186th day(7:35 pm)
《1》異端者の回想
「君は……患者ではありませんね。」
「……」
「迷子ですか? どうやってこんなところに……名前は?」
「……」
「……困りましたね。」
いつのことだったか。
子供がひとり、前触れもなにもなく診察室に迷い込んできたのは。
服装を見て、向こう側の人間だとすぐに察した。だが、これまで治療に当たってきた患者の中に、これほど幼い子供はひとりとしていなかった。
声をかけても、一向に口を開こうとしない。近々患者が現れるという連絡は入っていないし、なにより、その子供からは傷を抱えた人間特有の雰囲気が一切感じられない。明らかに普通の患者とは異なる風体だった。
患者以外の人間がこちら側に迷い込んでくる可能性も、絶対にないとは言いきれない。だが。
困っている様子もなく、また、見知らぬ場所に迷い込んだせいで泣くなどといった仕種も見せない。
じっと見つめられ、多少なりとも戸惑った。その視線には、いっそ不気味に感じるほどの光が宿っているように見えた。子供のまっすぐな眼差し、といったものとも微妙に違う気がしてならない。
直視に耐えきれず軽く目を伏せた、そのときだった。
「……おにいさんは、ひとのけがをなおすひとだよね」
唐突に口を開いた子供を、視線を上向けて凝視する。
先刻までと変わらず、相手はじっとこちらを見つめている。射抜くようなその目は、幼い子供のそれとは思いがたいほどに鋭い。知らず詰めていた息をゆっくりと吐き出しつつ、返事の言葉を手繰る。
「……まぁそうですね。」
「そうか、やっぱりな。あのね、なおしてほしいひと、いるんだ」
「治してほしい人?」
訊き返しながら、つい眉が寄った。
こういうケースは前例がない。自分以外の誰かを治してほしいと、向こう側の人間が自ら願い出てくるなど。
「うん。くろいふくきてる、おんなのこ。でも、いまじゃなくてずっとさきだ。ぜったい、ちゃんと、なおしてあげて」
話の内容をうまく察せず、黙り込んでしまう。
向けられてくる視線が微かに揺らいで見えたから、取り繕うようにして口を開く。
「分かりました。その人は君の大事な人ですか?」
「うん、たぶん。あ、それからもういっこ、おしえてくれ」
「……なに?」
「もしあんたがけがをしたら、」
――そのときは、だれがあんたをなおしてくれるんだ?
直接的な物言いに、一瞬返答に詰まる。
子供の疑問は、ときに残酷だ。相手の心中を慮って話せとまでは言えないし、期待もできないが。
向こう側と違い、こちらの世界では子供の数が圧倒的に少ない。付き合いのある子供など身近にはいないし、特に幼い子供とのやり取りはどうにも苦手だった。
返答に窮していると、子供は、裏口の側へと静かに歩みを進め始めた。
さして広くもない診察室内、その裏口は基本的に常時施錠してある。人の出入りは不可能だ。挙句、鍵がひどく錆びついているせいで、数年前からわずかにも動かせない状態だった。
出口はそっちじゃないですよ、と手を伸ばしかけた、そのときだった。
「……
「え?」
「おれのなまえ。さっききいただろ」
またも唐突な言動に振り回されながら、目を見開くしかできない。
こちらの反応など知ったことかとばかり、子供は滔々と話を続ける。
「もしけがしたら、おれをよべ。いっかいだけなら、たすけてやる」
「き、君は……なにを。」
「だからぜったいたすけて。あんたじゃないとたすけられない。やくそくしろ、カンゼ」
「……。」
「やくそくしろ」
強い口調だった。
有無を言わさぬ勢いに押され、意志とは裏腹につい頷き返してしまう。
「ぜったいだからな。じゃあ、おれはかえる。ばいばい」
「あ、ちょっと待ちなさ……!」
関心を失ったかのように踵を返した子供の背に、慌てて声をかける。
しかし、言葉は最後まで続かなかった。子供が手を翳しただけで、錆びついて開かないはずの裏口の鍵が、鈍い音を立てて外れたからだ。
驚きの声をあげる間もなく、子供は小さく開いた隙間の奥へと身を滑らせ、消えてしまった。
「……な……。」
しばらく呆然とした後、ふと我に返り、裏口の扉に視線を向けた。
古めかしい南京錠が、やはり鍵穴と扉を固く繋ぎ留めている。子供がそこを通り抜けたこと自体が嘘だとでも言うように。
時間が経つにつれ、目の前で起きた一部始終から現実味が欠けていく。
そもそも、自分と同じ名を名乗ったあの子供は、どうやってここに辿り着いた? そしてどこへ帰っていった? 開かない扉を難なく開けて、どこへ。
『もしけがしたら、おれをよべ』
『あんたじゃないとたすけられない』
『やくそくしろ、カンゼ』
――やくそくしろ。
切実な声だったと思う。小さな子供が発したものとは到底思えないほど。
こびりつくように耳の奥に残った彼の声は、その後しばらく記憶から消えてなくならなかった。
*
異端――自身の性質を表すとして、これほど的を射た言葉はないだろう。
この世界では、動植物やモノに宿った思念が人の形を成し、命となる。人間と呼べる種には、そういう形で生まれた者しかいない。
それを常識としない向こう側の人間なら、奇妙だと思うに違いない。だがそれは、他の人間と愛し合って子を成すという向こう側の摂理が、こちらの人間の目には不可思議なものとしてしか映らないことと一緒だ。
こちら側と向こう側では、世界を構成する仕組みが根本的に異なる。こちらにはこちらの摂理が、向こうには向こうの摂理がある。どちら側に生まれたとして、人は自らが生きる世界に合わせ、世の仕組みや生き方を学びながら成長し、生きていかねばならない。
となると、やはり自分は完全な異端者であると考えざるを得ない。
なんのために生まれてきたのか。ひとりで生きていくことになんの意味があるのか。そんな疑問を平然と頭に浮かべてしまっている時点で、相当な変わり者だという自覚はある。
向こう側の患者と接している時間が、この世界の他の人間に比べて長いからこそ、そのような思考が芽生えたのかもしれない。
彼らの傷は、他人との関係を築く上で、あるいは失う上で深まったものばかりだ。人との繋がりに心を躍らせたり、逆に傷ついたり……彼らの生々しい心の動きと、それによって負った傷の深さを傍観していると、あっさり感化されてしまいそうになることも珍しくない。
こちらの世界では、他人との交流が少ない。
友人はできる場合が多いし、尊敬できる人物を持つ人間もいる。中には結婚する男女だって、稀ではあるがいる。ただ、そうした関係を築く中で互いの間に生まれる感情は、向こう側の夫婦や恋人同士の間にあるそれとは根本的に異なる。
多分、こちら側のそれは「愛情」と呼ばれるものではない。友情や敬愛が、こちら側の人間が理解できる限界だ。
こちら側の男女が身体を重ねることも、あるにはある。しかし、向こう側の人間のように、その行為に特別な感情を抱いたり求めたりすることはまずない。単に快楽を求めた結果だ。
行為の結果、女の腹に子が宿ることもない。皆が皆、モノに宿った思念が実体化した存在だ。それ以外の方法で生を受けた人間は、こちら側にはひとりとしていない。人が子を成すという概念そのものへの理解が、こちら側の人間にとっては極端に難しい。
こちら側に生きる誰にも親はいない。また、兄弟姉妹もいない。親しい人間や信用できる人間は、生まれた後、自らの力で見つけていく。それがこちら側の常識だ。さらに言えば、それさえも、生きていく上で絶対に必要なことではない。
ひとりで生きるのが普通。誰かに寄り添う、誰かと分け合う、そういう思考は元来希薄だ。たったひとりで命を繋ぎ続けることを、誰も疑問になど思わない。そんなことを延々と考え続けているのは、おそらく自分くらいのものだ。
医術に携わる者として役割を与えられ、どれほどの月日が過ぎただろう。
自分にこの役割が与えられたのは、向こうの世界で、古くから人々に愛され続けている樹木である「桜」――それに宿った思念だからだ。向こう側の人間により近い感情を、初めから根底に持って生まれ落ちてしまったからというだけ。
人を愛したり、憎んだり……治療に訪れる患者の多くが抱えている悩みは、こちら側の人間にはうまく理解できない。
自分が、本体が植物である人間、それも向こう側の人々に馴染みのある樹木だからやりやすいだけ。そのせいで、生まれ持った精神が、他のこちら側の人間よりもやや向こう側の人間に近い。それに尽きる。
持って生まれた、向こう側寄りの精神。患者たちとの接触により、それはより大きな形へと育まれてしまいつつある。
ごまかしては目を逸し続けてきた。何年も、何百年も……だが、それにももう疲れていた。
気が遠くなるほど長い間、自分の目には灰色にしか映らない淡白なこの世界で生き続けてきた。誰かに執着することに暗に憧れ、その気持ちを躍起になって押し殺しながら、自ら消えることも選べずに。
次の患者に関する情報が届いたのは、いよいよごまかしよりも疲れの比重が大きくなってきたことを自覚し始めた、ある夜だった。
記された氏名を眺め、それから同封されてきた数枚の写真に視線を移す。そこには、肩下まで伸びた髪を無造作にまとめた、地味と表現して差し支えないだろう女性が写っていた。
無論、写真は本人の意向を確認して撮られたものではない。正面から捉えられることなど大抵ない。この女性の場合も同様だった。
俯いた表情から、なにかを思い詰めているような印象を受ける。当然だ。この女性もまた、心に甚大な傷を抱えているのだから。
「……。」
溜息を噛み殺す。また向こう側の人間に接触しなければならないのか。治療を引き受けるたび、自分も向こう側に生まれることができれば良かったのにと、実りのない憧憬を抱いてきた。また同じ感情を燻らせなければならないのか。
傷が癒え、胸を張って自身の世界に戻っていく彼らの背を見つめながら、幾度「一緒に連れていってくれないか」と声をかけそうになったか分からない。いつも、喉まで出かかったその願いを無理に呑み込んできた。だが。
次の人――この女性に頼んでみようか。
傷の治ったこの人が自らの世界に戻るとき、これまでためらい続けてきた言葉を、今度こそ口に乗せてみようか。
膨大な月日を経て、抱えた憧憬はあまりにいびつに育ちすぎた。もし自分のそれを打ち明けたなら、この女性は一体どんな顔を見せるのか。
写真の中の伏せ気味の瞼を、もう一度凝視する。その視線の先に、どうか自分を映し出してくれないだろうか。この灰色の世界から、自分を引っ張り上げてはくれないだろうか。代わりに、どれだけ深い傷であっても必ず治してあげるから。
「……は……。」
堪らず、乾いた笑いが零れた。
やはり重症だ。見ず知らずの人に、こんなにもあけすけな願いを馳せてしまえるほど、自分はこの世界に病んでいる。
*
『ひどい怪我でしたので、応急処置だけは施してあります。』
『あなた、表で倒れてらしたんですよ。』
……君に告げたその言葉は、嘘。
本当は、血まみれの君を見るや否や、無理やり向こう側に自分の意識を飛ばした。そして、今にも身体から離れてしまいそうな君の魂を、強引にこちら側へ連れてきた。それだけのこと。
そのせいで、向こう側の様子を視る「鏡」は、派手な音を立てて粉々に割れた。
特殊な加工が施されたそれは、自分がこの役割を担い始めたときから使い続けてきたものだ。三百年あまり、患者の現状を覗くために使ってきた。つい先日には、恋人や親友だと信じていた者たちに手ひどく裏切られた君の絶望を映し出していた。
鏡の破片は早々に処分した。
どのみち、二度と使う予定はない。
血の海に沈んだ身体から無理やり引きずり出した君の魂は、この世界を訪れた瞬間、すぐさま形を成した。身体に負っていた傷はすべて具現化され、痛々しいそれらを黙って眺めている気にもなれず、応急処置で手早く塞いだ。
役割上、治療の対象は人の心。だが、身体の怪我に関する治療の知識もひと通り持ってはいる。この程度の処置なら迷うこともなくこなせた。
向こう側の人間にとって、肉体と精神は等しく重要なものだ。どちらかが欠ければ、それだけで生命の維持は困難、あるいは不可能となる。
このままではこの人も危ない。そう思った。目覚めたときに己の傷の具合を知り、そのショックで精神を破綻させてしまいかねない。
震える吐息が零れた。
君はあの事故で死なない、それは決まっていたことだ。君は患者で、患者は勝手にこちらへ現れる。君がこちら側を訪れることは決定していた。その証拠に、君の情報はすでにこの診察室に届いている……それでも。
頭ではそうと分かっていても、あの状態の君を放っておくなんてできなかった。
鏡が作る境界を越えて君に手を伸ばした時点で、自分は禁忌に触れていた。自覚もできていた。
自分が取った行動は、向こう側の人間に対する執着そのもの。執着は、思念のみで形成されたこちら側の人間を蝕む絶対的なタブーだ。終焉へのカウントダウンは、あの日から始まってしまっている。
ごまかしていれば、まだ大丈夫。
例えば、君の治療が終わる頃までなら、きっと。
ただ、いくら思念体とはいっても、君は全身にひどい怪我をしている。
向こうの世界とは違い、深い睡眠を確保できさえすれば、それだけでもある程度傷は塞がるだろう。しかし、果たして完治までどれくらい時間がかかるのか。一度は目を覚ました君が再び眠りに就いてから、今日で九十日が経過している。
茶色がかった大きな瞳が、ゆっくりとこちらを向いたときのことを思い出す。億劫そうに動いた君の視線には、心に深い傷を抱えた人間特有の気配が確かに宿っていた。
……そういえば、あのとき妙な既視感を覚えたのだったか。気のせいだと言われてしまえばそれまでだが、ほんの一瞬、喪服のような黒い服を着た幼い少女の姿が脳裏に思い浮かんだのだ。
よく似ていた気がする。その少女の目と、君の目が。
「……。」
言葉もなく、またも口端から溜息が零れ出る。見も知らぬ少女のことなど、今は気に懸けている場合ではない。
君が負った傷の全部を、早く治してあげなければと思う。あの男に負わされたものも、親友と呼べるほど心を許していた女に裏切られた傷も、すべて。どうか夢の中でまで奴らに傷つけられていませんように――心の底からそう願う。
写真のようには束ねられていない君の黒髪に、指を滑らせる。
今、俺がどんな思いで君に触れているか、眠る君は知らない。知るはずがない。
それでいい、知らないままで。君は絶対に俺に心を開いてはならない。なぜなら、この身も心も、とうに終わりへ向かって歩み始めてしまった後。
だから、この思いには気づかないでいてほしい。
目が覚めた後も、治療が終わるそのときまで、どうか気づかないで。
*
『なおしてほしいひと、いるんだ』
いつか診察室に迷い込んできた子供の、焦燥と憂慮を孕んだ声を思い出す。
近頃、当時の夢を頻繁に見ていた。君の寝顔を見つめながら、うっかり自分も睡魔に襲われベッドに突っ伏してしまっているときなどは、大抵その夢を見る。
あの日、目の前で起きたことのすべてが夢だったのでは。そう思える程度には月日が経過している。事実、開かない扉を開けたり、消えていなくなったり、あの子供の言動のすべてが現実離れしていた……だが。
夢の中に現れるあの日の子供は、あの日からの時間の流れに比例するかのように、すっかり成長を遂げていた。
自分と同じ顔をした、大人の姿になっていた。
黒い服を着た女の子――いつかお前が言ったそれは、もしかして彼女なのか。
自分と同じ顔をした男に向かってそう尋ねるために口を開くと、途端に夢は途切れてしまう。いつも同じだ。「あんたじゃないと助けられない」という相手の言葉が耳に届くと同時に目が覚める。
お前は誰だ。なぜ俺と同じ顔をしている。その上、名前まで同じ……偶然とはとても思えない。
それに、なぜわざわざあの日と異なる姿で夢に現れる。今なお明確な意志を持って接触を図っているとでも言わんばかりに。
『いっかいだけなら、たすけてやる』
……あの子供とのやり取りは、現実に起きたできごとだ。
区別はすでに曖昧だ。あれも夢だったのでは、と思うことも、以前より確実に増えてきている。だが。
あの言葉に含まれる意図はなんだ。それこそが解せない。
もし、まさに今の俺が足を進めている崩壊への階段から脱出させてやるという意味だとしたら。人に助けを求められる側の俺に、助けを求めなければならない状況が訪れることを知っていたからこその言葉だったとしたら。
……さすがに考えすぎだろうか。
頭を抱えた。指先がチリチリと痛む気がして、無意識のうちに拳を握り締める。
「……サクヤ。」
堪えきれずに呼びかける。
今日で百五十日。伏せられたきりの瞼に、そっと唇を寄せた。
こうやって触れれば触れるほど、自分の命が終わりに近づいてしまうこと。あの男の裏切りのせいで、君の男性に対する不信感は異常なまでに高まっていること。どちらも十分すぎるくらいに理解できていて、それなのに。
髪に触れることも、肌に触れたいと願ってしまうことも、どう取り繕ったところで止められない。
早く起きてほしい。早く、会いたい。
……君が目を覚ましたのは、それからひと月と数日後。
この世界に無理やり連れてこられた直後に一度目を覚まし、再び眠りに就いてから――その日から数えて百八十六日目のことだった。
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