You can't catch me
夏越リイユ|鞠坂小鞠
You can't catch me
《1》来訪
要らない。傷だらけの身体も、心も。
なにもかもが、私にはもう必要のないものだ。
ああ、それでももし、こんな抜け殻じみた私を誰かが拾い上げてくれるなら、私はその人に自分のすべてを明け渡してしまっても構わない。
とはいえ、私に残っているのは、どれもこれもどうしようもないくらいに半端なものばかりだけれど。
――絶望の底をたゆたいながらも救済の手を求めて藻掻く私の、なんて滑稽なこと。
*
目が覚めて最初に視界に映ったのは、見覚えのない天井だ。
自宅マンションの天井とも、先日まで在籍していた職場の天井とも、離れて暮らして久しい実家の天井とも違うものだった。
焦点のずれた視界が、次第に鮮明さを取り戻していく。
いつも通り、午前七時に自宅マンションを出た私が向かった先は、七年間勤めた職場ではなく最寄りの駅だった。必要最小限の荷物を手に、再就職やら引越やら、面倒なことを考えるより前にと、心の赴くまま電車でふらりと出かけたのだ。
なんの気なしに降り立ったのは、過去に一度も利用したことのない、七駅先の駅だ。
なにもなくていい。目ぼしい観光名所も商業施設も、別に要らない。私が求めていたのは非日常だけだ。普段と違う街並みが私を取り囲んでくれれば、それで十分だった。
駅を出てすぐの交差点。青に変わったばかりの信号。足を踏み出した横断歩道に突っ込んでくる一台のトラック。咄嗟に顔の前に翳した両手――記憶はそこでぶつりと途切れてしまっていた。
……死んだのだろうか。私は。
では、ここは死後の世界ということか。そういうものがあるとは思っていなかっただけに、その想定を簡単に呑み込む気にはなれない。
横たわったきり、目元に手を乗せようとして、私はぎょっとして目を瞠った。両手が妙に白い気がしたからだ。白い、というより……これは。
手どころか、両腕がそれぞれ、まるごと白い布に覆われている。
指先をまともに動かせなかった違和感の正体を、私はやっと理解した。両腕は包帯まみれだ。左腕には、二の腕から肘、手首、さらには指先一本一本までしっかりと包帯が巻かれている。右腕も似たようなものだったが、そちらの包帯は指には至らず、手のひらで止まっていた。
無意識のうちに額を押さえようと動いた利き手の指が、頭に触れる。そこにも包帯の感触があり、堪らず息を呑んだ。
よくよく考えてみれば、右側の視界は完全に塞がっている。目を開こうにも右目一帯の感覚は碌に冴えず、包帯云々以前に開けない状態にあることに気づかされ、私は絶句した。
着ているものに関しても同じだ。肌に密着する布の感触に違和感を抱いていたものの、視線を下に向けると、着せられた羽織らしき布地の隙間から、やはり白い包帯が覗き見える。平たくいえば、今の私はミイラ状になっていると思われた。
もしかして、ここは病院だろうか。個人的なイメージではあるけれど、病院の天井はどこもだいたい白い気がする。視界に覗く天井もまた白い。
……まさか生き残ったのか。すさまじい勢いで突っ込んできたトラック、あれに轢かれて死ななかったなんて、にわかには信じられない。
緩々と巡らせていた思考は、後方から投げかけられた低い声に不意に遮られた。
「……おや、目が覚めましたか。」
ひゅ、と喉が音を立てる。
人の気配は察せなかった。弾かれたように声の側に視線を向けると、そこにはひとりの男性の姿があった。
齢の頃は、私とそう変わらないか、もしくは少し下かもしれない。彼は和服を身につけていて、そのことに小さな違和感を抱く。
白衣の類ではない。
ということは、医師ではないのだろうか。やはり、ここは病院ではないのかも。
「具合はいかがですか? ああ、まだ動かないで。痛みはさほどないでしょうが、危険な状態には変わりありません。」
「は、はぁ……」
「ひどい怪我でしたので、応急処置だけは施してあります。あなた、表で倒れてらしたんですよ。」
「あ、……ありがとう、ございます」
反射的に、礼の言葉が口をついた。
礼を伝えている場合ではない。確認したいことが山ほどある。それなのに、うまく頭が回らない。
表で倒れていた? 応急処置? 救急救命の間違いではなく?
ここはどこで、あなたは誰で、私は今どうなっているのか。朦朧とした頭の中に、尋ねたいことが急に湧いて噴き出してきて、けれどそのうちのどれもが私の口をついて出てきてはくれない。
簡素なベッドと思しきその場所から上体を起こそうと試みたが、身体は思うように動かない。仕方なく、視線だけを男性に向け、今自分が置かれている状況をなんとか把握せねばと必死に頭を動かし続ける。
男性は、なんとも現実離れした雰囲気を携え、私の枕元に静かに佇んでいた。
長さのある前髪が無造作に横に流れ、そこから切れ長な目元が覗く。整った顔立ちをしていると思う。口元はわずかに緩められ、笑みの形を取ってはいる。だが、作り笑いじみた印象が離れない。感情の読み取りにくい無機質な表情に見えてならなかった。
両目をすっと細め、彼は右手で前髪を掻き上げながら小さく息を吐いた……ように見えた。
「……あなたは」
「ああ、申し遅れました。私は『カンゼ』と申します。医師の端くれみたいなものです。」
話す彼をじっと見つめる。
和服といういでたちが、彼の印象を余計に不明瞭にしていた。現代の日本でそんな格好をしている、私と同年代の男性――まるで現実味がない。
「まだ動いてはいけませんよ。やっと塞がってきたところです、どうか安静に。」
「……ええ、と」
「随分と深い傷をお持ちのようです。どのみち、お身体が回復しない限りは治療がままなりませんので、まずはゆっくりお休みください。具体的な治療計画については、また改めて。」
医師の端くれみたいなもの、という言い回しに気を取られ、ぽかんとしてしまう。医者ではないのにこうして医療行為を……大丈夫なのか。にわかに不安に駆られる。
しかも、「身体が回復しない限りは治療がままならない」とはどういう意味だ。治療が必要なのはその身体のはずだ。それに、具体的な治療計画とは一体。いろいろと事情が呑み込めない。
目が覚めてから理解できたことは、ふたつ。
自分が大怪我をしていることと、そんな状態の私をこの男性――「カンゼ」と名乗ったか――が助けてくれたこと。それだけだ。
「では、詳細は再びお目覚めのときに。おやすみなさい、サクヤさん。」
いかにも作ってみましたと言わんばかりに持ち上げられた彼の口端を見た途端、私の意識は瞬く間に混濁していく。
どうしたんだろう、急に……ものごとをあれこれと考えられる程度には目が冴えてきていたのに。
怖くなるほどあっさりと薄れていく意識の中、最後の最後に脳裏を過ぎったのは、どうしてこの人が私の名を知っているのかという疑問だった。
*
もしかしたら、全部夢なのでは。
眠ったまま、おそらくは夢の中で思い至ったその考えは、しかし再び目が覚めてすぐに打ち砕かれた。
億劫ながらもなんとか動かした視線の先、にこやかな笑みを湛えていたのは、例の男性――カンゼさんだったからだ。
どれくらい眠っていたのか知らないが、私の怪我は、目覚めたときにはほとんど完治していた。
眠っているだけで治るなんて、そんなことはあり得ない。ミイラじみた状態だった自分を確かに覚えているのに……そういえば、前回目が覚めたときも痛みは感じなかった。起こそうと思った身体が思うように動かなかった、それだけだ。
「ええと……私、どれくらい眠っていたんでしょうか」
「あれから半年が経っていますよ。」
包帯の取れた両手を呆然と眺めながら尋ねた私は、彼の返事を聞くや否や絶句した。
苦笑を浮かべた彼は、よくあることです、と笑って口にした後、ようやく事情の説明を始めてくれた。
ここは、私が元いた場所とは完全に異なる場所――「異なる世界」だという。
ときおり、私のようにこちら側に迷い込んでくる人がいるそうだ。そういう人は、やはり私と同様に、ひどく傷ついた状態で現れるらしい。
……なんだ、それ。思わず呆けた顔を晒してしまう。
異世界に渡った……漫画や小説に登場する主人公のように? いや、だが単にこれは臨死体験の延長線上にあるものなのかも、という気もする。こちら側に訪れる人間は誰もが怪我人だと言うし、そちらのほうが正解に近そうだ。
現実逃避を図りつつ視線を泳がせた私に気づいているのかいないのか、カンゼさんは滔々と続ける。
「この世界に暮らしている者は、皆、元は動物や植物……あるいはモノに宿った思念が実体化したものです。私もそうなんですが。」
「……思念?」
「はい。あそこに大きな桜の木が見えるでしょう。あれが私の本体です。」
窓の外を指差しながら告げるカンゼさんの顔に、冗談の気配はこれっぽっちも浮かんでいない。彼は至って真面目に話し続けている。
彼のように植物から実体化した人――「人」という呼び方で合っているのかどうかは分からないが――は、医術に関わる仕事に就いていることが多いそうだ。実際、いつかカンゼさんも「医師の端くれみたいなもの」と自身を称していた。
……どう返すべきだろう。悩んでしまう。
そうなんですか、と無難な返事をした後、机上に置かれた小ぶりの鋏が視界に映り込んだ。
「じゃあ、この鋏にもカンゼさんみたいに実体があるんですか?」
「ああ、その子はまだ幼いので実体化までは果たせていません。」
「……幼い……そうですか……」
冗談のつもりで問いかけたのに、さも平然と返された。
これ以上話を続けられるだけの気力は、もはや残っていなかった。動揺をごまかそうと窓の外にちらりと視線を向け、咲き誇る桜の大木を見つめる。
見事な桜だ……そう思った瞬間、強い違和感に襲われた。
おかしい。怪我をした日――つまり事故に遭った日から半年が過ぎているのなら、今の季節は春ではないはずだ。
ここが私の暮らしていた街とは異なる世界なら、あちらの概念はこちらでは通じないのだろうか。こちらでは今こそが春という可能性もある。だが。
混乱が抜けない。
深く考えないほうがいいのかもしれない、と痛む頭の端で思う。
「サクヤさんのお怪我がすでに完治されているのも、こちら側へいらしたときに、あなたのお身体そのものが思念体に変化したからでしょう。」
カルテと思しき机上の書類と私を交互に眺めながら、彼はそう口にした。
理解は追いつかないが、なんとなく納得できそうな理由を見出せたから、私はこくりと小さく頷き返す。
寝ているだけであれほどの怪我が治るなど、普通は考えられない。
彼の言葉を信じるなら、私は半年間ずっと眠っていた。その間、食事を取るでもなく、点滴や酸素マスクのような医療機器を身体に繋がれるでもなく……そんなことは、私の知る現実ではまず起こり得ない。
しかも、包帯が巻かれていたあの時点でも、痛みを感じることはなかった。包帯の内側はなんともないのでは、と疑ってしまいそうになるほどなにもなかった。それもこれも、実体としての肉体がないということなら分かる気がする。
いわれてみれば、空腹や喉の渇きも感じない。それも、実体がないことによる恩恵なのだろうか。食べなくても飲まなくてもいい……トイレに行く必要などもないということになる。
汗や汚れ――正確にはそれらが肌に付着する感覚らしいが――が拭えないことはあるそうだ。不快なら、その都度入浴や清拭は必要になるとの話だった。
けれどそれも、飲み物を口にしなければならないわけではない分、私がいた世界に比べれば頻度は低そうだ。そもそも、実体でない以上、汚れが身体に付着すること自体が完全に感覚的なものだという。
世界の数だけルールがある、ということか。
生憎、私が知る世界は元々暮らしていたあの世界のみ。こちらのルールをきちんと理解するまで、まだまだ時間がかかりそうではある。
「……あ、そうだ。ひとつ質問が」
「おや、なんでしょう。」
「カンゼさんはどうして私の名前を知ってるんですか?」
前回目が覚めたとき、再び眠りに落ちる間際に過ぎった疑問だ。ようやく頭に浮かんできた。
私の問いかけに、カンゼさんは少々戸惑った様子で口を開く。
「どうして、と言われましても……患者さんですので。」
「……患者?」
「こちらにいらした向こう側の世界の方は、どなたも深い傷を負っておいでです。もちろん、サクヤさんも例外ではありません。」
「は、はい」
ときおり顎に指を添えながら、彼は言葉を選ぶように話を続ける。
「そういった方々がこちらに迷い込むのは、偶然ではないのです。皆さん、治してほしいと自ら望んでこちらへいらっしゃるのですよ。どういった方がお見えになるのか、私たちのような者は、ある程度事前に知らされているのです。」
「……知らされている?」
「はい。誰から、という詳細はお伝えできませんが。サクヤさんの情報も事前に伝えられていましたから、お名前と、それからお顔も、あらかじめ存じ上げておりました。」
話を聞きながら、望んで、という言葉が妙に引っかかった。
私も、望んでここにやってきたとでもいうのか。トラックに潰された身体を治してほしい、そう願って?
腑に落ちない。轢かれる瞬間、「助けて」とは特段思わなかった気もするが、そんな極限状態で絶対に思っていないかと問われれば、確かにノーとは言いきれない。
名乗ってもいない私の名前を、カンゼさんは知っていた。ならば、彼の言うことに間違いはないのだろう。
沈黙の中、新たな疑問が浮かぶ。
私の怪我は治っているように見える。痛みもない。それなら、私はこれからどうすれば。
次から次へと、新しい疑問は飽きもせずに湧いてくる。
「ええと、治していただいてありがとうございます。助かりました。それで、私は今後どうすれば?」
「え? いえ、治療はこれからですが。」
「はい?」
これから、とはどういう意味だ。
察しきれず、つい間抜けな声をあげてしまう。そんな私を、カンゼさんは困惑気味に見つめ、数秒の後に「ああ。」と納得したような声をあげた。
「サクヤさん。おそらく、あなたは誤解をなさっています。サクヤさんの場合……いや、他の方々の場合もそうなのですが、治療を行うのはお身体ではございません。こちらです。」
口元を緩めた彼は、ちょうど私の胸元辺りを指し示している。
「随分と深い傷をお持ちだと、以前にも申し上げましたね。私は今、あなたの『心』についてお話ししています。」
最後の言葉が耳に届き、はっと目を見開く。
私を見つめて淡く微笑む彼の顔を、私は、そのまま呆然と見つめ返すしかできなかった。
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