《5》約束
目が覚めて最初に視界に映ったのは、見覚えのない天井だ。
自宅マンションの天井とも、先日まで在籍していた職場の天井とも、離れて暮らして久しい実家の天井とも違うものだった。
焦点のずれた視界が、次第に鮮明さを取り戻していく。
横たわったきり、目元に手を乗せようとして、私はぎょっとして目を瞠った。両手が妙に白い気がしたからだ。白い、というより……これは。
手どころか、両腕がそれぞれ、まるごと白い布に覆われている。
指先をまともに動かせなかった違和感の正体を、私はやっと理解した。両腕は包帯まみれだ。左腕には、二の腕から肘、手首、さらには指先一本一本までしっかりと包帯が巻かれている。右腕も似たようなものだったが、そちらの包帯は指には至らず、手のひらで止まっていた。
もしかして、ここは病院だろうか。個人的なイメージではあるけれど、病院の天井はどこもだいたい白い気がする。視界に覗く天井もまた白い。
……まさか生き残ったのか。すさまじい勢いで突っ込んできたトラック、あれに轢かれて死ななかったなんて、にわかには信じられない。
緩々と巡らせていた思考は、後方から投げかけられたふたり分の声に遮られた。
「さ、
「お姉ちゃん! お、お父さん、私、先生呼んでくる……ッ!」
……、……、
……、……、
……?
なんだろう。初めて感じるとは思いがたい、既視感のような感覚が過ぎった。
かけられた声にではなく、考えていたことそれ自体に、だ。以前にも同じことを思った気がする。
得体の知れない不可思議な感覚は、間を置かずバタバタと騒がしくなった廊下と病室内の空気に、あっけなく掻き消されてしまう。
「咲耶……良かった、本当に良かった……」
「……おと、う、さん」
「ああ、まだ無理して喋っちゃ駄目ですよ。ええと、すみませんがご家族の方は一旦廊下でお待ちいただけますでしょうか。お時間はそうかかりませんので」
「は、はい! ほらお父さん、ぼーっとしてないで! 早く出るよ!」
「あ、ああ。先生、それじゃその、お願いします……」
呆けたように病室を出ていく父と、そんな父の背を支えて歩く、三つ齢の離れた妹……そう、私の家族だ。
ふたりにも相当心配をかけてしまっていたらしい。申し訳ないことをしたな、などとぼんやり考えつつ、医師からかけられる声と質問に、小さく頷きながら返事をする。
すべての質問が終わった後、私の身体を、ふたりの看護師が慎重に抱え起こした。状態を確認するようだ。
ほとんど痛みを感じず、そのことを不思議に思った。見る限りではかなりの包帯を巻かれているのに……どういうことだろう。医師も看護師たちも、私の「痛くない」という趣旨の発言に、怪訝そうに眉根を寄せた。「今日中に感覚の検査をしましょうか」と言い残し、彼らは病室を去っていった。
入れ替わりに病室内に入ってきたのは、父と妹だ。
わんわんと泣きじゃくりながら、妹は私の横たわるベッドに突っ伏している。妹の後ろに佇む父の目元も、また赤い。
「良かった……! お姉ちゃん、半年も眠りっぱなしだったんだよ?」
「う、ん……ごめん……」
「ううん、いいのいいの、本当良かった……あ、そうだ。あのね、事故があった日、お姉ちゃんを助けてくれた人がいるんだけど」
途中から顔を上げて話し出した妹の口元に、目が釘づけになる。
「……たす、けて……?」
「ああ。事故のときにな、救急車が来るまでその人が応急で処置してくれたそうなんだ。それがなかったらお前、本当に危なかったらしいぞ」
「呼んできてもいい? 多分今日も目を覚まさないだろうって先生が言ってたから、帰ってもらおうと思ってたんだけど……夜まで待ちたいって言って、今も待ってくれてるんだよ」
誰だろう。私を助けてくれた人。
ふと、和服姿の男性らしき人影が脳裏を過ぎる。なんの前触れもなく思い浮かんだその人には、見覚えがあるようでないようで……考えれば考えるほどに靄がかって霞んでいく。とても大切な人だった気がするのに。
「何度もここを訪ねてきてくれてるの、半年間ずっと。どうしても名乗ってくれないんだけど……もしかしてお姉ちゃんの知り合い? でも目が覚めてすぐだし、やっぱり今日は帰ってもらったほうが」
「……どこ」
「え?」
「その人、……今、どこにいるの」
「……お姉ちゃん?」
ベッドから飛び起きる。
痛みは感じない。さっきの医師に告げた通り、少しも。
あり得ない。トラックに撥ねられ、それから相応の時間が経過しているとはいえ、包帯をところどころに巻きつけた状態で、きっと身体中傷だらけで……おそらくは骨だっていくつもやられたはずだ。
医師の言う通り、今はまだ痛覚が鈍っているだけなのかもしれない。けれど、確かに私の身体は――巻かれた包帯の内側は、すでに癒えている。
私の怪我は、すべて彼が治してくれた。
荒みきって泥にまみれて、呼吸すらままならなくなってしまっていた、心の内側ごと。
「ちょっと、お姉ちゃん!?」
「咲耶!!」
どれほどの時間が経過しただろう。
半年。妹はそう言った。私が、かつて彼の傍で眠り続けていた期間と同じ、半年。
眠り続けていた……妹が伝えてくれたそれは、事実なのだと思う。
その間、私の呼吸は安定していた。だからこそ、今の私に繋がれているものは、腕に刺さった点滴の針のみ。
点滴台を鷲掴みにして、私は病室を飛び出した。
本来の機能を長く果たしていなかった両足は、なかなか思い通りに動かない。点滴台に縋りつきながら、もたつく足をなんとか進める。開いた引き戸、その左右を反射的に見やり、気づいた。
三、四メートルほど離れた先のソファに腰かける人物が、驚いた様子で私を見つめている。
「……カンゼ、さん」
震える唇から、勝手に声が零れた。
スーツ姿と黒縁の眼鏡、彼と違っている点はそれだけだ。目にかかるくらいの黒い前髪、動揺に揺れる黒い瞳、そしてすぐに双眸を細めて私に笑いかけてきたその表情――どれも、皆、あの人と同じ。
私の呼び声が聞こえたのか、あなたは顔をくしゃりと歪めて笑った。
最後に見たあのときの彼のそれとは違い、あなたの目元は涙に濡れていない。肌に宿る色もまた、あのときのように空気に溶けてしまってなど、いない。
「約束。覚えてる? ちゃんと迎えにきたよ、……咲耶」
どうしてとか、どうやってとか。
どうでもいい。今だけは、そんなこと。
自分が怪我人であることさえ忘れ、私は、腕を伸ばすあなたの傍へ走り寄った。
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