《4》喪失

「カンゼさん。駄目です、もう私に触れては」

「……サクヤ。」

「鏡、見てみてください。自分がどんな顔をしてるか、分かってますか」


 治療が始まり、ひと月。

 最初に顔を合わせたときとは別人に見えるくらい、今の彼は疲弊しきってしまっていた。


「私はとっくに治ってます。カンゼさんが治してくれたから、もうどこも痛くない。だからやめてください……これ以上は私が耐えられない」


 もっと早く気づくべきだった。いや、告げるべきだった。

 おかしいと気づいていながら、与えられる熱と甘さに溺れ、流され続けていたのは他ならぬ私自身。


 私のせいで、彼はこれほどまでに追い詰められている。

 そのことが、他のなにより耐えがたかった。


「カンゼさん、教えて。他にも治療の方法はあったんじゃないですか? 以前も話してましたよね?」

「……。」

「カンゼさんは、この世界の人たちには考えられない方法で私を治療してた……例えば、自分の身を削るような方法を、わざと選んで私の治療に当たってた。違いますか」


 矢継ぎ早に畳みかけても、彼は一向に返事をしない。

 黙って私を見つめているだけだ。私の言葉を前に、ここまでか、とでも言いたげな表情をしている。その黒い瞳の奥に、明らかな諦念が宿って見えた。


「どうしてそんな方法を選んだのか教えてください。そんな状態になるまで……なんで教えてくれなかったんですか……っ」


 言葉の最後に嗚咽を滲ませた私に、今度こそ、彼は静かに口を開いた。


「……サクヤのせいではないよ。」

「っ、だって……ッ」

「泣かないで。俺がそうしたくて選んだ……それだけのことだから。」


 溢れる涙を拭うこともできないまま、私は顔を上げて声の主を見つめる。


「サクヤ。この世界に生きる人間には、侵してはならない領域があるんだよ。」


 カンゼさんの顔が、滲んだ涙のせいでよく見えない。

 強引に目を擦って視界を広げても、どうしてか相手の表情は少しも覗けなかった。動いているはずの口も、私に向いているはずの目も、なにも見えない。

 ぞくりと背筋が粟立った。この世界において、私はアウェーの人間でしかない――ここを訪れて間もない頃にも同じことを思った。カンゼさんが語ること以外に、私はこの世界についてなにも知らない。


 カンゼさんは続けた。

 諦めたような声で、滔々と。


 向こう側の世界の人間、すなわち治療の対象となる人間に、なにがあっても執着してはならないこと。それは医術に携わる者であろうとなかろうと守らねばならない、絶対的な事項だという。

 本来なら実体を持って生きている向こう側の人間、それらに対する執着は、思念だけで構成されているこちら側の人間の身体を容易に蝕む。私たちのような人間を治療することに存在意義を見出している彼らとて、絶対に、相手に必要以上の感情を抱いてはいけない。


 さもなくば、簡単に命を落としてしまう……彼はそう言った。


「もう何百年になるかな。俺はずっとその掟を守って生きてきた。でも、君は……今回はどうしても駄目だったみたいだ。そろそろ疲れてきてたのも、きっと理由のひとつではあると思うけど。」

「……疲れて?」

「うん。誰にも心を動かさずに生き続けるって、結構大変なんだよ。少なくとも俺にとっては。そんなふうに思ってしまうこと自体、この世界の人間から見たら異端でしかないんだろうね。」

「……カンゼさん」

「君の抱える傷は、今まで俺が診てきたどの傷よりも痛々しかった。俺にはそう思えたんだ。……全部視てた。君があいつらに裏切られるところも、トラックに撥ねられる瞬間も。」


 カンゼさんの声が遠くなっていく。耳には届いているのに、まるで遠くの世界の人になってしまったかのよう……いや、違う。

 最初からそうだった。彼は、私とは違う、別の世界の住人だ。


「どうしてこの人だけがこんな目に遭わないとならないんだろうって思った。その時点で、俺の破綻は始まってた……いや、これ以上はごまかせなくなったと言ったほうが正しいかもしれないね。」

「……カンゼさん、私は」

「別に取り繕えば大丈夫って、最初はそう思ってたけど、泣いて事情を打ち明けてくれた君を見たときに……もう無理だなって悟った。」


 無理。その言葉の意味するところを想像し、私はひとり背筋を震わせる。

 語る彼の声を必死に手繰り寄せながら、ただ、まっすぐに立っていなければと……今しゃがみ込んでしまえば二度と立ち上がれなくなると、そんなことばかりが脳裏を巡る。


「治療の方法は、君の言う通り他にもあるよ、いくらでも。けど、早く治す方法となると限られる。どのみち俺の命にはもう後がない、それならなるべく急いで傷を塞いであげたほうがいい。そう思ったのも確かだよ。……でも、本当はね、サクヤ。」


 ――単純に、俺が君に触れたかっただけ。


 最後の言葉とともに、彼は私を抱き寄せる。

 その両腕は、すでに空気に溶けるように透けてしまっていた。



     *



『最後に、ひとつお願いを聞いてほしい。』


 透けた腕で私を掻き抱くあなたの声が、耳のすぐ傍から聞こえる。

 それなのに、遠い。遠くて遠くて気が滅入りそうになるほど、あなたの声も、あなたの腕も、私の傍にはない。


 ……嫌だよ。最後ってなに。

 私の心をここまで攫っておいて、最後の最後に新たな傷でもつけるつもりか。以前の傷とは大きさも痛みも比較にならない、今度こそどんな手段を用いても絶対に消せやしないだろう、そういう傷を。

 生きていたくなくなるほどの巨大な傷を残して、それを治してくれるはずのあなたは、二度と私の手の届かない場所へ消えてしまうつもりなのか。


 触れてくる唇を引き剥がそうと藻掻く私に、あなたは無慈悲な言葉を繰り返す。

 もう無理なんだ、どう足掻いても事態は変えられない――そんなことばかり、幾度も幾度も口にする。


「抱きたい。サクヤ、俺を受け入れて……お願いだ。」


 いやいやをするように顔を背ける私を見つめながら、あなたは囁く。

 熱っぽい視線だ。私が陥落しないわけがないと知っている、そういう視線。もう涙も滲まない。


 ひどい人。それなら私のことも連れていってほしい。

 あなたにつけられた新しい傷によって、私は身動きひとつ容易には取れなくなるに違いなかった。たとえ元の世界に戻ったとして、あなたのいない世界に生きる意味を見出すなど、今の私にできるとは思えない。


 きっと、分かっていてそんなことを言っている。

 私があなたに寄せている思いがどんなものか、知っていて、あなたは。


「……最低……」


 その上でこの仕打ちだなんて、あの男よりもよっぽど最低よ、カンゼさん。



     *



 空気に溶け、肌の色を欠いた手指が、さも愛おしそうに私の頬に触れる。

 首筋、胸元、腰、大腿、足首……しまいには髪の毛先に至るまで、触れた場所すべてに、あなたの指は燻るような熱を残していく。


 触れられることでも、穿たれることでも、過去に一度も快楽を得ることができなかった私の身体に、今、あなたは確かに愉悦の種を植えつけている。今後、誰からも永遠に受け取ることはないだろう快楽を、幾度も。

 痛むほどの熱を込めて私に触れるあなたの指は、怖いくらいに熱い。指も唇も、いつだってあんなに冷たかったのに。


 涙が頬を伝う。ぽたりと落ちた水滴がシーツに吸い込まれ、消えていく。

 名を呼ばれるたび、引き裂かれるような痛みが胸を走る。見たことのない激情に身を任せるあなたは、少し恐ろしくも見えた。怒っている感じに見えたからかもしれない。けれど。


 きっと、これこそがあなたの本質なのだろう。

 本来なら私が生涯目にするはずがなかった、あなたの本当の顔。


 私が望んだものは、絶対に望んではならないものだったのだ。望めば望むほど、あなたを霞ませてしまうものでしかなかった。

 私はいつから間違いを犯していた? 無意識のうちにこの世界に助けを求めた、その時点ですでに過ちは始まっていたとでもいうのか。


 ――あなたの命を縮める選択を、知らない間に取ってしまっていたとでも。


 どうすればいい。あなたを繋ぎ留める手段がない。

 分からない。考えても考えても答えは出ない……ならばせめて告げたい。そう思った。


『置いていかないで』

『私も一緒に連れてって』


 嗄れて痛む喉から無理に声を絞り出すと、あなたはそれまでよりさらに顔を歪ませた。今の言葉であなたを傷つけることができたなら、と思ったら、わずかばかり溜飲が下がった。

 私ひとりが手ひどい傷を負って残るのは、公平ではない……せめてあなたにもなにか刻みつけてやりたかった。そんなことを考えている自分は、いつかの自分以上に浅はかで醜いと、そう自嘲しながら。


 熱に溺れる身体から零れた涙はとうに温度を失い、茹で上がった頬を冷たく泳ぐだけ。

 それを拭いたかったのか、目尻に触れてきたあなたの指は、もう半分以上見えなかった。感触も、ほとんどない。


「……嫌……」


 消えてしまうなんて、嫌。

 こんなことになるなら、一生傷まみれのままで良かった。出会わないままのほうがずっと良かった。


 伸ばした指が、かろうじて輪郭を残しているあなたの首筋に触れる。

 最後に深く穿たれ、掠れた悲鳴が喉を滑り……それごと閉じ込めるように唇を塞がれる。その直後、触れ合うそれをわずかに浮かせたあなたは、過去に訊いたことがないほどに細い声で密やかに囁いた。


「愛してる。一緒には連れていけない……でも、」


 ――必ず迎えにいくよ、サクヤ。


 ごちゃ混ぜになった意識の網目をくぐり抜け、あなたの声がゆっくりと脳に届く。

 薄れゆく意識の中、私の目が最後に捉えたものは、空気に溶けて消える直前のあなたの手のひら……私の涙を拭おうと翳されたそれと、窓の外に覗く桜の木から散り落ちた数枚の花びらのみ。


 いつしか枯れ木と変わらぬ姿になっていた桜の、痩せ細った枝から、はらり、最後の花びらが散り落ちる。


 あなたの指も、最後の花びらも、すぐに見えなくなる。

 やがて、最初からなにもなかったかのように、色も形も失って消えてしまった。


「……カンゼさん……」


 喉を滑り落ちた自分の声は、ひどく遠かった。

 最後に聞こえたあなたの声が、本当にあなたの意志のもと放たれた言葉だったのか。それとも、あなたを求めるあまり気がふれそうになっていた私が生み出した、都合の良い妄想でしかなかったのか。


 答えを見出すよりも先、最後の涙が零れ落ちたと同時に、私の意識はぶつりと途絶えた。

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