You can't catch me 番外編
《1》夢見がちな妹御による見解と結論
確か、あの日は土曜だったと思います。
午後から急に仕事が休みになって……だから私、職場からお姉ちゃんの病院にまっすぐ向かいました。
そのときに、聞いてしまったんです。
引き戸の取っ手に指をかけようとしたちょうどそのとき、病室の中から声が聞こえてきました。男の人の低い声と、女の人の言い訳じみた声が。
女の人は少し動揺している感じで、一体なにを話してるんだろうって思いました。看護師さんにしては喋り方がたどたどしいし、相手と思しき男性の声も、父のそれとは明らかに違う。
だいたい、昏睡状態のお姉ちゃんの前でなにを言い争っているのか……それ以前に、あなたたちは誰で、どうして勝手に病室に立ち入っているのか。
正直、文句を言ってやるつもりだったんです。でも、引き戸をわずかに開いて、私は派手に息を呑みました。
正面に覗いたのは、お姉ちゃんの恩人でした。私からは背中しか見えない人物――女性を、彼は鋭い視線で睨みつけていて、え、と思いました。彼、普段はとても温厚で、そんな顔をするような人だとは思っていなかったから。
そのままズカズカと室内に足を踏み入れられれば良かったんですが、私、すっかり固まってしまって……扉の前でふたりの話を盗み聞きしたんです。いけないことだとは分かっていたけれど。
「どういう理由でここに来たのかは知りませんが、この人があなたの見舞いを喜んで受け入れるとは思えません。お帰りいただけますか」
「あ、あなた誰? 私……私は、ただ咲耶が心配で……」
「うーん。ご自分がなさったこと、まさかお忘れですか? 図々しい」
相手の女性はすぐにはなにも返さなくて、多分、絶句したんだと思います。
どういう意味だろう、と私は私で目を見開きました。扉越しに聞こえてくる「なにを言ってるの」という女の人の声は派手に震えていて、余計に意味が分からない。いいえ、それよりも。
むしろ、彼の声こそが恐ろしく感じられていた気がします。
冷たいというよりは、機械みたいな無機質な声。そんな声で話す人だと思っていなかっただけに、びっくりしてしまって、それで動けなかったと言ったほうが近いかもしれません。
「職場以外の人間はなにも知らない、とか思ってるなら勘違いも甚だしい。あれだけ咲耶を傷つけて、職場から居場所まで奪っておいて……よくのうのうと顔が出せましたね」
「……な……」
「あなたたちが傷つけなければ、咲耶が事故に遭うことはなかった。そういうふうには考えられませんか」
扉越しに、女の人の震える吐息が聞こえてきて……廊下にまで聞こえてくるほどだなんて、きっと相当に動揺していたんだと思います。
「ああ、そうか。咲耶がなにも話せない状態だから、この隙に謝ってしまおうって魂胆なのかな。咲耶が聞いていようといまいと、謝ればそれだけであなたの気分はだいぶ晴れるでしょうし」
「あ、あなた……なんなの!? 失礼よ、なにも知らない癖に……ッ」
途端に鼻で笑う声がして、息が止まりました。
まるで自分が責められているような錯覚があって、今すぐこの扉の前から離れたほうがいいんじゃないかって、確かにそう思って、でも動けませんでした。
「全部知ってるわけではないですけど、あなたたちの不誠実を責めてやれる程度には知ってますよ。ああ、そういえばご結婚なさったんですよね、おめでとうございます。いかがですか、友人の恋人を寝取った気分は? 幸せ?」
「っ、な……なんなの、あなた……」
「帰れよ。気持ち悪い」
どんどん不機嫌な調子になっていく声の最後、唐突に口調が変わって、とにかく怖くて、私は咄嗟に扉から離れました。
そのときになって、病室の扉が磨りガラスの窓つきであることを思い出したんです。窓越しに誰かがいることに、彼は気づいていたかもしれない。そう思ったら息が詰まってならなくて、でも。
「帰れっつってんだよ、聞こえねえのか。さっさとしろ……じゃねえとテメェらがやらかしたこと、咲耶の家族に全部バラすぞ」
咲耶の家族。
その言葉にぎくりと背筋が強張って、ますます動けなくなってしまいました。息をひそめて壁に張りついて、ただ続くやり取りを待って……それしかできなかった。
「あ、……あ……」
「たとえ咲耶が許しても、俺は絶対に許さない。相手の男も同じだ……二度と咲耶の前に顔を出すな。もし破ったらそのときは、」
――ふたりまとめて殺す。
その言葉を投げつけられているのは私ではないのに、喉が乾いた音を立てて鳴って、あ、まずいな、と思って咄嗟にその場を離れました。
少し離れた先のソファに腰を下ろした瞬間、病室の中にいた女の人が飛び出してきて、逃げるように去っていきました。座る私の目の前を小走りに通過していく彼女は、ひどく強張った顔をしていたと思います。
あの女の人は、お姉ちゃんになにをしたんでしょうか。
彼は「職場から居場所を奪った」と言いました。それから「あなたたちが傷つけなければ、咲耶が事故に遭うことはなかった」とも。不誠実、寝取った、相手の男……それらの言葉を踏まえるなら、あの女の人がお姉ちゃんの恋人を奪ったということになるのかもしれません。
問題は、なぜそれを彼が知っているのか、です。
事故以後のお姉ちゃんしか知らないはずの彼が、なぜ。
足音を忍ばせ、再び扉の前に辿り着くと、わずかに開いていた扉の隙間から彼の顔が見えました。
眠るお姉ちゃんの、点滴に繋がれた右手をそっと握る仕種が、目に焼きついて離れなくなりました。それから、そのときの彼の顔が泣いているように見えたことも。
見てはいけないものを見てしまった気にさせられた私は、慌てて扉から離れました。さっきまで座っていたソファにもう一度腰かけ、呼吸を落ち着かせようとして、でもなかなか収まらなかった。
あの女の人に向けた激情は、見間違いだったのかもしれない。
そう思いたかったのに――お姉ちゃんの手を握りながら泣きそうな顔をしていたことを思い出せばすぐにできそうだったのに、結局、私にはできませんでした。
*
あの日の時点で、事故から三ヶ月が経過していました。
あの頃には、お姉ちゃんの身の回りの整理もある程度一段落していて、後は目を覚ましてくれる日を待つばかりという状況だったんです。
なにかを忙しくこなしている間は、余計なことをなにも考えなくて済むのに、もしこのまま目を覚まさなかったら……なんて、手が空いてくるとどうしても考えてしまう。あのときお姉ちゃんの傍にいた彼も、同じ心境だったのかもしれません。
私もお父さんも、彼の事情を碌に知りません。名前さえ教えてもらえなかった。元々お姉ちゃんと面識があったのかどうかも。
私たちが知っているのは、事故のときにお姉ちゃんを助けてくれた人だっていう、それだけです。
事故当日にたまたま現場を通りすがったとは聞いていました。もしそれが本当なら、お姉ちゃんと彼の間に面識があったとは思いがたい。そう考えるのが普通だと思う、でも。
でも、そうじゃないんです。多分。
応急処置をしている間、彼はお姉ちゃんの「名前」を呼んでいたらしいから。当時の救急隊員さんの話をまた聞きしただけだし、実際にどこまで本当なのかは分からないけれど。
だとしても、あれからずっとお見舞いに足を運び続けてくれていることもあるし……やっぱり赤の他人だとは思えない。
それから、あの女の人とのやり取りもそうです。
あの女の人がお姉ちゃんのお見舞いに来たのは、私が知る限りではあのときが初めてだったと思います。
事故からかなりの時間が経ってから初めてお見舞いに来たということは、それほど親しい間柄ではないのかもしれません。それとも、大変な状態だと分かっているから、あえて落ち着いた頃を見計らって来てくれたんでしょうか。私だったらそのくらいしか考えつきません。それなのに。
明らかに、彼はあの女の人の素性を知っている感じでした。彼女がお姉ちゃんにひどいことをしたという、そんな具体的なことまで。そして、お姉ちゃんを庇うようにして、最後にはあの女の人を追い返してしまった。
眠っている間に勝手に謝罪を済ませることは許さない、傷つけたことを絶対に許さない――そういう、脅しとも受け取れる言葉を叩きつけながら。
扉の隙間から覗いた彼の、眠るお姉ちゃんを見つめ続ける表情が、瞼の裏に焼きついたきり離れない。
あんな視線、普通は面識のない人間に送るものではないと思うんです。「殺す」なんて言葉を、親しくもない人間を傷つけた相手に叩きつけるとは……思えない。
分からないんです。彼が何者なのか。
一度、どうしてもと食い下がって素性を尋ねたことがあって、そのとき彼はお姉ちゃんについて「名前も知らない初恋の人に似ている」と教えてくれました。けれど、それだけでは今のお姉ちゃんの詳細を知っている理由にはなり得ない。
どうして何度もお姉ちゃんのお見舞いに来てくれるのか。それでいて、私たち家族に名前のひとつも明かしてくれないのはどうしてか。面識がないと言いながら、お姉ちゃんの抱える事情を詳しく知っているのはどうしてなのか。
あの女の人がお姉ちゃんを深く傷つけた人間だと、そんなプライベートな事情まで知っている理由は、一体なんなのか。
愛おしそうにお姉ちゃんを見つめる彼は、お姉ちゃんが目覚める日が訪れたら、ふつりと消えてしまうのでは――どうしてかそんな悲しい印象を、今日も、私は彼に見出してしまうのです。
ねえ、お姉ちゃん。
その人のこと、お姉ちゃんは知ってるの? お姉ちゃんにとってその人はどんな人? 大切な人なんじゃないの?
だったら早く目を覚まして。
そうじゃないと、その人、消えちゃうかもしれないよ。
そんなことが起こるはずはないと頭では分かっているのに、お姉ちゃんの目覚めの瞬間まで、私はずっとそのことばかり考えていたんです。
*
お姉ちゃんが目を覚ましたのは、それから三ヶ月後――事故から半年近くが経った頃でした。
彼の話を伝えた途端、点滴を引きちぎらんばかりの勢いで痩せた足を動かして、廊下に飛び出して……驚いたのは私も父も一緒でした。普段のお姉ちゃんとはまるで別人だと、確かにそんなことを思った気がします。
転んだり倒れたりしたら大変。そう思って、私、慌ててお姉ちゃんを追って病室を飛び出したんです。
廊下に出て左右をきょろきょろと見渡した私が見つけたのは、お姉ちゃんを大切そうに抱きかかえる彼の姿でした。
あ、と思って、また見てはいけないものを見てしまったとも思って、けれど私に気づいた彼は、お姉ちゃんの背中越しに静かに微笑んで、私に向けて人差し指をそっと唇に当てたんです。
『……内緒ですよ』
声には出さず、唇を微かに動かしてみせただけ。それをどうして私が読み取れたのか、そこはいまだに謎のままなんですけど。
その仕種を見たときに、なんとなく分かった気がしたんです。彼だけではなくお姉ちゃんも、多分、彼に会いたかったんだろうなって。
狐につままれたような感覚って、ああいうことをいうのかもしれません。
だって、これでは「ふたりの間に面識がない」という話が嘘になってしまう。でも。
お姉ちゃん、ずっと眠り続けてたのに、どうしてその人の名前を知ってるの?
人付き合いの苦手なお姉ちゃんがそうやって縋りついてしまえるくらい、お姉ちゃんはその人に心を許してるってことなの?
なんで? いつの間に?
もしかして、眠ってる間……とか?
細かいことは、今もさっぱり分かりません。でも。
あのふたりを見ていると、やっぱり運命って実在するのかなって、そんな夢見がちなことばかり考えてしまうんです。
〈夢見がちな妹御による見解と結論/了〉
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