《3》異変
治療という名の口づけは、その日から毎日続いた。
彼の唇が生む熱情は、日に日に濃度を増していく。もしかして愛されているのでは、と誤解してしまいそうになるほどに、彼の口づけは情熱的だった。
私が身につけている衣服は、和装の知識があまりなくても簡単に着られる、浴衣によく似た着物だ。「女性の患者さん用です」とカンゼさんに手渡されて以降、ずっとこれを着続けている。
実体がない以上、着物が汚れることはない。衣服に頓着することが苦手な私としては非常に気楽だった。
『肌寒さを感じるようでしたら、こちらもどうぞ。』
滅多にないとは思いますが、と前置きされつつ一緒に渡された羽織も、常に身にまとっていた。肌寒いからというよりは、単に色が綺麗だからという理由のほうが上だったけれど。
こっくりとした深い臙脂色の羽織は、この地を訪れて以来ひとつたりとも私物を持たない私の唯一のお気に入りだ。無論、これも私物とは呼べないのだが。
元々、私は臙脂という色を好んでいた。その私にこの色の羽織を用意してくれたことを踏まえると、彼にはそんなにも細かな情報まで渡っていたと考えたほうがいいのかもしれない。少し恥ずかしくなる。
治療が始まる際にも、着衣を外すよう求められたことは一度もなかった。
ただ、羽織の襟元を撫でたり、着物の首裏に触れたり……治療中に彼が取る、おそらく本人はなんとも思っていないだろう行動のひとつひとつに、堪らず過剰な反応を示してしまう自分が恥ずかしくてならない。
これは治療だ。彼は私の傷を治しているだけ。私に、特別な感情を抱いているわけではない。
躍起になってそう思い込もうとしても、大抵うまくいかない。堪えきれずに口端や鼻から甘い声を零してしまう私を、それまで以上にきつく抱き寄せては満足そうに双眸を細める彼の仕種に、いつだって私は惑わされてばかり。
……こういう治療を、他の患者にも施してきたのだろうか。
そう思い至るたび、胸が押し潰されそうになる。
『もちろん、女性の方だけではありませんよ。』
この場所を訪れる患者について、先日、彼はそう教えてくれた。
あの言葉を踏まえるなら、治療の方法は、きっとこんな甘ったるい手段のみではない。だが。
私がカンゼさんに対して抱く感情の質量は、いつしかすっかり増大していた。
二度と誰かに心を開くまい、特に男性には絶対に……つい数日前までそう心に誓っていたはずが、そんな思いはあっさりと打ち砕かれ、もはや原型を留めていない。呆れて溜息も出ない。
それに、治療が完了したら私はどうなるのか。背筋が凍りつくようなそんな疑問が、動揺に揺れる心を余計に波立たせる。
傷が完治して、治療の必要がなくなる日が来たなら、私はこの場所を――カンゼさんの傍を離れなければならなくなるのだろうか。
彼らのような人たちが、ひとりで一度に複数の患者を診る状況に陥ることは、滅多にないという。
とはいっても、私が治った後は、彼のもとへはまた新たに患者が現れるのかもしれない。私が現れたときのように。
そうなったとき、私の居場所は一体どこにある?
元いた世界に戻らねばならないのかもしれない。あるいは、カンゼさんの傍を離れ、この世界でひとりで生きていかなければならなくなるのかもしれなかった。
どちらにせよ、恐ろしくて仕方がない。そんな選択をしなければならないくらいなら、いっそ傷など永遠に癒えなくていい。
……親身になって治療に当たってくれている相手に対し、私のその考えはもはや侮辱に等しいだろう。それでも、私には無理だ。
カンゼさんの傍を離れるなんて、絶対に嫌。
*
初めて異変に気づいたのは、治療開始から二週間が経った頃。
きっかけは、治療を終えて私から離れた彼が、ふらふらと足をよろめかせたことだった。
顔色が悪い。見るからに青褪めている。
その癖、具合を訊いても「なんでもない」の一点張りだ。ご自身の心のことだけ考えてください――そんなふうに言われてしまえば、返す言葉もなくなる。
『それが私たちの存在理由だからです。』
二度目に顔を合わせた日、私の心の傷を癒やす理由について、彼はそう語った。
あの言葉の意味を再び考える。咀嚼する。けれど、答えは出ない。彼らとは違う世界に生きてきた私は、彼らの常識に一切通じていないのだ。
そもそも、この世界のことは私にはよく分からない。こちらに渡って以来、一度も外に出ていないからだ。
こちらの世界でカンゼさん以外に知り合いを持たない私にとっては、彼が口に乗せる言葉だけが真実だ。それ以上も以下もない。だから、彼がそう言うのなら、私が得るべき答えは他にない。だが。
まるで籠の鳥。知らない世界の中、限られた空間でただ息を繋ぎ続けるばかり。
意志を求められることのない生活――そんな中にありながらも、私の心には、ひとつだけ明確に認識できていることがあった。
このままではカンゼさんが倒れてしまう。今日こそは止めなければ。
近頃の彼は明らかに様子がおかしい。体調について問う私の声を遮るにしても、見るからに余裕がなくあからさまだ。
……毎日同じことを思い続けている。それなのに、結局、思考は与えられる口づけにたちまち霧散させられてしまう。ひとたび治療が始まれば、もうなにも考えたくなくなる。その内心すらもコントロールされている気がしてならない。
いつの間にか、私の心の中には、裏切った男の面影も、かつての親友だった女のそれも、少しも住まわなくなっていた。入れ替わるようにそこに居座ったのは、カンゼさんに対する底無しの恋情のみ。
男など、他人など、信用に値しない。奴らは私を傷つける生き物だ。そう思い込みながら、ぼろぼろの心身をなんとか守ろうとハリネズミのごとく針を巡らせていたはずが、今や私は完全に彼の心を欲してしまっている。
唇だけでは……治療だけでは嫌だ。あなたの心がほしい。
そんなことばかり考えては口を噤む自分を、浅はかだと思う。確かにそう思っているのに、どうしたところで歯止めをかけることはできない。
――お前、正気なのか。
不意に、先日カンゼさんのもとを訪ねてきたひとりの男性の声が脳裏に蘇った。
絶対に出てくるなと強く念を押したカンゼさんは、あの日、私が使っている個室にわざわざ外側から鍵をかけてまで厳重に私を閉じ込め、来客に応じた。
扉の向こう側から聞こえてきた声は、明らかにカンゼさんを糾弾していた。相手の言葉を遮るように、カンゼさんは声を荒らげて否定を返した後、そのまま彼を追い返してしまったようだ。
――正気なのか。
あの日の客人……この世界に住むカンゼさん以外の人物から見て、カンゼさんは今、正気を疑われる行動を取っている。その事実から、とうとう私は目を逸らせなくなった。
私に口づけるたびに顔を青くし、疲弊していく彼。
この世界に暮らす他の人間の誰にも、私を接触させたがらない彼。
鳥籠にでも閉じ込めるように、私をこの個室から出そうとしない彼。
なにかがおかしい。
きっと、彼は私に隠しごとをしている。それもひどく重大な情報を。
けれど、私が行動を起こそうとした頃には、事態はすでに手遅れだったらしい。
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