《2》破綻する恋情

「……眠れませんか。」


 明かりも点けず、ぼんやりと窓の外を眺める君に、堪えきれずに声をかけた。

 あれは、治療もいよいよ終盤に差しかかった頃……君が目を覚まして三週間が過ぎた頃のこと。

 女性の休む部屋に、夜分遅くに立ち入ることは避けていた。だが、わずかに開いた扉の隙間から覗いた君の背があまりに儚く見え、途端に薄ら寒くなったのだ。それでなりふり構わず声をかけてしまった。


 君は君で、特に警戒心も不審感も覗かせず、夜中に部屋を覗いた男をやすやすと室内に招き入れてしまった。

 君は男性不信に陥っている。心の傷の原因にもそれが関わっている。一目瞭然だ。それなのに、曲がりなりにも男である自分を、この夜分に部屋に入れること自体が信じがたかった。


「……もう少し警戒したほうがいいのでは?」

「ふふ。カンゼさんなら大丈夫ですよ」


 探るような視線を向けて尋ねると、君は一瞬きょとんとした後、ころころと笑い出しながらそう答えた。そして、再び視線を窓の外へ移す。


「なんだか目が冴えちゃって……日中にお昼寝しすぎたのかも。眠れないから月を見てたんです」

「……月を?」

「はい。こっちの世界でも月は綺麗なんだなって。向こうと同じところ、意外といっぱいあって……カンゼさんの桜も。私が生まれた町も、春になると桜がたくさん咲くんです。一週間もしないうちに全部散っちゃうけど」

「……そうですか。」

「あの桜はいつまで経っても散らないから、不思議。カンゼさんの本体だから?」


 窺うように問われ、意図的に床に視線を落とした。

 いつしか月ではなくこちらに視線を向けていた君と、こんな時間、こんな場所で目が合ってしまっては堪らない。


「……そうですね。」

「ああ、やっぱり。でも、桜の木、近頃あまり元気がないみたい。花びらもたくさん散ってる」


 今度は相槌を打たなかった。

 君が言わんとしていることに気づいたからだ。


「……カンゼさんも大丈夫? 今日、朝からずっと顔色が良くないです」


 君がそんなことを尋ねてきた真意は明白だ。

 カンゼさん「も」……君はそう言った。桜の元気がないことと俺の顔色が悪いこと、ふたつの事柄に共通項を見出しているとしか思えない。


 それ以上、話を続けてほしくなかった。気づかずにいてほしかった。

 君が座るベッドの側へ、静かに足を踏み出す。少し驚いたような顔をした君を、そのまま腕の中に引き寄せた。


「あ、あの……こんな時間に、治療?」

「さあ、どうでしょう。」

「え……だ、だって、あ……」


 言葉を遮るように、薄く開いた君の唇を自分のそれで塞いだ。

 暗い室内において、光源は月明かりのみ。そんな状態でもはっきりと分かるほど頬を染めた君は、潤んだ瞳をゆっくりと閉じた。


 君の言う通り、これは治療ではない。そもそも、口づけによる治療方法なんて初めからありはしない。

 とはいえ、「患者に触れる」という方法は存在する。肌に触れて心の傷を覗き、直に傷口に触る。そうすることで患者に安堵を与えられる上、両者の信頼関係も増す。

 しかし、それは役割を担うすべての人間に禁じられている手段だ。


 得られる効果は高い。だが、伴う危険が大きすぎるのだ。

 役割を担う人間は、向こう側の人間に心を奪われてはならない。わずかでも揺らげば、命が脅かされることになる。身体にしろ、心にしろ、向こう側の人間に触れるという行為はそれを助長してしまう。

 ゆえに、どれほど重篤な患者が相手でもこの方法は取れない。治療法としては完全なる禁忌だ。


 なら、俺が今、こうして君と唇を重ねている理由はなんだと思う?


 俺が君に触れたいだけ。君を求めるあまり、ずるずると続けている行為でしかない――そう知ったら、君は一体どんな顔をするだろう。

 触れるだけで危険なのに、君に心を奪われた状態でこんなことをすればどれほど容易に命が削れてしまうか……それも理解した上で続けている。

 君はこれを治療だと思い込んでいるから、あえてそれを訂正せず、都合良く利用している。だって、治療だと思っているから君はこれを受け入れているんでしょう?


 君に気づかれてはならない。君に対して抱えている思いも、この行為が俺の命を削ぎ落とし続けているという事実も。

 君がそのことを知ったら、せっかく塞がってきている君の傷は再び深く抉れてしまうだろう。それどころか、余計に傷口が開きかねない。君は優しい。自分のせいで他人が傷ついていると知れば、君こそが傷ついてしまう……違う?


 だから、絶対に君に察されるわけにはいかない。


 心身の大半を、すでに消滅の一歩手前まで疲弊させてしまっている状態だ。

 自分は、彼女にとってただの医者。治療と称して触れる唇にどれほどの熱を宿そうと、抱き寄せる腕にどれほどの力を込めようと、それを愛情表現として受け取ってはもらえない。


『カンゼさんなら大丈夫ですよ』


 部屋に招き入れられたときの君の言葉、あれがすべてだ。

 君にとって、自分はそういう対象ではない。向こう側にはそこかしこに溢れている感情なのだろうし、君もまたそれを常とした世界で暮らし続けてきたはずで、けれど俺は君の特別にはなり得ない。傷を治してくれる人……それだけ。


 気が狂いそうだ。

 愛されたい。思いに応えてほしい。どうか、俺を愛してはくれないだろうか。


 脳裏を巡る濁流めいた懇願は、ひとたび口に上らせたら最後、一瞬でこの命を無に帰すほどの破壊力を秘めているだろう言葉だ。

 だからまだ言えない。君の治療はまだ途中で、傷は完全には癒えていない。それを横目に一方的に感情を爆発させるわけにはいかなかった。今、このまま君の前から勝手に消えるなんて、そんなことは絶対にあってならない。


 愛している――喉まで出かかった言葉を息を殺して抑え込み、己の命を溶かす口づけを続ける。

 俺にとっては毒に等しい、それでいて蜜よりも甘い口づけを。



     *



 違和感はあった。

 例えば、「もう私に触れてはいけない」と言いながら今にも泣き出しそうに歪められた顔だったり、あるいは「どうして教えてくれなかった」と詰め寄ってくる悲痛な声だったり……目尻から零れ落ちた涙もそうだ。


 なぜ君が泣く。伝えた通り、この結果は自業自得でしかない。

 君が泣く必要なんかない。むしろ、治療を途中で投げ出しかねない危険な言動に溺れた俺を責めてもいいほどなのに、どうしてそんな顔ばかりする。


 君はなにも分かっていない。

 告げたい。これ以上はごまかしきれない、ごまかし続けている気にももうなれない。


『最後に、ひとつお願いを聞いてほしい。』


 拒絶してほしい。そうでなければ、優しい君は再び深く傷ついてしまう。

 いや、受け入れてはくれないか。色のない世界で息を繋げているのはもう嫌だ、だから君に終わらせてもらいたい。とどめを刺してもらうなら、その相手は生涯で唯一愛した君がいい。


 どちらにせよ、君にとっては残酷な選択でしかないだろう。

 最後の最後まで君の傷を抉りかねない言動を繰り返す自分に、心底嫌気が差した。


 触れた肌は白く、柔らかい。

 残された時間はごくわずかだ。ならば、せめて消える前にこの身に焼きつけたかった。拒絶を選べなかった君のぬくもりを。


 数百年もの間、心の奥深くに押し込め続けてきた本性は、自分でも驚くほどに激しく荒ぶったものだった。

 男性との行為に良い思い出などひとつも持っていないはずの君に、さらにつらい記憶を焼きつけてしまうのではないか……そのことが気懸かりでならない。だが、頭では分かっていても、止めることはもうできそうになかった。


 君が生まれるよりも遥かに前、眩暈がするほど遠い昔から蓄積し続けてきた激情は、喜び勇んで暴れ、君を呑み込んでいく。

 強引に組み敷いたものの、痛みは感じていないらしい。それだけが救いだった。焦点の定まらない視線と蕩けた肢体に、君もまた、同じ気持ちでいてくれるのではとつい思い込みそうになる。


 悲鳴じみた喘ぎが耳に届くたび、とうに砕け散ったとばかり思っていた理性がさらに粉々に砕かれていく。

 後に残るものは本能だけ。この世界に生きる人間の、誰もが持っていないだろう種類の本能……場違いにも笑ってしまいそうになる。


 ふと口元が緩んだそのとき、眼下の君が、嬌声とは異なる声を張り上げた。


『置いていかないで』

『私も一緒に連れてって』


 君を押さえつけている、透けて薄くなった自分の腕から、一瞬力が抜け落ちた。

 頭が白く染まる。文字通り、なにひとつ考えられなくなって、君を穿つ熱までもが他人事のように思えて……なにを言っている。


 嘘だ。そんな、わけは。


 腕のみならず、おそらくは首筋も空気に溶けかけている、その自覚はあった。

 そこを目指して真下から君の腕が伸びてくる。巻きつけられた感触は多少なりともまだあって、その瞬間、自分の中でなにかが音を立てて崩れ落ちた。


 もしや、自分はひどい思い違いをしていたのでは。

 自分が消えてしまったら、まさか、そのせいで君は傷つくとでも。


 君は優しい。その優しさゆえ、せっかく傷が癒えても、自分のせいでまた傷を負ってしまうかもしれないと危惧してはいた。

 けれど、このままでは奴らに苦しめられた以上の傷を負うことになるのでは……初めてその可能性に思い至る。


 その傷は誰が治す。新たに刻み込まれたその傷は。

 間もなく消えていなくなる自分には治せない。どうあってもできなくなる。それなら君の傷はどうなる。


 ――以前よりも大きく刻まれた君の傷は、じくじくと痛みを生み出し続けるその傷口は、そのまま?


 この身には血液など流れてはいないのに、血の気が引いていく感覚が確かにあった。

 心臓が内側から食い潰されていくような絶望感に、瞼の裏側が赤く点滅を繰り返し始め、ひどく煩わしいと、空になった頭でぼうっと思う。


 頬を伝ったらしきひと筋の涙に、自分ではもう気づけない。君が指を伸ばしてくれたから察せただけだ。雫が伝おうにも、それを感触として受け取れる肌は、すでにこの世に存在していない。

 身体も心も、この世のものでなくなっていく。空気に溶け、混ざり、今にも存在しないものになろうとしている。


 どうして君に覆い被さってしまうんだろう。

 俺が好き勝手にやらかしたことの代償が、どうして俺自身にではなく、君に。


『必ず迎えにいくよ。』


 君の口から零れ落ちた悲鳴を、口づけで塞いで閉じ込める。触れた唇をほとんど離すことなく告げた言葉は、果たして君に届いただろうか。

 どの口がそれを言う。最後まで嘘に嘘を重ね、傷を植えつけて、それを放置して消えていなくなる自分が憎くてならない。果たせもしない約束をその場しのぎで口にして……ああ、どこまで醜悪なんだ、俺は。


『……助けてくれ。』


 君に触れた指先が、とうとう空気に呑まれて消え失せたそのとき、先に消えたはずの喉からなぜか声が零れ出た。


 助けてくれ。お前に頼まれた通り、傷、全部治したのに、最後の最後に今度は俺が傷つけてしまった。もう一度治してあげたいのに、俺では無理なんだ。交わした約束だって、俺にはもう果たせない。だから、


 ――だから、助けてくれ。


 君ではなかった。そう願った相手は。

 声にはなっていなかっただろう懇願に応えるように、頭に直に音が届く。君の涙が零れた音と、それから。


 それから、懐かしい人物の……このところは夢の中でしか顔を合わせていなかった人物の、怒号じみた叫び声だった。

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