないのでは――降って湧いた恐怖が、僕を深い酩酊に突き落とす。


 抱き寄せたマヤの身体は柔らかく、またあたたかい。この感触もぬくもりも、僕にとっては永遠に知る必要のないものだった。

 治療を繰り返せば繰り返すほど、患者たちの渇望は最終的にここへ辿り着くと、人との繋がりこそが彼らの心を満たすのだと、そう思い知らされてきた。だからこそ、治療を終えた後、彼らは自身の世界へ戻ろうと考える。なぜなら、彼らが求める人との繋がりは、僕らのこの世では手に入らない。

 自分が生きる世界はここではない。正常な心を取り戻した彼らは、必ずそう思い至る。それは僕らが教えることではなく、彼らが自分自身で気づくべきことだ。そして、これまで治療してきた誰もが、自発的にそのことに気づいていた。


 でも、マヤはどうか。

 マヤは、元々十歳にも満たない子供だ。さらに、向こう側で生きてきた月日の中で、おそらくマヤは人との繋がりがもたらすあたたかなものを手に入れていない。自分が生きていく上で、それがどれほど意味のあるものなのか、彼女はまだ知らずにいる。

 だとしたら、マヤの治療は行き着く先が明確ではない。その先にあるものが幸福だと、それこそが本来の自分らしさだということを知らない以上、いくら治療を施したところで意味がない。


 つまり、僕には、彼女の傷を癒すことなど永遠にできないのでは。


 派手な眩暈のせいで、床がくらくらと揺れて見える。

 傍から香るマヤの髪の匂いが、碌に回っていない僕の思考を余計に掻き乱してしまう。


 触れれば死ぬ、だから触るな。マヤにそう伝えたのは僕自身だ。今まで、マヤは従順にその約束を守り続けてくれた。寂しそうにしていても、絶対に僕に触れようとしなかった。

 今、僕がマヤの腕を取ったときも、彼女は血の気を引かせて「放して」と言った。マヤは忘れていない。ただでさえ自身の傷に喘ぐマヤを、さらに耐えがたい苦痛の波に晒してしまっているのは、他ならぬ僕自身。


 僕の身体を引き剥がそうとするマヤの腕は、弱々しくも頑なだ。

 金糸に似た長い髪が、窓から差し込む微かな月明かりに照らされ、揺れる。ゆっくりと指を伸ばして艷やかなひと束を手に取ると、マヤは深く俯き、静かに首を横に振った。


「アカル。はなして。まやにさわったら、アカル、しんじゃう」

「……マヤ。」


 悲痛な声を聞きながら、ああ、言わなければ良かったなと思う。

 マヤが僕に触ったら僕は死ぬ、なんて、どうしてわざわざ言ってしまったんだろう。あの日の僕は。


 牽制のために伝えてきた言葉だった。サユリにも、それより前に診た患者たちにも、同じようにそう伝え続けてきた。

 誰もが守ってくれた。けれど、マヤにとってはどうか。この一年あまり、その言葉はマヤを延々と縛り続けてきたのではないか。今も、マヤは「放して」と言いつつも顔を歪めている。それでいて、僕の手を強引に振り払うことまではできずにいる。


 マヤの髪を梳く自分の指が、明らかに透けて見える。ごまかすことを諦めた僕の身体は、間もなく、空気に溶けて跡形もなく消えるに違いなかった。

 この人に触れると、どうしてそれだけで僕の命は削れてしまうんだろう。マヤを置いて、どうして消えてしまわなければならないんだろう。

 悔しいと、初めて思う。生まれて始めて覚えた感情に揺さぶられながら、マヤの細い身体をそっと抱き寄せる。


 消滅が決定した今の自分に、なにかできることはあるだろうか。

 ……例えば、僕のこの消えかけの命を利用してみてはどうか。本当ならきちんと治してあげられれば良かったが、この状態では、僕はきっと明日までもたない。ならば、せめて今からでもマヤの傷の要因について聞き出し、そこを糸口にできる限り癒やすことができたなら。

 不意に脳裏を掠めたその案が、追い詰められた僕を突き動かす。


「そいつに、他にどんな目に遭わされたか……教えて、マヤ。」


 頬を撫でると、マヤは嫌だとばかりに身じろぎをして、僕はその仕種までもを愛おしく思う。

 認めてしまえばこんなにも簡単なことで、しかし、次の瞬間には自分の透けた手が視界に入り込んでくる。透明になりかけているそれがマヤの目に映ってしまわないよう、僕はマヤの頭を抱えて胸元へ抱き寄せた。


「アカル、もうやめよう。アカルがしんじゃったら、まや、やだよ」

「教えて。僕はマヤを助けたい。」


 僕の拘束を抜け出そうと藻掻いていたマヤが、動きを止めた。


「……うう……」

「マヤ。お願いだ。マヤの傷を、全部、僕に見せて。」


 声がうまく喉を通らない。途絶えがちな僕の声を聞いて、マヤが不審に思っていなければいいと心から思う。

 半透明の自分の手など、恐ろしくてとても見つめ続けていられない。抱き寄せたマヤの髪を撫でながら、ただ、僕はマヤの言葉を待ち続ける。


「っ、うう、アカル。わたし、……わたし、あの人にね、ふく、ぬがされて、」


 ――むりやり、足、ひらかれて、それで。


 涙と苦痛に染められきった言葉の最後、マヤはくぐもった呻きを落とす。


「ちが、いっぱい出て、いたくて、だれもたすけて、くれなくて、」

「……っ、マヤ。」

「あの人、おさけくさくて、たばこくさくて、きもちわるくて、……はきそうで、そういうこと、こども、こどもは、やっちゃいけないって、なのに、ママ、たすけてくれなかった……ッ!!」


 がんがんと、頭の内側から、金槌で殴られるような。

 鈍い、鈍い、痛み、否、麻痺の、ような。


 どろりと、なにかが溶け落ちる感覚が走った後、目の前が真っ暗になる。


「アカル。まやのほっぺ、もう、あんまり……いたくないの」

「……うん。」

「それって、アカルがまやのこと、なおしてくれたからでしょう? でも、なおったらまや、ママのところに、かえらなくちゃいけないんでしょう?」


 嫌だよ、と続くマヤの声が、少しずつ遠くなっていく。


「アカルといっしょに、ずっとこっちにいちゃ、だめなの?」

「……マヤ。それは、」

「いやだよ。だってまや、むこうにもどったら、ママとあの人にころされちゃう、……だから」


 ――だから、アカル、おねがい、まやのそばにいて。


 耳の奥が焼ける。痛みよりも、ただ激しい熱さがあった。

 窓から差し込んでくる緩やかな月明かりが、辺りを血の色に染めていく錯覚に襲われ、僕は固く目を閉じた。

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