《4》まとまる
『この世界において、君は完全な異端だった。それはちゃんと自覚できていたかな?』
聞き覚えのある声がする。
水の中を漂っている感覚があった。自分が息をしているかどうかも分からないまま、ただ、届く声を追いかけることだけに集中する。
『できてたよね。だからこんな突拍子もない、もっと言えば正気を疑われるような行動に出た。違うかい?』
声の正体に気づき、溜息が出そうになった。自分のよく知る人物だったからだ。
水の中だというのに、吐息が零れても空気の泡はできない。いや、だいたいにして、なぜ自分は水の中を漂っていると思い込んでいるのか。そもそも、これまでの人生で泳いだことなど一度たりともない。
『ああ、異端が悪だなんて言いたいわけではないよ。むしろ向こう側の人間から見れば異端でもなんでもない、君こそが普通だ。君みたいな人はこちらでは随分生きづらかっただろう。』
『……そうですね。』
初めて返事をした。
不思議と、普段通りに声が出る。それでいて口を開いている感覚はない。
『うんうん。挙句、向こうへの憧憬が強まる役割ばかり延々と与えられ続けては、逃げ場も碌になかっただろうしね。そんな性質を根底に持っていながら、これほど長い間役割を果たしてくれたことは賞賛に値する。……そのお礼というのもおかしな話かもしれないが、ひとついいことを教えてあげようか。』
『……結構です。俺の命は終わった。いまさらなにを聞かされても仕方ありません。』
『えー? でもあのお嬢さんとの約束、ちゃんと守らないといけないんじゃないのー?』
チリ、と皮膚の内側が焦げつく感覚があった。
知っている。これは苛立ちだ。患者たちの多くがこの感情との共存に戸惑い、持て余していた気がする。
そして今、自分はまるで向こう側の人間のように、声の主に対して苛立ちを覚えている。
『はいはい、睨まない睨まない。……実はね、向こう側に君の半身みたいな人がいるんだけど、知ってた?』
『……半身?』
『うん。たまにね、いるんだ。こっちとあっちで対になってる命。君の本体である桜の木も、昔、向こう側に半身がいたらしい。そういう事情が多少なりとも君にも影響したんじゃないかな。』
半身。対。
耳慣れない言葉だ。堪らず眉をひそめる。
『ふふ、もしかして思い当たる節、ある? 対になった者同士は引かれ合う。生きる世界が違うっていうのに、ひとつにまとまりたがるんだ。』
『……まとまる?』
『うん。住んでる世界が違う以上、実際に接触を果たしてまとまるなんて例は皆無に等しいんだけどね、君の場合はちょっと特別なんだ。元来、君自身が随分と向こう寄りの性質をしている。そこに加えて……ある人物が、君たちの接触に大きな影響を及ぼした。』
特別、と鸚鵡返ししたきり黙り込んでしまう。
相手の話は、いつも以上に理解が難しい。水の中を漂っているからか……いや、違う。今、自分は水中を漂ってなどいない。さっきそう思ったはずだ。
『その結果、向こう側の君が君へと接触をしかけてきた。それ、君も覚えてるんじゃない? かれこれ二十年以上も前の話みたいだけど、今も地味に続いてるのかな。まぁ、向こうの行動がどこまで意識的なものかは分からないが……ああ、ほら。今も呼んでる。聞こえるだろう。』
呼び声……聞こえる気もするし、特に聞こえない気もする。いや、それよりも。
深く息を吸う。水の中。水の外。この世界の、内と外。今、自分は自分にとってこの上なく大切な話を聞かされている、そんな気がしてならない。
『本当に情熱的な人だよね、しかも一途だ。向こう側の君も、君自身も。……けど分かるでしょう? 向こう側の人間は、こちら側と違って、命を繋いでいくために肉体と精神の調和が不可欠。どちらが欠けても生きていけないんだ。君は確かに彼女の心を治したけれど、果たして身体はどうかな? あの日、君が精神だけ連れてきた彼女は、向こう側に残された彼女の肉体は、あの後どうなったかな?』
あ、と声が出る。
自分の声だった。自分の――あるいは。
『心の傷が完治しても、戻った先に正常な肉体がなければ彼女は命を繋げない。違う? 残念ながら向こう側の君には、今の彼女を守れるだけの医療的な知識はほとんどないみたいだねえ……さ、どうする?』
煽るような声は少し楽しそうだ。それでいて寂しそうでもある。
瞼を開く。薄い光の出口が見える。そこに向かえと、早く出ていけと、声の主は自分にそう告げている。
『行きなさい。これがせめてもの私からのお詫びだ。君の性質がそうだと分かっていながら、三百年近くも君に役割を押しつけ続けてきたお詫び。』
なにかを叫んだ気がする。
やかましい、とか、白々しい、とか、声の主に対する悪態を、なにか。
『はいはい、もう行った行った。健闘を祈ってますよ……じゃあね、カンゼ。』
水の弾ける音がして、それきり声は途絶えた。
*
――
突如脳裏に響いた声の方角を、半ば引きずられる形で追う。
さっき自分を呼んでいた声は、きっと今の声だ。とはいえ、今聞こえた言葉は自分に向けられたものではない。今の声は、彼女に向けて放たれた声だ。
先刻までやり取りしていた人物との話、そのすべてをすっかり忘れ去ってしまうほどに、なけなしの精神を研ぎ澄ます。
辿り着いた先は、見覚えのある交差点。向こう側の様子を確認するための鏡――傷だらけの彼女の精神のみを引っ張ったときに粉々に散った鏡から、かつて覗いた場所だった。
おかしな角度に停められたトラック、塞がる道、鳴り響くクラクション。
その手前の道に倒れ伏す、身体のそこかしこを赤く染めた人影。
「……あ……」
それが誰か、頭が理解するより先に身体が動く。
『君は確かに彼女の心を治したけれど、果たして身体はどうかな?』
『あの日、君が精神だけ連れてきた彼女は、向こう側に残された彼女の肉体は、あの後どうなったかな?』
脳裏に焦げついて残った言葉の意味を、もう見て見ぬふりで済ませるわけにはいかない。
それがどれほど無情な現実だとしても、受け入れなければならない。受け入れ、呑み込み……それから。
持つべき身体はすでにない。というより、向こう側では思念体でしかなかった上、その身は跡形なく消え去った後だ。
では、今踏み出しているこの足は誰のものか。思念体という輪郭を失った自分の精神を、今、こうして確かに宿しているこの身体は、一体誰の。
滲んで広がるように頭に溶け込んでくるのは、自分が元々持っているものとは異なる記憶や知識の類だ。
例えば、「トラック」「交差点」「クラクション」といった、実際に生きていた世界には存在していなかったものに関する知識。また、「救急車」「病院」「救急救命」――そういう、この世界において人の命を救うための基本的なルールや存在の記憶。
元々有していた記憶や知識とそれらは、意識する間もないうちに混ざり合い、ひとつになる。あるいは逆に、自分自身の記憶や知識こそが、この身体の持ち主に溶け込んでいっているのかもしれなかった……いや、詳細はどちらであろうと構わない。そんなことを呑気に考えているよりも、今の自分には優先すべきことがある。
ほとんど走って辿り着いた先、赤い海が目に映る。
その中心に、生気の感じられない赤い顔――血まみれの顔が見えた。
「……サクヤ」
『心の傷が完治しても、戻った先に正常な肉体がなければ彼女は命を繋げない』
手を伸ばしながら、今度こそ、あの言葉の意味を真正面から受け止める。
この身体の持ち主は誰なのか。消滅した後、自分はどうやってこの場に辿り着いたのか。どうして、あの日と同じように彼女がまたこんな目に遭っているのか。時間が巻き戻ってるのか。だとしたら、彼女と俺の間にあったあの七ヶ月間はどうなったのか。
うっすらと答えの見えている疑問もあれば、見当もつかない疑問もある。ただ、そのどれに対しても、気を取られるのは後でいい。
今すべきことは、たったひとつ。
眼前の血の海に膝をつく。膝から染み込んでくる血液の感触が生々しく、そのせいで余計な考えが助長されてしまうよりも先に、と強く意識して処置に取りかかる。
間違いない。彼女だった。七ヶ月前、この身体から精神だけを強引に引き抜き、向こう側へ連れ去ったはずの。
意志を伴わないまま、中途半端に世界を跨ぐことになった彼女は、その後半年間眠り続けた。そして目を覚ましてからのひと月、ほとんど騙される形で俺からの治療を受け、完治し――治ったばかりのその傷を、治した俺自身が再び深く抉ってしまった。そのはずだったのに。
このような悪夢じみた場面に、またも遭遇することになるとは。
「……ッ」
知らず喉が音を立てた。
絶対に繋ぎ留めてみせる。この人の心も身体も、命も。
最小限の揺れで済むよう細心の注意を払いながら、出血のひどい頭部に触れる。
丸まった首のせいで圧迫された喉元をゆっくり広げると、喉の鳴る音が小さく聞こえた。わずかではあるようだが自発的な呼吸が見られ、薄く安堵を覚える。
危険な状態には変わりないが、それでも、あのときほどではない気がした。もしかしたら、さっきの声――「避けろ」という声がこの人にも届いていて、咄嗟に身を庇えたのかもしれない。おそらく、あのときと完全に同じ状況ではない……だが。
ハンカチで傷を塞ぎ、通勤鞄で押さえ込んで固定する。
これ以上の出血は危険だ。周辺を見る限り、相当の出血がある。脚部の骨折が目立ってひどいが、そちらの処置よりも優先しなければならないことが山積みだ。一刻の猶予も、少しの判断ミスも、今は許されていない。
ネクタイを使って腕の止血点を縛ったとき、微かに瞼が動いて見えた。思わず声をかけたが、返事はなかった。くそ、と毒づきそうになった口を無理やり噤む。
凄惨な事故を前に闇雲に騒ぎ立てるばかりだった人々は、ひとり黙々と怪我人に触れる自分に、次第に協力的な動きを見せ始めた。ハンカチやタオル類、また止血に役立ちそうな持ち物を渡してくる人もちらほら現れ出す。
そういった人たちと言葉を交わしていられるだけの余裕はなかった。ときおり遠慮がちにかけられる協力の申し出を受けたり受けなかったりしながら、ひたすら手を動かし続けて……どれくらいの時間が経ったかも覚束ない。
いつの間にか、周囲の音が聞こえなくなるほど集中してしまっていたらしい。
気づいたときには、パトカーや救急車、事故処理車が周囲に複数並んでいた。救急隊員と思しき人物たちも続いて視界に映り込み、ようやくはっとして顔を上げる。
咄嗟に身を引いた。入れ替わりで、救急隊員たちがその場に膝をつく。彼らは慎重に怪我人を担架に乗せ、そのときに応急の処置を目に留めたらしきひとりが目を見開いた。少なくとも、自分にはそう見えた。
……後は任せて大丈夫だろうか。
立ちくらみを堪えながら、ふと自分の手を見やる。手のひらはもちろん、スーツのジャケットとワイシャツの袖口もどろどろの状態だった。赤黒い血液……顔にも付着しているらしく、渇き始めた鉄くさい液体の感触が確かにある。
視界を遮る赤色の正体が、眼鏡についた血だと、やっとのことで理解が及ぶ。それとは別にこめかみを伝い落ちていくものは、汗か。感触としては、そちらのほうが遥かに不快だった。
仕事は完全に遅刻だな、と思いつつ腕時計に視線を向ける。仕事に向かっている途中であったこと、腕に時計があること、そのどちらにも違和感は覚えなかった。
血を見るのは苦手なんだが、と思う。不意に浮かんだその考えが、本来の自分のものなのか、この身体の持ち主のものなのか、すでに判断はつかなかった。そもそも、「自分」に本来も持ち主もない。そういう括りはもはや完全に意味を成さなくなってしまっている。
自分の意識は、この身体――「観世」の身体と意識にとうに馴染んだ後。
仕事に遅れてしまう、眼鏡が見づらい……これまでの自分とは無縁であったはずのそれらのことを、ごく自然に思い浮かべる程度には。
『ひとつにまとまりたがるんだ』
あの言葉の意味を、ようやく理解した。
どちらかが消滅するわけでも、表に現れる人格が交互に入れ替わるわけでもない。完全に混ざり合い、ひとりの人間になっている。
救急車への同乗を頼まれ、深く考える暇もなく了承して乗り込んだ。忙しなく彼女に手当てを施す救急隊員たちを横目に、助かってくれるだろうか、とぼうっと思う。
手は尽くした。俺にできることは多分もうない。臓腑の底から吐き出すように絞り出した深い吐息は、安堵によるものだったのか、それとも。
血痕の付着した眼鏡を外す。
再び口をつきそうになった溜息を、今度は口の中でそっと噛み殺した。
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