《2》問診

「こちらに渡ってこなければならないほどの傷を負った方は、そう多くありません。常にというわけではありませんが、あなたのご様子はたびたび拝見しておりました。」

「……あの……」

「お話しいただけませんか。」


 黙り込む私を見つめるカンゼさんの表情は真剣だ。


「無理やり治療を開始しても意味がないのです。そんなことをしても、あなたの傷が塞がることはない。」


 ……どうしてそうまでして他の世界の人間に尽くそうとするのか、その真意が私には理解できない。

 私たちの世界のように、医療行為を施すことで報酬をもらえるわけでもないらしい。だとしたら、仮に私の傷が癒えたところで、なおさらこの人になんの利点があるのか。


「ええと……どうしてそこまでする必要が? 私、他人ですよね?」

「……それが私たちの存在理由だからです。」


 答えながら、彼は物憂げに目を細めた。

 存在理由――思いもよらない返事だった。いささか大袈裟にも聞こえる。しかし。


 世界が違う。すべての理由はそのひと言に尽きる。私の常識も理屈も、ここでは完全に通じない。

 明確に判明しているのは、この世界において私は完全なるアウェーの人間だということと、彼の言う通り、私が心に欠陥と呼んで良いだろう甚大な傷を負っていること。それだけだ。


 あの日、私は確かに非日常を求めて彷徨っていた。

 そして今、想像を遥かに超える非日常を、まさにこうして体験している。


 話を聞いてほしい。私が抱えている傷を、抉れてひどい状態になった傷口を、どうか見てほしい。それは紛うことなき私の本心だ。

 とはいっても、例えば普通の医師に事情を説明するなら、多分もう少し身構えた。それを本当に伝えていい相手なのか、多少なりとも警戒したはずだ。だが。


 どのみち、ここは私が住んでいた場所とは違う場所なのだ。

 そう思ってしまったら最後、心を蝕んでやまなかった真っ黒なおりが、堰を切ったように溢れ出した。


 同じ会社に勤める二期上の男性と、二年前から付き合っていたこと。初めて身体を重ねたのは、付き合い始めて一週間後。異性との経験に乏しい私に、彼が失望の眼差しを向けてきたこと。

 それでも会うたびに求められ、身も心も疲弊していたこと。痛い、つらい、早く終わってほしい……それのことを、好きな人と想いを確認し合うための行為だと思っていたのに、最中にそれしか考えられない自分をだんだん情けなく思うようになっていったこと。


 口は勝手に動く。

 意志が口に追いついていない気がして、なんだか薄ら寒かった。


 無理を押して続けてきた関係が、先日、彼の裏切りによって崩れたこと。職場での悩みもプライベートでの悩みもすべて打ち明けていた私の大切な友人と婚約したという話を、職場の全体朝礼のときに初めて聞いたこと。

 照れくさそうに微笑むふたりを、呪いたくなるほど憎らしく思ったこと。

 もうなにもかもがどうでも良くなり、職場を自主退職したこと。業務の引き継ぎを終え、残っていた有給休暇を使い、あてのないひとり旅に出かけたこと。


 私を知る人が誰もいない場所に行きたいと思っていた。

 とにかく逃げたかった。こんなにもつまらない自分の人生など、いっそ終わってしまえばいい。自分で終わらせる勇気はないから、例えば不可抗力によって勝手に終わってはくれないものか。そうとすら思っていた。


 ――その矢先に、あの事故に遭ったこと。


 すべてを話し終える頃、私は狂ったように泣き叫んでいた。

 呪詛に等しい悪意のこもった言葉を繰り返しては、ぼたぼたと大粒の涙を撒き散らして、その繰り返し。


 目覚めた日、最初に視界に入り込んだ白い天井を思い出す。

 ベッドが設置されているこの部屋は、新しいとは言いがたいものの、綺麗に清掃が行き届き、きちんと整えられていることがひと目で分かる。

 この部屋で、彼は今まで何人の患者を治療してきたのか。私と同じような、痛みが過ぎて逆に涙も滲まないほどの傷を、その心の内側に抱えた人間を。


 表情を歪ませることも、また途中で口を挟むこともせず、彼は私の話をひたすら黙って聞いていた。


 時間の感覚にすっかり疎くなっていたけれど、落ち着くまでにはかなりの時間がかかったと思う。

 しゃくりあげる呼吸が少しずつ平静を取り戻し始めた頃、急に恥ずかしくなった。元いた世界と異なる場所に住む人とはいえ、初対面とさして変わらない相手に、とんでもないことを打ち明けてしまったのでは……不意に不安に駆られ、私は顔を俯ける。


 そのとき、頬に冷たいなにかが触れた。

 背が派手に震える。激情に滾って火照っていた肌は、微かな感触にさえ過敏な反応を示してしまう。羞恥のせいで余計に深く顔を俯けるしかできなくなった私の耳に、彼の穏やかな声が届く。


「……よく打ち明けてくださいましたね。本当は、私ではすべてを引き出すのは無理かと思っていたのです。」


 はっと顔を上げると、薄く口元を緩ませた彼と目が合った。

 その表情に釘づけになる。口角は上がっているのに、彼は今にも泣き出しそうな顔をしている。先刻までの表情とあまりに懸け離れているせいで、別人かと錯覚しそうになるほどに。


 私が泣かせているみたいだ――そう思ったと同時、意志とは裏腹に手が動いた。


 この世界において、私が知っている人物はこの人だけ。きっと、だからこそ普段なら絶対に取らないだろうその行動を取った。

 伸ばした指が、相手の頬に触れる。驚いた様子で目を瞠る彼の、頬から唇へと指先を移動させていく。なぞった唇は冷たく、無性に泣きたい気分になった。


「……あ……。」


 呆然とした相手の声が耳に届き、はっとする。

 ……なにをしているんだ、私は。唐突に我に返り、咄嗟に手を引いた、その瞬間。


 前触れもなにもなく強引に腕を引かれ、無意識のうちに喉が乾いた音を立てる。

 ベッドの縁に寄りかかっていた私の身体は、いとも容易に、相手の両腕の中に閉じ込められていた。


「っ、あ……の」


 なにが起きたのか、なかなか理解が追いつかない。

 彼の唇から引き剥がされた私の手は、いつしか長い指にきつく握り締められていた。

 ふと恐怖が過ぎる。一拍置いた後、その恐怖が、私を裏切った男とかつて肌を重ねていたときの感覚によく似ていることに気づいてしまう。


「……ひ……」


 悲鳴とも呼びがたい掠れた声が、喉から勝手に零れ落ちる。

 それと同時に、相手の指が私の頬を掠めた。掴まれていた手はすでに放され、長い指は頬を柔らかく辿るばかりだ。

 あの男からは一度も与えられたことのない、どこまでも穏やかな感触だった。彼の指は、唇と同じでひどく冷たい。温度を宿していないのではとすら思えてしまうほどに冷えたそれに触れられながら、しかし私の心には安堵が宿る。


 動揺が走った。

 違う。知らない。なんだ、これ。


 男性だ。あの男も、この人も。私に苦痛と苦悩しかもたらさなかった「男」……それなのに。

 いっそ違和感を覚えるほどに、私の胸には明らかな安堵が生まれ、居場所を作り始めていた。


「あ……」

「拒まないでほしい。俺が君に触れることを、拒絶してしまわないで……お願いだ。」


 縋るような声だな、と思った。

 どんな顔をして口にしているのか、気に懸かって仕方なくなるくらいに。


 掻き抱くように私を閉じ込めたがる相手の両腕に、さらに力がこもる。

 今、彼は自身を「俺」と呼んだ。ずっと「私」と呼んでいたのに。もしかしたら、彼の言葉には今こそ本音が覗いているのでは……そんなふうに思う。


 息もつけない抱擁を前に、それでもやめてほしいという気持ちは露ほども湧いてこなかった。

 苦しい。けれど、やめてほしくない。もしや、「治療」なるものはとうに始まっているのでは――不意にそう思った。

 面識の浅い男性にされて嬉しいことでは決してないはずが、今の私が感じているのはやはり安堵のみ。拒絶どころか、どうかやめないでほしいとさえ思ってしまう。これが彼の言う「治療」であるなら、納得せざるを得ない気がしてくる。


 声も出せないくらいに圧迫されているせいで、返事はできなかった。

 ベッドの縁に腰を下ろしたきり、彼は長身を屈めて私を抱き締め続けている。その首元に、堪らず私は両腕を回した。拒絶の意図がないことを示すための、せめてもの意思表示のつもりだった……だが。


 びくりと震える腕の感触が伝わってきた直後、ほとんど間を置かず、相手の唇が私のそれを塞いだ。


「っ、ん……ッ」


 無意識に鼻を抜けた声は、自分のものとは思いがたいほど甘く掠れていた。

 生理的な涙の滲んだ瞼を薄く開くと、うっすらと笑みを浮かべながら目を細める相手の顔が覗く。


 あり得ない。相手の首に巻きつけた腕の先、反射的に拳を握り締める。

 顔を突き合わせるのは二度目、それも一度目には私は寝たきりの状態だった。二度目である今日も、恋愛感情を覚えるようなやり取りなど一切交わしていない。状況の説明を受けただけだ。それなのに。


 熱っぽい口づけだと思う。それでいて、どうしてこんな口づけを与えられているのか、理由はまったく分からない。

 ただ、倒錯した感情に溺れかけながら、ひとつだけ明確に理解できていることがあった。私の心を覆い尽くしていたはずの澱が、嘘のように身体の外側へと流れ落ちていく感覚。確かに、今の私はそれに満たされている。


 やはり、これが「治療」なのだろう。そうとしか思えなくなる。

 なぜなら、あれだけ荒みきっていた――なにもかもがどうでもいい、死んでしまっても別に構わない、平然とそんなことを考えるまでに澱んでいた心が、今は。

 唇を割られ、口内に侵入を果たされ……意志を伴わないまま、口端から溢れる声が甘さを増していく。もっと、と、はしたないにもほどがある気持ちしか抱けなくなっていく。


 どれほど酩酊を深めた頃か、唇はようやく離れた。

 途端に底の知れない寂しさに溺れた私は、このときすぐに気づくことができなかった。


 カンゼさんの顔色が、私に触れる前より、わずかに青褪めていたことに。

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