《3》対者の視る夢

 かれこれ、二十年以上前のことになる。

 それほど古い記憶をよく忘れずにいるものだと自分でも思う。


 都合良く美化されている部分もあるかもしれない。

 子供の頃の記憶など、大概そんなものだろう。より美しい思い出へと、無意識のうちに願っては改竄して……そういう面もきっとある。だとしても、それが自分にとって大切な記憶であることに変わりはない。


 それは、今なお瞼の裏に焼きついたきりの、彼女と初めて顔を合わせた日の記憶だ。


 五歳になって間もない頃、秋の彼岸に、両親と一緒に父方の祖母の墓参りへ行った。

 訪れる機会が滅多にない共同墓地は、幼い子供だった自分の目に、大層珍しいものとして映った。墓石を布で拭いたり、伸びた雑草をむしったりと、忙しなく働く両親の傍をいつしか離れ、歩き慣れない砂利道を進み……大きな石に足を躓かせ、そのまま自分は派手に転んだ。


 擦り剥けた膝からは血が覗いていた。いつも傍にいてくれる両親は、こんなときに限っていない。心細さも手伝い、瞬く間に瞼に涙が滲んだ。

 それがぽたりと地面に零れ落ちたとき、前触れなく、背後から声がかかった。


『……だいじょうぶ?』


 遠慮がちな声とともに、小さな足音が近づいてくる。

 俯けた視線の先に白い手のひらが映り込み、反射的に顔を上げた。


 声の主は少女だった。困った様子で小首を傾げ、彼女は綺麗に折り畳まれたハンカチを差し出してくれていた。

 肩の下辺りで切り揃えられたまっすぐな黒髪と、同じ色のワンピース。齢は、自分よりも少し上だろうか。目元はほんのりと赤く、擦り剥いた膝について一瞬忘れかけたことを覚えている。


 おそるおそる問いかけてくる声は、微かに掠れていた。

 それがどんな理由によるものなのか、すぐに思い至るには、あの日の自分はさすがに幼すぎた。今だから思い出せるだけ……下手をすると、それさえも美化された結果でしかないのかもしれない。


『う、うん。だいじょうぶ』


 全然大丈夫なんかじゃない、と思いつつ、真逆の返事をした。

 転んだ現場を目撃されたことが恥ずかしかったからだ。それに、五歳という年齢でありながら、当時の自分はすでに相当な見栄っ張りだったという理由も多分あった。


『よかった』


 言いながら、彼女はほんのりと口端を持ち上げて笑った。笑っているはずなのに泣いているようにも見えて、ぎくりとした。

 そのとき、彼女の背の側から大人の男性の声がした。はあい、と返事をして、彼女は後ろを振り返る。つられて視線を向けた先には、少女の父親らしき男性と、その人物に抱きかかえられた小さな女の子が見えた。


 さらに、その後ろの墓石が目に映り込む。真新しい墓石の手前には、白いユリの花束が添えられていた。

 代々の先祖が眠る父方の実家の墓とは明らかに違う、新しくできたばかりといった雰囲気の、洋風の墓石――その形が鮮明に目に焼きついて残る。


『……おねえちゃんも、おはかまいり?』

『え? あ、うん。今日はね、ママの”のうこつ”だったの。じゃあね』


 寂しそうな笑みを浮かべ、彼女と彼女の家族たちは去っていく。

 後には自分だけが残った。視線の先に映りっぱなしのユリの花が、その場にひとり取り残された自分とよく似て見えて、わけも分からずまた泣いてしまいそうになって……両親の声が聞こえてきたのはそのときだった。


『観世!』

『どこに行ってたの、探したのよ?』


 叱られるときと似た声をあげられ、思わず肩を竦める。

 そのときになって、受け取ったハンカチを握り締めたままだと気づいた。同時に、忘れかけていた膝の痛みが急速に戻ってくる。


 ……どうしよう。あの子はもう帰ってしまった。

 綺麗に折り畳まれたハンカチをじっと見つめる。可愛らしいそれを血の滲んだ膝に当てるのは、なんとなくためらわれた。

 困惑しながらハンカチと膝を交互に眺めていると、両親が慌てた様子で走り寄ってくる。ふたりの目から隠すように、ハンカチを無理やりポケットに詰め込んだ。


 のうこつ――少女が口にした言葉の意味を知ったのは、帰宅後、両親に尋ねた後のこと。


 ああ、あの子のお母さんは死んでしまったのか。

 だからあの子は黒い服を着ていたのか。だから、あんなに赤い目をして、笑いながらも今にも泣き出しそうな顔をしていたのか。


 不思議だ。それで、どうして自分まで泣きそうな気分になるのか。

 脳裏を過ぎった疑問に対する答えを見出すよりも先、滲んだ涙をまばたきで乾かしつつ眠りに就いた。


 不可思議な夢を見たのは、その夜のことだ。



     *



 足りない。自分にはなにかが欠けている。

 そう考えるようになったのはいつからだったか。ことあるごとに繰り返す不可思議な夢がそうさせているのでは……そう気づいたのは、最初にその夢を見てからしばらく経った頃だ。


 頻繁に見るわけではない。むしろ頻度は低い。しかし、とにかく内容が異常だった。少なくとも自分にとっては。

 前回見たときと、話の流れが明らかに繋がっている……まるで、実際に起きていることがそこだけ切り抜かれて夢の映像になっているような。そんな生々しさが、薄気味悪さに拍車をかけている。


 夢の舞台と登場人物はいつも同じだ。さして広く見えるでもない診察室らしき部屋、そこに佇む和服姿の医師、そして自分。現れるものはそれだけだ。

 白衣は着ていない。また、医療機器に触れているわけでもない。それなのに、なぜその男を医師だと認識したのか――最初にその夢を見てから二十年以上の月日が経過した今も、答えはよく分かっていない。


 医師と対峙するのは、そのときそのときの自分だ。

 例えば、長く見続けてきた夢の中で、自分は当初五歳の子供だった。墓参りに向かった秋の彼岸、あの日の夜。


 夢の中で、自分は医師を相手に、墓参りで遭遇した黒いワンピース姿の少女を「助けてほしい」と頼み込んでいた。

 なぜそんなことを口走ったのかは自分でも分からない。とはいえ、夢なんてそんなものだろう。自分の意志など大抵反映されない上、普段ならばあり得ないと思うようなことも、突拍子のないことも、平然と起こる。

 あんたを助けてやる、といった趣旨の言葉も口にした。自分の背丈の半分もない子供にそんなことを言われても、とばかり、医師の男は曖昧に口元を緩めただけだったが。


 月日が巡り、夢は相応の回を重ねた。そして、夢に登場する自分は、今や医師の男とほぼ同じ背丈にまで成長した。

 回を重ねるたび、視線の先に映り込む男の顔の位置が、どんどん自分と同じ高さになっていく。やがてそれが完全に一致する。夢だというのに、そういう部分が無駄に生々しい。そのせいもあってか、目が覚めるたび、いつしか自分はその夢に理由を求めるようになっていた。


 医師の男が自分と同じ顔をしていると気づいたのは、いつだっただろう。

 表情の話ではなく、顔の造形そのものが同じなのだ。正確には、夢を見るたび、自分の顔が男の顔に近づいていっている。

 月日の流れに合わせて姿を変えるのは自分だけであり、男の外見は常に同じだ。そのせいで、自分が男と同じ生き物になっていくような錯覚に陥っていた。この男は、もしや自分自身なのでは――無条件にそう思えてしまうほどにリアルな感覚だった。


 医師の男と自分の違いは、相手がまとう疲弊ぶりのみ。

 いつだって、男は心底疲れきった顔をしていた。その疲弊は、夢を重ねるたびに色濃さを増していき、近頃では命そのものを擦り減らしてでもいるのではと不安になってくるような顔色をしている。


 ……なんなんだ、あんた。

 人と同じ顔をして、どうして顔を突き合わせるたびにそこまで派手に削げ落ちていく。


 夢にしては生々しさが過ぎる。内容もまた、不気味なほど毎回きちんと繋がっている。

 自分と同じ顔をしている男が、あそこまでの疲弊を見せる理由はなんだ。そもそも、何度も夢に現れる理由は。

 目が覚めてすぐ、最初にそのふたつの疑問が浮かぶ。答えを見つけられないまま、早朝から深い溜息をついては頭を抱える……それもこれで何度目か。数える気にもなれない。


 ここ数年は、夢を見る頻度が格段に上がっている。そのことも気懸かりだった。

 なにかが起こるのでは。あの男の身に、あるいは自分の身に、なにかが迫っているのではないか。得体の知れない不安と焦燥に駆られ、溜息で始まる憂鬱な朝は増えていく一方だ。


 今朝も同じ夢を見た。

 ところが今回はいつもと違った。現れる人物が、男と自分以外にもうひとりいた。


 いつにも増して青い顔をした男の、今にも空気に呑まれて消えてしまいそうな気配を前に、知らず息を呑んだ。

 亡霊じみた姿と顔で、相手はじっとこちらを見つめてくる。いつも以上に光の宿っていない瞳が、それでいて自分に縋りつきたがっているように見え、余計に薄ら寒く感じて……だが。


 目を逸らすように男の隣に視線を動かした途端、派手に固まってしまった。

 呆然と佇む男の隣には、ベッドの上に座り込んだ女性がひとり。華奢な両の手のひらで顔を覆ってはいるが、隠しきれずに涙に濡れた頬が覗いている。


 泣き腫らした赤い目が、静かにこちらを向く。

 息が止まる。彼女だった。黒いワンピースの、ピンク色のハンカチの、洋風の墓石、納骨、小さな子供を抱きかかえる父親、去っていく背中――くらりと眩暈に襲われた。


 二十年以上前に偶然出会った少女の顔と、目の前で泣き崩れている女性の顔が、自分の頭の中でゆっくりと重ね合わされ――――


「……あ……」


 堪らず声が零れた。夢の中で声を落とすのは、随分と久しぶりな気がした。

 単なる夢ではない。そのことにはとっくに気づいている。だいたい、夢というものがどれほど不思議であろうと、こんなものを毎回偶然見続けているだけとは思えない。


 ならば、この夢は自分になにを示そうとしている。二十年以上の歳月をかけ、この夢が――この男が自分に訴えかけていることはなんだ。

 幾度考えても思い浮かばなかったその問いの答えが、ようやく掴み取れそうな感覚があった。あと一歩……知らず額に指を這わせた、そのとき。


『……助けてくれ。お前に頼まれた通り、傷、全部治したのに、最後の最後に今度は俺が傷つけてしまった。もう一度治してあげたいのに、俺では無理なんだ。交わした約束だって、俺にはもう果たせない。だから、』


 ――だから、助けてくれ、観世。


 聞こえてきたのは、自分と同じ声だった。

 青褪めた男の顔を凝視する。今にも泣き出しそうな顔をしている。親と逸れた子供が、なりふり構わず周囲の人間に縋るような、そんな顔と声だと思った。


 思った瞬間、なぜか猛烈に苛立った。


 ……お前は馬鹿か。

 どうしてもっと早く言わない。どうしてこんな状態になるまで言わなかった。一回だけなら助けてやる、確かにそう言いはした。だが、別にこういう意味で言ったわけではない。


 そのせいで傷つけてしまうなんて、本末転倒にもほどがある。


『……っ、どうでもいいから……』


 ――その子連れて、今すぐこっちに来やがれ。


 多分、叫んだ。それも自分の耳が痛くなるくらいの大声で。

 同時に目が開く。瞼が開くときのぱちりという音まで聞こえた気がして、夢の中でそうしていたように、思わず額に指を這わせる。


 答えを聞く前に目を覚ましてしまった。

 はっきりとその後悔を認識したのは、ベッドから派手に飛び起きて数秒経ってからだった。

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