《5》186日目、午後7時35分
戻ってくる、とは違う。
別々のものがひとつになる、ともなにかが違う気がする。
元はひとつだったものがなんらかの理由で分かたれ、それが本来の形に戻る――最も近いのはそれだ。多分。
それぞれが異なる場所に生まれ落ちた時点で、どちらかの生涯の最後までに対峙を果たすことは、まず確実にあり得なかった。
自分たちのその運命を変えたのは、彼女だ。二十二年前の、共同墓地での偶然の遭遇……あれがきっかけとなり、自分は無意識のうちに「もうひとりの自分」と接触を果たした。夢という媒体を通じて。
もうひとりの自分は、おそらく生まれ落ちる世界を間違えた。あの本質は、どう足掻いたところで向こう側の摂理にはそぐわない。
三百年も前から耐え続けていたようだが、さすがに限界が近づいていたのだと思う。
三百年前、日本はまだ江戸時代の半ばだ。そんな頃から、と思うと溜息が出そうになる。どれほど耐え忍ぶ性格をしているのか……その点だけは自分と似ていない気がしてならない。
なんにせよ、もうひとりの自分がいよいよ追い詰められた頃に、自分がこちら側に生を受けたこと。そして、両方が無意識、あるいは夢の中の話だとしか認識できていなかったものの、きちんと接触を果たせていたこと。
奇跡と呼べるだろうそういう事象がいくつも折り重なり、その結果、今がある。
……中でも、一番の奇跡は。
『ある人物が、君たちの接触に大きな影響を及ぼした』
自分も、もうひとりの自分も、それぞれが君に出会えていたことなのかもしれない。
自分たちが運命を捻じ曲げることで救われたのは、きっと、君だけではなかった。
*
『良かったねぇ! いやしかし……へぇ、まとまるとそんな感じなんだね。完全にひとつの人格に混ざり合っちゃうんだね、二重人格になるとかじゃなくて。』
満面の笑みを浮かべつつ軽口を繰り出してくる眼前の人物に、胡乱な視線を向ける。
心なしか、普段より声のトーンも高いようだ。二度と顔を合わせることはないだろうと思っていた相手との想定外の再会を前に、これは夢の中で起きていることだと分かっていながらも辟易してしまう。
普通の夢とは微妙に違う。自分の発言も、相手に対して抱く感情も、完全に制御できている。つまり、正確にはこれは夢ではない。夢を介した単なる干渉だ。
『……浮かれすぎでは?』
『えっ? いや、浮かれてなんてないよ~全然。まとまった実物ってあんまり見たことないなー、すごいなーって思ってちょっとワクワクしてるだけ。あっ、それってもしかして浮かれてるってことだったりする?』
……よく喋る男だ。今に始まったことではないが。
いや、実際には男ではないのかもしれない。三百年にわたる長い付き合いがあるにもかかわらず、自分は相手の性別さえ知らない。
『うわぁー睨むなって、怖いよ! それより今日はね、いいこと教えてやろうかなって思って来たんだ。聞いて聞いて。』
『いや、結構です』
『だから聞く前から断らない! そっちに行ってもそれか、君って奴は!』
ぎゃあぎゃあうるせえな、と危うく声に出そうになったところを強引に堪えた。さらにうるさくなることが目に見えているからだ。
沈黙をもって続きを促すと、相手は窺うような視線をこちらに向けながら口を開く。
『あのさ。君、彼女がこのままずっと目を覚まさないんじゃないか……とか思ってない?』
目を逸らし、返答を避けた。
別に図星というわけではなかったが……いや、同じか、と薄く自嘲する。確かにそれは、ここ最近の自分が抱き続けている不安に他ならない。
『もう半年経つしね。心配だよね? でもね、そこは私もちゃんと考えてるんですよ。』
『……は?』
思わず眉をひそめた。
軽口を叩いていた口調とともに、相手の表情もまた引き締まる。こちらの内心を推し測るように、相手は続ける。
『君が彼女を我々の側へ連れ去り、思念体となってなお残った彼女の怪我の応急処置を行い、その後、眠り続ける様子を半年あまり見守ったこと。彼女が目覚めた後には、禁忌を犯しながらもひと月治療を施したこと。それらは紛うことなき真実だ。実際に起こったことだよ。』
目を見開いた。
頭の内側から目を直に刺激しているような痛みを覚え、語る相手の口元を凝視する。
『君が事故に巻き込まれた彼女を助けたあの日、時間はすべてを打ち消しながら巻き戻ったわけではない。戻すべき時間だけを戻し、残すべき記憶は残るよう配慮した。』
『……配慮……って』
『君、そのことをすごーく気にしてたでしょう? 大丈夫。彼女は覚えてるよ、君に治してもらったこと。ちゃんと君を覚えてる。』
穏やかな声だと思った。今まで聞いた、相手のどの声よりも。
それは、この心を半年間蝕み続けてきた澱に他ならなかった。自分と彼女との間に流れていたはずの時間が、唯一共有したそれが、なかったことになってはいないか――そう思っては心を軋ませてきた。
三百年もの間ほとんど波打つことのなかった心の内側は、この半年でとにかく揺れた。
惑い。怯え。震え。そういう類の感情には特に手を焼いた。どうしてこんなにも心が乱れるのか……実体に収まったことによる反動なのか、あるいは本来あるべき場所に生きられていることによって芽を出した衝動なのか。その判別はついていない。
早く目を覚ましてほしいと願った、あの日の記憶。それすらも「なかったもの」になっているとしたら、彼女の目覚めを待つこと自体が間違いなのではと思ってしまいそうになる。
もし彼女が目を覚まし、目が合って、そのときに誰だか分からないような顔をされたら、きっと自分は壊れる。
それくらい、彼女はこの心を占拠している。わずかにも欠ければその瞬間に崩壊が免れなくなるほど、必要不可欠な存在になってしまっている。
相手も、そうと分かっていて今の話を切り出してきたに違いない。
忌々しい……睨むように視線を投げると、普段ならおどけた調子で飄々とかわしただろうに、相手は意外にも真面目な態度を崩さなかった。
『大丈夫。あの子はもうすぐ目を覚ます。だって、今日で何日目?』
『は?』
『彼女が事故に遭ってから今日で何日目だい? それに、あのときあの子は何日目の何時に目を覚ましたんだっけ?』
あのとき。何日目の、何時。なんのことだ……まさか。
にやりと笑う相手の口元を見つめながら、くらりと眩暈に襲われる。
『……なんの……話だ』
『はは、いい顔。めっちゃくちゃ溜飲下がったよ。……まったく、三百年も隠し続けてくれるなんてね。私ってそんなに信用なかったかい?』
『まぁ……そうですね』
『否定してよ! いやでも本当、もう少し事前にそういう部分を見せてくれてたらね、こっちも早めに助け舟を出せたよねっていう話なんだよ。』
頭が回りきっていない。何日目の何時――そのことで埋め尽くされた今の頭では、相手の話を碌に追えない。
はぁ、と吐息と変わらない返事をしながら、堪らず額に指を添えた。そんなこちらの困惑に気づいていないとは思えないが、相手はひたすら話を続ける。
『勝手に禁忌犯しちゃうし、そのせいで治療のペースが早くなりすぎるし……私だって対処が大変だったんですよ、このお馬鹿!』
『……はぁ……』
『はぁじゃないよ! ……まぁいいか、ヒントはここまでだ。あと、私からの干渉もここまでにしておこうかな。カンゼ……いや、今は”観世”だったね。今度こそさようなら。』
はっとして顔を上げたときには、すでに相手の姿は薄れ始めていた。
文字通り、薄れて消えていく。今思えば懐かしい、思念体ならではの手段だ。呼び出すだけ呼び出しておいて、勝手に消えるとは……その場に取り残され、告げられた言葉を理解する暇もないまま、自分は声を荒らげ――――
「っ、おい……待てって!!」
――がばりと飛び起きた。
ピリリリリ、と耳障りな音を立てて鳴り響く目覚まし時計を、しばらく止められなかった。夢と現実の区別が、すぐにはつかなかったからだ。
ベッドから出ることなく額を押さえた。近頃、こういう展開……いわゆる「夢オチ」が続いている気がしてならない。もっとも、今の夢がただの夢ではないということは理解できていたが。
「……はぁ……」
早朝からひどい気分だ。
一、二分鳴り続けていた目覚まし時計をやっとのことで止め、ベッドから抜け出した。
週の始まりからこんな気分で職場に向かわなければならないなんて、ただでさえ月曜は忙しいのに、嫌気が差してくる。あんな干渉の後では余計な思考が過ぎってばかりになりそうで、今から憂鬱だ。
役所勤めは楽でいい――もう何度も投げつけられてきた言葉が頭の端を掠め、憂鬱な気分に拍車がかかる。
最初にその発言をした人間と相見える機会があるなら、小一時間、みっちりと問い詰めたいところだ。実体験を元にしていない、想像のみによる発言というものは本当に当てにならない。
行列の窓口で世間話を始められることも稀ではない。先日は、年配者とのやり取りに半日かかった。それ自体は別に構わない、構わないが訛りが強くて話がなかなか聞き取れなかったのは堪えた。
挙句、今の上司に至っては悲しくなるほど融通が利かない。さらには二、三年刻みで異動の話が舞い込んでくる。ようやく業務に慣れた頃になって、別部署で一から仕事を覚え直し……それも勤め始めてから三度経験した。次の春にもまたその手の話がきそうで、近頃はやたらナーバスになってしまっている。
なにが言いたいかというと、公務員には公務員の苦労がある。理解してくれなくてもいい。そんな考えの人間もいるんだな、と思ってくれさえすれば。
……随分と馴染んだものだ。
何年も同じ仕事をしているのに、ふとそう思うことがある。どちらがどちらという区別は、半年前、まとまった瞬間からすでに碌になかった。だが。
「……はぁぁ……」
溜息が止まらない。今度は、夢に出てきたあれの顔と話が脳裏を過ぎったからだ。
思えば、奴は昔から食えない顔をしていた。申し訳ないという気持ちがあるなら、次から次へと患者を回してこなければ良かっただけの話。こちらの余裕が削がれていると分かっていて酷使する、それを繰り返してきたのは向こうだ。それをいまさら、とふつふつ苛立ちが再燃してしまう。
『ヒントはここまでだ』
『今度こそさようなら』
喋りたいだけ喋ってこちらの話も聞かずに帰るとは、相変わらず本当に身勝手な奴だ。分かるようにきちんと説明してから去ってほしい。
……苛立ちが止まらなくなっても困る。それ以上考えることをやめ、出勤の支度を進めることにした。
簡単に朝食を取った後、スーツのジャケットを手に取りながら、なんの気なしに壁のカレンダーを眺める。
『彼女が事故に遭ってから今日で何日目だい?』
『それに、あのときあの子は何日目の何時に目を覚ましたんだっけ?』
大きく「11」と記された下に並ぶ数字の羅列を眺めつつ、ぼんやりと考える。
十一月……彼女が事故に遭った日から半年が経った。あの事故は、五月の中旬に起きたのだ。そして、今日が。
――今日が。
「……あ……ッ!!」
堪らず、叫んだ。
近頃は病院に出向かない日が増えていた。いや、病院の前に行っても病室までは入れない、そんなことが続いていた。
眠る彼女の痩せ細った顔を見るたび、二度と目を覚まさないのではと、悪いほうに悪いほうに考えてしまいがちだったからだ。
また、病室には彼女の家族も頻繁に訪れる。彼らにとっての自分は、事故の際に応急処置を施した人間、それだけだ。恋人でも友人でもないのに、何度も病室に顔を出されては、向こうだって困るのではという意識も働いていた。
名を尋ねられるたび、丁重に辞してきた。気を遣わせたくなかったからだ。
……いや、違う。名乗った名が目覚めた彼女の耳に届き、そのときに彼女がまったく自分の名に聞き覚えを示さなかったら。そんな不安がつきまとって離れない。
目覚めてほしいと願うと同時に、自分は同じくらいそれを怖れてもいる。だとしても。
咄嗟に頭を抱えた。
どうして今の今まで気づかなかったのか。「溜飲が下がった」と言いながら不敵に笑う、奴のあの顔を見た時点で気づいても良かった。昔から、奴はその手の悪戯を大いに好んでいたのだから。
確か、時刻は夜だった。窓の外は暗かったと記憶している。
時計の短針は七を、長針は六を少し過ぎた程度の位置を示していたと思う。じっくり見て確認をしたわけではないから、正確な時刻までは覚えていない。だが。
今日だけは、定時で確実に仕事を切り上げなければ。
決意を固め、壁の時計を眺めながら動きの止まりかけていた手元を、再び動かし始めた。
*
『多分、今日も目を覚ますことはないんじゃないかって、先生が。……あの、お見舞い、いつも本当にありがとうございます。でも、今日はもう遅いですし、そろそろ……』
君の妹が遠慮がちに発した言葉を、つい先刻、遮るようにして断った。
時刻は午後七時を回っている。病室の前を訪れてから、すでに三十分は経過していた。これほど長く居座り続けるのは初めてだったが、どうしても、今日だけは傍で待っていたかった。
腰を下ろした廊下のソファは、君の眠る個室から最も近い場所のものだ。
座り直しながら、再び腕時計を見る。七時十五分。心臓が軋むような音を立てて鳴った。
通勤鞄には、二十二年前、共同墓地で手渡された君のハンカチを忍ばせてある。
大丈夫だと言われてはいるが、もし君に俺の記憶が残っていなかったなら、これを見せればなんとかなるのではという……つまるところ、願掛けだ。大切にしまっておいたものを引っ張り出してきた。
『彼女は覚えてるよ、君に治してもらったこと』
『ちゃんと君を覚えてる』
今朝の夢に現れた人物の声が、ふと脳裏を過ぎる。
あの七ヶ月は空白ではないと、俺と君の間に確かに存在した時間だと奴は言った。それなら、君が目覚めるときにはできるだけ近くにいたいと思う。目を覚ました君は、向こう側で俺と交わした約束を、二度と果たされないものと思っているはずだから。
人の心の傷を治す力など、俺にはもうありはしない。だとしても。
「……ぇちゃ……ん、……、せんせ……よんで……!」
焦燥の滲んだ声が聞こえ、はっと顔を上げる。
数メートル先の病室から声が聞こえてきた後、君の妹が室内から飛び出してくる。病室の中にいるらしき人物になにかを伝えながら、ひどく慌てた様子で。
数分の後、医師がひとりと看護師がふたり、駆けつけてきた。彼らが病室に入った直後、入れ替わりで君の家族――父親と妹が室内から出てくる。胸を押さえながら深呼吸を繰り返していた君の妹が、不意にこちらに視線を向けて寄越した。
「あ、……あの。今、お姉ちゃん、目を」
「……あ……」
「あ、はい! ……すみません、また声かけます。お父さん、行くよ!」
途中で看護師から声がかかったようだ。彼女の言葉はそれきり途切れた。
名乗ることさえしていない俺に、それでも、君の父親と妹が向けてくる視線に辛辣な色はない。「お前がもっとまともな処置をしてくれていれば」となじられても仕方ないくらいだと思うのに。
七時三十二分。
君は、どこまで覚えてくれている。俺の――俺との記憶を、どこまで。
顔は。声は。ともに過ごした日々は。
交わした抱擁は。重ねた唇は。
最後の日に交わした熱と、苦し紛れの約束は。
この期に及んで怖くなる。
たとえ覚えてくれていたとして、嘘を重ね続けた俺のことを、果たして君は許してくれるだろうか。叶えようのない約束を、その場しのぎで口に乗せた俺なんかを。
そのとき、がたん、と耳障りな音がした。
反射的に音の方向へ視線を向ける。扉を開く音に続き、小さな車輪の回る音がガラガラと不規則に聞こえてくる。
扉越しに覗いたものは、点滴台と痩せ細った足、細い指先――そして。
「……あ……」
頭部を覆う包帯に目を奪われる。そこから流れるように続く髪は、記憶にあるそれよりも心なしか長く見えた。不安定な点滴台に寄りかかりながら前へと踏み出される足は、半年あまり続いた昏睡のせいか、本来の機能を随分と弱めているらしい。
全体的に痩せた印象がある。記憶の中にある桜色の頬は遠目にも青白く、また削げ落ちて見えなくもない。だが。
鞄に忍ばせたハンカチのことなど、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
忙しなく左右を泳いでいた君の目が、ソファから咄嗟に立ち上がった俺を捉える。
「……カンゼ、さん」
掠れた君の声が、耳の奥に深く焼きついて残る。
覚えてくれていた。本当に。
最初に伝える言葉は決めてある。
君は、俺の言葉を――俺を、受け入れてくれるだろうか。
「約束。覚えてる? ちゃんと迎えにきたよ、……咲耶」
声が震えてしまう。
けれど、それでも君は受け取ってくれたらしい。堪らず腕を伸ばすと、君は笑っているのか泣いているのかよく分からない顔をして、点滴台を握る指に力を込めた。
弱りきった身体を半ば投げ出すように、君がこの腕にしがみついてくるまで……あの日と同じ、百八十六日目の午後七時三十五分まで、あと数秒。
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