2番乗り場でまた会おう

雪道 暖

第1話 2番乗り場でまた会おう

 白い埃が宙に舞っている。肌に触れる度に痛みのような冷たさが襲う。口から吐き出される銀色は空気に溶けて透明となって掻き消される。


 駅のホームで、ある男は黒いコートに身を包んで立ち尽くしていた。何をするでも無く、ただ呆然と線路の果てを眺めていた。それは何かに怯えるようで、何かを待ち望んでいるようにも感じた。


 辺りに人はいない。地方らしくがらんと静まり返って風の音のみが耳に延々と鳴り続けている。


 そうしていると、けたたましい音が耳を劈いた。何度聞いても慣れない轟音が黄色い点字ブロックの上の男に警告し続ける。


 足を見れば滑稽なほど竦んで震えていた。まるでネジを巻く玩具のようだ。男はなんとか足を押さえるが、それでも震えは収まらない。


 到頭待ち望んでいた時間がやって来た。線路の先から白いライトが見える。それが段々近付いてくると異様な威圧感をひしひしと感じてくる。


 男は震える足をなんとか上げて黄色い線から一歩踏み出す。もう一歩出そうと足を上げるが何か重力のようなものを感じてその足はもう一方の足に吸い付く。


 ライトは目を瞑るような眩しさと共にこちらに迫る。もうすぐだ。もうすぐでのだ。このたった一歩で全て辞められる。辛いことも苦しいこともしなくていい。男はこの一歩で「解放される」という思いを持ちつつも、しかし未だに踏み出せずにいた。


 男は段々呼吸が浅くなり、身体中から嫌な汗が滴る。極度の恐怖からある種の酩酊感さえ覚える。


 そうしているとヘッドライトはホームに踏み入って弾みのいい滑車音と共に男の目と鼻の先にまで来た。


 ここだ。ここで進まなければ、俺は解放されない。そんな思いが男の中で渦巻いた。男が慌てるように一歩踏み出そうとして――。


「ダメ!」


 不意に誰かの声が耳を劈く。ライトは物凄い速さで男の眼前を嘲笑するように通り過ぎて行く。男の足はまた片方の足に吸い付くように置かれていた。


 なんだか男は腹が立った。もう少しというところで邪魔をされたのだ。それが悪意でなく純粋な善意であろうとも、男には到底許せないことであった。あの声の奴に問い詰めてやる。そう思って声がしたホームの向こう側を見据える。未だ列車はガタンゴトンと弾みのいい音を立てながらホームを隔てていた。列車の最後の車両が過ぎ去って漸くホームの向こう側が見え始める。


 白いコートを着た女性が佇んでいた。制服は来ていないが、顔や体付きがまだ幼い。十代半ば程であろうと男は推測した。両手を胸の前で握り締めて、顔は俯いている。何か心配そうな目が男の目と合うと段々涙ぐんで目尻に雫が浮き始める。


「おい!」


 男は声を張り上げる。ホームの向こう側にいる女を牽制するために張った声は女の驚く姿を見て満足そうに消えていった。


「折角死ねるところだったのに! どうしたらそんな酷いことが出来るんだ!」


 そう言い放つと、肩を竦めていた女は負けじと一歩踏み出す。


「自殺なんて絶対駄目です。私はあなたに死んで欲しくなくて……」


「俺は死にたかったんだ!」


 女の言葉に被せるように男は叫んだ。誰もいないホームではその声はとても良く響き渡って駅の中で何度も反芻する。


 恥ずかしくなって顔が段々赤みを帯びていく。


「……じゃあ、どうして死にたいのか、教えて下さい」


 女の言葉に男はほとほと呆れていた。この女は何を図々しく宣っているのか。男には話してやる義理もこれ以上会話を続ける必要も一切ない。このまま無視をして、次の電車を待つのがきっと最も良い選択だろう。


 ――だが。少しだけ、話したい気持ちもないではなかった。


「……別に特別な理由なんてない。毎日の仕事とか他の奴に対する劣等感とか努力しても報われなかったりとか……そんな良くある理由だよ」


 そう言って男は目を泳がせながら項を爪で軽く掻く。その言葉が本当なのか嘘なのか、女には手に取るように分かった。


「全部嘘ですね」


女の言葉に動揺したのか男は初めて女と目を合わせた。女は確信のようなものを感じて声を張り上げる。


「私、ちゃんと聞きます! 理由の内容なんてどうでもいいんです! あなたの本音を聞きたいんです! だから本当のこと……ちゃんと言ってください!」


 突然、矢が胸に突き刺さった。ぽっかりと胸に穴が空いてしまったようだ。女の声が男の脳裏を焼いて穴を広げ続ける。男はその穴を埋めるように言葉を溢す。


「毎日仕事に行くのが憂鬱だ。知らない奴の診察して、知らない奴の身体を弄って……こんなことしたかった訳じゃない。俺は他人を助けたいと思えるほど善人じゃない」


「だったら転職でも何でもすればいいんです! あなたのしたいと思うこと、やっていいんです!」


 男は穴を埋めるように両手で肩を掴む。まるで寒さに凍えているようだった。


「俺より仕事が出来る奴が妬ましい。俺より患者から感謝されて人に囲まれて……俺にはどうしようもない差があるのが許せない」


「上なんて見ないでいいんです! あなたにだって友人も話せる人もいますよね。あなたはあなたに出来ること、ちゃんとやってます! 毎日頑張ってます!」


 口から呻き声のような、慟哭のような何かが漏れ始める。男は枯れるような声を吐き出しながら、それでも必死に言葉を紡ぐ。


「努力しても……報われ……ない。何やっても途中で成長しなくなって……何しても……誰かに追い越される。同じだけ……頑張ってるのに……」


「それでも、あなたの努力に意味がなかった訳ないです! 他人より少し効率が悪くても、あなたはちゃんと前に進んでました! 他人と比べないで下さい! あなたの努力は、ちゃんとあなたの力になってます!」


 男は「やめてくれ」と懇願するように地面に蹲る。見せたくない穴がどれだけ塞ごうとも埋まらない。


 うるさい。そんな言葉が男の頭の中で何度も何度も騒音のように鳴り続ける。


 地面を見つめていると自然と雫が目下に落ちる。何度手の甲で拭いてもまたすぐに溢れる。何度止まれと思っても蛇口が壊れたかのように頬を伝う。

 

「……もう理由は……ないですか?」


 女は息を切らしながらそう問い掛ける。


 頭が痛い。まるで他の人間でも頭の中にいるかのようだ。砂嵐のように雑音が飛び交う。


 嗚呼、そうだ。もう理由なんてない。嘘だ。今日は引き返そう。駄目だ。死にたくなればまた来ればいい。駄目だ。その時にはきっとあの女だってもう消えている筈だ。嫌だ。


 ――その時にはちゃんと死ねるんだから。


「お前が……いないよ……」


 自然とそんな言葉が口から溢れていた。その声は女に届かなかったのか、先程のように反論はしてこない。


「ずっとずっとお前が居ないんだ……お前が生きても良かった世界にしたくて……医者になって……治療法も模索して……お前と同じ病気の奴らを助けて……だけど、結局お前はここにいなくて……」


 ぽたぽたと零れるような声が空気に溶けて消え去る。


「これじゃ生きる意味なんてない……俺が今まで頑張ったことは一切お前の為なんかじゃなくて……俺の……ただの自己満足だ……!」


 瞬間、何かが男を覆った。崩れそうになっていた男の身体を白い衣が包み込んだ。


「そんなことないよ」


 女の声が左耳近くから聞こえた。何が起こったのか男には分からなかった。温かい何かが男の氷を溶かして水へと変えていく。


「あなたが頑張ってきたこと。苦しんできたこと。想ってくれたこと。全部全部嬉しかった。自己満足なんかじゃないよ」


 男は段々溶けていく。氷が溶けて体積を減らし、その姿を露わにしていく。


 子供が泣いていた。男の姿は消え、ただ十代半ばほどの少年が女の胸の中で泣いていた。


「私、ずっとあなたのことを見てるから。だからすぐにこっちに来ちゃダメだよ。沢山楽しいことを経験して、沢山笑ってて。私はそれで十分だから」


「お前が居なきゃ笑えないよ……」


 振り絞った声は震えて弱々しい。しかし、それはちゃんと届いていた。


「私もちゃんと一緒にいるから。あなたが笑ってる姿、沢山見せてね」


 そう言って女は男から体を離す。


 男が顔を上げた時には既に女はホームの向こう側だった。


 女は微笑んで見せる。温かなその笑みは男に雪風を浴びせるようだった。


 寂しさが身体中を巡る。また凍えてしまいそうだ。それでも悴んだ声で男は言い放つ。


「――――」

 

 女は大層驚いた顔をした。雪の寒さのせいか顔は赤みを帯びている。


 すると、またけたたましい音が鳴り響く。左の方を見ればヘッドライトが目前に迫っている。


 女は急いで男の方を見る。


「次会う時はお爺ちゃんだよ」

 

「嗚呼、約束する」


 男の返答を聞いて女は嬉しそうに顔を歪ませた。手の甲で目を拭って、少し腫れた目で笑って見せる。


「じゃあ!」


 瞬間、列車が二人の間を隔てた。男は何かを期待するように列車が通り過ぎるのを待ったが、しかし結局ホームの向こう側は無人となっていた。


 男は少し切ない表情で踵を返し、駅を出る。


 外に出ると雪が晴れて日が照り始めていた。


 男は歩き始める。何の変哲もない光景が視界いっぱいに広がる。変わらないコンビニ。変わらないビル。変わらない道。


 これから何でもない日々が幾度となく来るだろう。それでも、歩いて行こう。1歩ずつ、ゆっくりと。止まってなんていられない。何せ、背中を押してくれる人が隣にいるのだから。

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