夏の終わりのイノセンス

如月トニー

 夏の終わりのイノセンス




 この話をする前に、一つだけ前置きをさせてください(……その30代後半と思われる女性は、パソコンに向かって苦笑いをしながらキーボードを弾き始めた……)。今から約20年前の夏の終わり頃、私はとある犯罪すれすれの行為をしてしまいました。しかしそれはあくまでも、純粋な気持ちがあったからこそなのです。だからどうかその点についてだけはくれぐれも留意して欲しいのです。

 もちろん、もしあの時の私が成人した男性だったら、そしてあの子が少女だったら、あの日の事は間違いなく「犯罪だ!」と糾弾されるでしょうし、たとえ何をどう言い繕ったところで、あの時の事を正当化するだなんて絶対に不可能でしょう。

 でも私は女性おんなですし、なによりも、あの日の私はまだ未成年でした。ただ、たとえそれはそうだとしても、あれは少々やり過ぎでした。その事を、他でもない私自身、今ではじゅうぶん過ぎるほど承知しているのです。

 とはいえ現代いまはコンプライアンス全盛の時代です。あの夏の日の秘め事を大っぴらにした日には、きっと一部の人たちから、

「女だからって、承知しているからって許されるとでも思っているなら大間違いだ」

 このような非難を浴びる可能性も決して少なくはないでしょう。

 そうだとしても、こうしてとはいえプライバシーが確保されているネット上にて、あの夏の日の秘め事を打ち明けようと思い至ったのには、もちろん幾つかの理由があります。

 あれから約20年の年月を過ぎ、今年の春、ついに私の息子もあの時の少年と同じ中学1年生へと進級しました。それからさらに半年近くが経ち、すっかり空と草花が秋めいてきたつい先日……。つとあの夏の日の秘め事を思い出さずにはいられない奇跡とも言える出来事が起こりました。それだけが理由の全てとは言いません、が、少しずつ異性を気にするようになり始めた自分の息子を見るに伴い、こんな気持ちがふと、悪戯に思い浮かんだのです。

 ……こんな今の私ならではこそ伝えられる、大切な何かがあるのではないか……、と。

 あの日あの時、花も恥じらう女子高生だった私は、いくら半分は自分の身から出た錆だったとはいえ、とある不運な出来事から、ひどく自暴自棄な気持ちになっていました。出来心は、それが理由でつと生まれ、あのような犯罪的な事をついしでかしてしまったのです。

 もちろん私は私なりに、海よりも山よりも深い理由があってそうしてしまったわけなのですが、ではなぜ、あのような事をしてしまったのかを、これからネットを通して世の不特定多数の人たちに広く訴えたいと思っている次第です。

 人によっては思うところもきっと多々ある事でしょう。

 けれどもどうかお願いします。

 人の話をすぐに遮り、自分の言いたい事ばかり言う方や、批判や反論だけは一人前、といった方々が少なからずいます、……が、もしかしたら、そういった人たちは、その話の一体どこが結末オチなのかが分からない心の病を患っているのかも知れない、……近頃私はつくづくそう思っているのです。反対に、どうも人の話をきちんとちゃんと最後まで聞く、という事ができる方は、それなりにいるように見えて、案外少ないようにも思うのです。その事を踏まえた上で、改めてどうかお願いします、私が若気の至りで犯してしまったあの夏の日の秘め事の顛末を、どうぞ広い心を持ってして、きちんとちゃんと最後まで、読んでやって頂きたいのです。



 あの夏……。

 私は神奈川県逗子市にある第一運動公園のプールで、監視員のアルバイトをしていました。居酒屋やコンビニ、またファーストフード店などといったクーラーの効いたバイト先はもちろんありましたし、知ってのとおり高校生でも勤まる所は、他にいくらでもありました。ではなぜプールを選んだのかと言いますと、「客商売はもうこりごり、開放的な空間で時間を過ごしたい」、そんな気持ちで心がいっぱいになっていたからでした。

 プールは家から少し離れた場所にありましたが、私は原付のスクーターを持っていたので、通勤の足に困る事はありませんでした。

 あの夏流行していたアロハシャツにハーフパンツという極めてラフな、なおかつ男の子のような格好で原付に跨がり、柄こそ派手なものの、露出度を控えたワンピース型の水着に着替える。上半身にはプール指定のTシャツを羽織り、首には監視員である事を示すビニールケース入りの名札と笛をぶら下げ、監視台の上でボンヤリと水色にペイントされたプールを眺めながらその日一日を過ごす。もし何らかの不測の事態が起きたとしても、その時はその時、嫌でも気がつくに違いないし、気づかなかったとしても他にも監視員はたくさんいる、きっと大した問題にはならない。

 ……などと気楽に考えていた私は、今まさに文字にして描いたとおり、毎日をただボンヤリと過ごし、時間がくれば水質の検査をして記録表に塩素などの量を書き記す、といった日々を淡々と過ごしていたのでした。

 もちろん、そんな勤務態度で臨むなんて事が許されるはずはありません。言うまでもなく、水難事故は時に命の危険を伴う事もあるからです。当然の事ながら、その時のために備えて、人工呼吸のやり方やAEDの使い方などといった講習を事前に受けて試験をパスしてはいました、が、たとえそれはそうだとしても、あの夏私は、とてつもなく怠慢な人間へと成り下がってしまっていたのです。

 正規の勤め人である市の職員から注意を受ける事もありました。でもそんな注意ものを受けたところで、反省しよう、自分の行動を改めよう、などと思ったりはしませんでしたし、ましてやヤル気になる事など、もちろんもっとありませんでした。私は口先だけの謝罪を繰り返しては、さんさんと降り注ぐ日光の下、自分の肌がどこまで小麦色に染まるか、ただそれだけを楽しみにして過ごしていたのです。今となっては、「よく解雇クビにされなかったな」、と、我ながら不思議に思えて仕方がない事を、平然と取り行っていたのでした。

 きっと暇疲れしている事が顔にも明らかに現れていたのでしょう、ある時通りすがりのおばさんから、何の前触れもなく、

「アンタ! 一体さっきから何なのよその態度は!」、と、問答無用で怒鳴り散らされた事もありました。また、「同類」だと見做されてしまったのか、やはり明らかに成り下がっているという風にしか見えない下卑た男の人たちから、

「後でどこそこの店で待ち合わせない?」、などと、それはそれは下品なナンパを受けた事もありました。……つまり、けっきょくのところプールの監視員も、あれほど「もう二度とやりたくない」と思っていた居酒屋のバイトと、大して変わりはしなかったのです。

 くだんの中学1年生の少年と知り合ったのは、八月もあと二日で終わりを迎えようとしていた日の、お昼頃の事でした。

 切れかかったコパトーンの日焼けクリームをボトルを逆さにしてどうにかこうにか絞り出し、ココナッツの香りを楽しみながら体全体に薄く広く塗り伸ばしていた私の元に、その少年は突如現れたのでした。

「今からクロールで泳ぐんで、50メートルのタイムを測ってください」

 タイムウォッチを持ったその少年は、出し抜けにそう声をかけてきました。一瞬、「またナンパ?」、という思いが脳裏をよぎりました。しかしまだ子どもの彼がそんな事をするはずがありません。何よりも、その少年の眼差しに宿る光には、まさにコンマ一秒を争うアスリートの真剣そのもの、といった勝気な力が漲っているのが、手に取るようにハッキリと見て取れたのでした。怠惰だった私にはあまりにも強烈すぎる、その真夏の日差しのような熱視線に、

「いいけど? でもなんで私なの?」

 やや気圧されながらもそう問い返してしまいました。

「事務所でお願いしたら、"あそこのボーッとしてる暇そうなお姉さんにやってもらいなさい"って言われてタイムウォッチだけを手渡されたんです……」

 何ら悪びれる事なく、そう言いのけてみせた少年に、一瞬呆気に取られてしまいました。するとその少年は、きっと私の表情がやや険悪になったのを見逃さなかったのでしょう、こちらが何か言うよりも先にこう言い足したのでした。

「……僕が言ったんじゃありません。事務所のおじさんがそう言ったんです……」

 ところが私の感情を見透かさなかったのであろう事はほぼ明白なのに、彼のそのこちらの気持ちを一切慮らないストレートな物言いはそれだけに留まらなかったのです。

「……一日中ボーッとしてるなんて時間がもったいないですよ。もしかしたら明日、死んじゃうかも知れないんですよ?」

 その不躾な物言いには、少しばかり神経に障る何かがありました。それが理由で思わずムッとしてしまった私は、

「おじいちゃんおばあちゃんじゃあるまいし、"明日死んじゃうかも知れない"だなんて大袈裟よ」

 つとそう反論してしまいました。すると少年はいきなり、

「Tomorrow Never Knows.」

 それはそれはネイティヴ(いいえ、英語の分からない私がそう言い切るのは何か不自然な気もするので、ネイティヴなように聞こえる、と訂正します)な発音でそう言い返してきました。思わず「へっ?」と聞き返すと、

「明日の事なんか絶対に分かりませんよ……」

 今度は日本語でそう言うのでした。

「……オレ、英会話スクールにも通ってるんです。だって何回も言うようでなんですけど、ボーッとしてるなんてもったいないし、その時間を使っていろんな事にチャレンジした方が自分のためにもいいと思うんですけど?」

 確かに私が怠惰だったのは、すでに説明したとおりでした。何よりその「事務所のおじさん」が一体誰なのかとっくに見当がついていた私は、ボンヤリする事の是非はともかくとして、「きっとその人も今ごろ私を事務所からそれとなく見ているに違いないだろうし、この子の言うとおりにして少しは働きっぷりをアピールしなくては」と思い直し、その申し出を受け入れる事にしました。

 それこそまるで、暗闇の中、突如としてスポットライトを浴びたステージ上の役者を見るような気分だった、と言えばきっと分かってもらえる事でしょう。タイムウォッチを受けとった瞬間、つとその少年の、見るからに水泳で鍛えられていそうな逆三角形のそれはそれは美しい体躯に、私の視線はたちどころに奪われてしまいました。

 ……長い四肢。

 ……病的なまでに白い肌。

 ……カッチリとした幅広の肩。

 ……バレーのボールよりも小さな顔。

 その上、腰から足にかけてのラインが、強い風が吹こうものなら、たちまち折れてしまうのではないか思うぐらい細いのです。真夏の女神が、水の抵抗を極限まで減らす事だけに全身全霊全知識を注いで造形したのではないかと思いたくなるほどの究極かつ完璧なまでの流線美に、思わず私は「わぁ」っと小さく声を上げてしまいました。

 女の人になら分かってもらえると思うのですけど、自分よりも痩せている男性ひとと一緒に歩くのは、嬉しい反面、ちょっぴり苦痛だったりもしますよね。何を隠そうこのとき私は、恥ずかしながらふとこんな事を思ってしまったのでした。

 ……この見るからにストイックそうな少年なら、恋愛適齢期になったとしても、きっとこの細くて綺麗な身体をきちんと維持してるんだろうなぁ。もしもその時、私たちが連れだっていたりしたら、自分の彼氏が飛びっきりスタイルの良い人だという満足感と、ほんの少しのコンプレックスを胸の奥にひた隠しにしながら街を歩くんだろうなぁ……。

 と。そしてそれと同時に、

 ……でも今だったら、そんな気持ちをひた隠しにせず、いたって普通に連れて歩けるのかな。でも事実、確かに、もしかしたら、これは姉と弟だと解釈してもらえる最初で最後のチャンスなのかも知れない。でもこの子、ほんのちょっぴり気難しそうだなぁ。なんか天才肌なタイプのように見えなくもないんだけど、これは何かの気のせいかしら……。

 つとそんな風に、複雑かつ様々な思いが、まるで水槽の中を優雅に泳ぐたくさんのイルカたちのように、次々と脳裏を行き来してゆきました。

 自分の体をまじまじと見つめる私の事を警戒したのか、

「何です?」

 と少年は尋ねてきました。

「ううん、なんでもないの。いいよ、タイムね」

 私は自分の気持ちを悟られぬよう、すぐさまそう返事をして誤魔化ごまかしました。

 オリンピックの水泳選手が、ブザーの音と同時にプールに飛び込むのはすでにテレビで見ていて知っていました。今回依頼されたタイムの測り方がそれと同じなのは明白でしたが、念のために少年にそれを確かめました。その上で、私は飛び込み台に立った少年に、

「はい行くよ〜、5・4・3・2・1……」

 とカウントした後、笛で「ピ〜ッ!」っと合図を送り、それと同時にタイムウォッチのボタンを押しました。するとばね仕掛けの人形のように跳ねた少年の身体は、まさにオリンピック選手のような美しい弧を描いて水面へと吸い込まれてゆきました。

 私はクロールで突き進む少年に随伴しながらプールサイドをゆっくり歩きました。それまでただボンヤリだったとは言え、毎日のように人々の泳ぐ姿を見てきた私には、そのクロールが尋常でないほど美しく、かつ非常に速いという事が嫌というほどはっきり分りました。更にその少年が、壁に近づいたかと思うと半分だけ前転し、交差させた足で壁面を蹴り、そしてその交差させた足を元に戻す力を利用して、前へ進みながらうつ伏せと同じ向きになるように身体を螺旋状に回転させるのを見て、思わず私は、

「すご〜いっ!」

 と感嘆の声を上げてしまいました。それは今までテレビでしか見た事のなかった、いわゆる「フリップターン」と呼ばれているものを、生まれて初めてじかで見た瞬間だったのです。

 やがて少年は50メートルを泳ぎ切り、慣れた仕草で身を乗り出してプールサイドに降り立ちました。その水に濡れた美しい身体を、私はもう一度、うっとりしながら眺めてしまいました。

 タイムウォッチを見た瞬間、少年はそれはそれは悔しそうな表情を、その端正な顔に浮かべました。別に慰めようなどという意図はまるきりありませんでしたが、

「詳しい事は分からないけど、でも、じゅうぶん速い方なんじゃない?」

 感じたままを素直に声に出しました。

「いや、全然ダメですよ。もちろん手動のタイムウォッチで測ったタイムなんて参考記録にさえならないけど、そうだとしてもだいぶ落ちてる。オレ、本当ならもっと速く泳げるんです」

「へえ、そうなんだ。やっぱりあれなの? スイミングスクールか何かに通ってるの?」

 少年は、その顔にほんの少し憂鬱そうなかげを浮かべながらこう答えました。

「はい。でもオレ、今年の夏はぜんぜん通えなかったんです」

「通えなかった? どうして?」

「これ……」

 彼は右の人差し指で、お腹の辺りを指差してこう言いました。

「……ガンの手術の跡です。右側の腎臓を摘出したばかりなんですよ」

 そこには確かに、長さ15センチほどの手術痕がハッキリと見て取れたのでした。

 まさかこの若さ、……いや、この幼さでガンだなんて!

 かなり激しく驚いた私は、鏡を見たわけでもなんでもないのに、頬のあたりが思わず引きつってしまうのを自分でも嫌になるほど強く自覚しました。

「えっ、……と、……その、……大丈夫、……なの?」

「一応は平気みたいです。医者からも、"手術は成功した。腎臓は左側にももう一つあるから大丈夫"って言われましたし。でも、親から伝え聞いた話によると、医者はこうも言ってたらしいんです。"これから食事には気を使って生活して欲しい"とか、"ガンは若い体の方が転移し易いから、再発する可能性が高い、ある程度は覚悟しておいて欲しい"って」

 少年は、それはそれは物憂げな表情で、そう答えてくれました。

「そ、そうなんだ。その、なんと言っていいのやら……」

 それは、彼には彼で、「もしかしたら明日死んじゃうかも知れないんですよ」と言わざるを得ないほどの切実な事情があったのだ、という事を知悉した瞬間でした、と同時に、命の刹那の輝きのようなものに魅せられたのか、相手はまだ子どもだというのにも関わらず、なにやら仄かな好意をすら抱き始めてしまったのです。そんな複雑な気持ちが顔に現れてしまったのか、少年はニッコリ微笑んでくれたのでした。

「気にしないでください。こうなっちゃった以上、覚悟するより他ないですし。とにかく、そのせいで今年の夏休みはほとんど病院で過ごす事になっちゃって、それがスイミングスクールに通えなかった理由なんですよ」

「どうりで夏なのにずいぶん色白なわけだ。とにかく大変だったのね」

「本当ですよ。今年の夏はいい事一つもなかった……」

 少年は小さくため息をつきました。その様子を見て、ふと、

 ……夏休みの最後の最後に、何か一つぐらい、とっておきのものすごくいい事があってもいいんじゃないかなぁ……。

 そんな思いが脳裏をよぎりました。その気持ちを見抜いたのか、少年は、努めて明るく振る舞っているのが見え見えの表情でこう言い足すのでした。

「……まあでも、その分病院でいっぱい勉強できたし」

「入院中に勉強だなんて、けっこう頑張り屋さんなんだね」

「だって、ボーッとしてるのなんてもったいないですもん」

「それは私に対する皮肉?」

 私が腰に手を当てながらしかめっ面をすると、

「だ〜か〜ら〜、さっきのおじさんがそう言ってたんですよぉ」

 少年は悪戯っぽく微笑みながら再びそう言うのでした。その笑顔を見た瞬間、「私はこの子に好かれている」、といった風な手応えをふと感じました。そして前述したとおり、それは私も全く同様なのでした。自分のそんな心持ちを、他人の気持ちに敏感そうなその少年に見抜かれぬよう、

「私の場合はボーッとしてるんじゃないの! 積極的に脳を休ませているだけなの!」

 あえてやや攻撃的な口調でそう言い切って見せました。すると少年はさらに微笑んでこう言うのでした。

「アハハ、モノは言いようですね」

「生意気な子ね……」

 と言いつつも、先ほどから感じている仄かな好意と、その体躯のあまりの美しさ故か、私はどうしてもその少年を憎みきれずにいたのでした。

 聞いたところによると、彼は水泳や英会話の他にも、従兄弟のお兄さんからお下がりでもらった、週刊少年マガジンだか何だかに入っていたチラシで購入したギターとアンプの格安セットを使って練習してもいるそうで、とにもかくにも色々な事にチャレンジしているとの事でした。

「きっとこの夏に命を落としかけたからなんでしょうね。ボーッとするのはもったいないなんてのを通り越して、もう、生きてる間に出来る事は可能な限り頑張らないともったいないって、心の底からそう思うようになったんです」

 至極真っ当な事を言う大人びたその少年を見て、思わず尋ねてしまいました。

「君、何年生なの?」

「中1です」

「中1? 背も高いし、言ってる事もずいぶんしっかりしてるから、もう高校生でも不思議じゃないぐらいよね」

 冗談めかしてそう言うと、彼はその挑発にまんまと引っかかり、

「オレってそんなに老けて見えます?」

 腰に手を当て、あからさまに憮然とした表情をしてみせました。予想以上に怒っているように見えるその姿に、思わず私は苦笑いしながら、

「ごめんごめん、でも老けてるだなんて思ってないわよ、ちょっと大人びて見えるなぁって思っただけ」

 言い訳がましい台詞を継ぎ足してしまいました。

「ところで君、名前は?」

「ハルトです。お姉さんは?」

「私はスズカ。よろしくね」

 はにかむ彼の顔を見て、つと心に浮かんだ疑問を、思わず私はそのまま口に出してしまいました。

「ところで今日は一人で来てるの?」

 そう言った直後、まさか一人で来ているはずはないと思った私は、

「お父さんとお母さんは?」

 ほんの少し言葉を修正して尋ね直しました。

「家にいますけど?」

「家はどこなの?」

「東京の聖蹟桜ヶ丘せいせきさくらがおかって所です」

「聖蹟桜ヶ丘って、確かジブリの『耳をすませば』ってアニメのモデル地になった所よね?」

「そうですよ」

「私一度行ってみたかったのよね、聖地巡礼に」

「来たらいいじゃないですか。JRと京王線を乗り継げば二時間足らずで行けますよ」

 ハルト君は明快な言葉遣いでそう教えてくれました。

「えっ、そんなに近かったの? それは意外だったわ」

「オレ、毎年夏になるたび、電車でこっちに遊びに来てるんですよ。親戚が葉山に住んでるんで」

「そうなんだ。ところで今は? 誰か他に一緒に来てる人はいないの?」

 そもそも最初に確かめたかった事を質問してみました。するとハルト君は流れるプールがある方を指差しながら、

「いや、双子の弟や従兄弟たちと一緒ですよ」

 と答えてくれました。

「親代わりの保護者はいないの?」

「今はいません。オレたちみんな、つい今さっきまで海で泳いでたんです。で、おばさんにここまで車で送ってもらったんですよ。"海の潮をプールで落としておきなさい、その間にいろいろと用事を済ましておくから"って。で、夕方までここで泳いだらいったん親戚の家に戻って、聖蹟桜ヶ丘には明日帰る予定です。明後日からは言うまでもなく……」

 ハルト君はほんの少し気怠そうにこう言いました。

「……学校です」

 思わず笑ってしまいました。

「"出来る事は可能な限り頑張らないともったいない"って言ってた割には、やっぱり学校は嫌なのね……」

 遠くから、子どもたちのそれはそれは大きな歓声が聞こえてきました。

「……まあ、ただでさえ夏休みって、いつもあっという間に終わっちゃうしね。それにハルト君の場合は入院でほとんど遊べなかったわけだし、無理もないか」

 私がそう言い終えたそのほんの少し後、「プールサイドで走ったり騒いだりしないでください」というアナウンスの声が、スピーカーを通してプール全体に響き渡りました。ハルト君は、つい今さっき聞こえてきた歓声とはまるきり逆の、ひどく悲し気な声でこう言いました。

「葉山には、毎年夏休みが始まるとすぐに遊びに来るのが恒例だったんですよ。でも、今年は入院と手術で来たくても来れなくて……。けっきょくこんなに遅くなっちゃった」

「遅れてきた夏休みだった、ってなわけね」

 何の考えもなく口に出したこの「遅れてきた夏休み」という言葉を、

「あっ、確か渡辺美里がそういうタイトルの曲を歌ってましたよね……」

 ハルト君がまさかこんな風に返えしてくるだなんて、これは完全に予想外でした。その事に、ほんの少し驚くのと同時に、決して愉快とは言えない思い出とセットになっている歌手の名に反応したのか、左腕の内側に残るたくさんの傷痕がかすかに疼くのを感じました。反対に、つい今さっきまでの寂しげな声や物憂げな表情が嘘だったかのように微笑み出したハルト君は、さらにこう話し続けるのでした。

「……『TOKYO』ってアルバムに入ってる曲ですよね。知ってますよ。確かあれはちょうどオレが生まれた次の年に発表されたアルバムでしたね。しかも『遅れてきた夏休み』は、あれは珍しく、作詞だけじゃなくて作曲も渡辺美里がしてるんですよね」

「ずいぶん詳しいのね。それに『遅れてきた夏休み』はアルバム曲のはずよ。『マイ・レボリューション』を知ってるって言うのならまだ分かるんだけど、どうして君の歳でそんなに詳しいの?」

「英会話スクールの先生が好きでよく聴いてるんですよ。スズカさんの方こそどうしてこの曲を知ってるんですか?」

「ある歳上の人の奥さんが渡辺美里のファンで、車の中でよく聴かされてたのよ」

「歳上の人の奥さん?」

「うん」

「その歳上の人って、スズカさんにとってどんな人なんですか?」

 何か勘付くものがあったのか、彼は直ちにそう尋ねてきました。

「う〜ん、一言で説明するのは難しいなぁ」

「え〜知りたいなぁ」

「もしどうしても知りたいって言うなら、一つだけ交換条件がある」

「なんです?」

 思い切って言ってみました。

「今一緒に来てる双子の弟や従兄弟たちに一言言って、このプールから抜け出すってできる?」

「多分」

 さらに思い切ってこう言ってみました。

「もちろん、ハルト君の親戚のおばさんたちにも内緒で、……だよ?」

「まあ、口止めすれば平気だと思いますけど?」

「これを見て」

 問答無用とばかりに、私は自分の左腕の内側にある幾つもの傷跡を、ハルト君に示して見せました。

「……リスカの跡……」

 ハルト君が息を呑む様子がはっきりと見て取れました。

「……なんかね、ハルト君から"この夏命を落としかけた"って話を聞かされて、世の中には生きたくても生きられない人だっているのに、ましてハルト君は私よりも歳下なのに、それなのに私は、自分で命を投げ捨てようとしてた事があるんだなぁって思うと、"生きてる間に出来る事は可能な限り頑張らないともったいない"って言うハルト君の事をすごいなって心の底から本気でそう思っちゃったのよ……」

 本当は医者から、「人間はリストカットぐらいじゃ死にはしない。手首の半分近くを一気に深く切るか、あるいは耳の下辺りを縦に切り裂くかするのならともかく、自分の力で手首の皮膚をちょっと切ったぐらいでは致命傷にはならない」、と聞かされた事があり、そういった諸々の知識を私はある程度持っていました。にも関わらず、あえてその傷痕をはっきりと見えるようにハルト君の眼前に晒し、そして「自分で命を投げ捨てようとしてた事がある」、と私は話を盛ってみせたのでした。

「……あなたと会うのは今日が最初で最後だろうから言っちゃうけど、実は私ね、奥さんがいる歳上の人を好きになっちゃった事があったのよ。もちろん最初からその事を知ってたらそんな風にはならなかったんだけど、その人は奥さんがいる事を隠して私に言い寄ってきたの。で、けっきょくその人は奥さんの所へと戻って行っちゃった、ってわけ、よくある話よね。それでね、正直まだその傷から心も体も完全に立ち直れてないんだ。寂しいのよ……」

 ……初めてリストカットしたのは、あの夏よりも半年ほど前の事でした。理由はたった一つ、「あの人」の心を繋ぎ止めたかったからでした。

 初めて手首を切った時、一時的にとは言え、「あの人」は私に、ものすごく優しくしてくれたのでした。

「馬鹿な事をするもんじゃないよ」

 そう言いながら「あの人」は、傷口をティッシュで圧迫し、流れ出る鮮血を止めてくれたのでした、……ラブホテルの室内で……。しかしそれは本当に、一時的なものでしかありませんでした。なぜならリストカットをしたのは間違っても死ぬためではなく、その心と関係を繋ぎ止めるためであったという事を、たちまち「あの人」に見抜かれてしまったからです。おそらく全ての魔法がそうであるように、自傷によって生まれた魔力は皮肉なまでに一時的な効果しかもたらさず、むしろ逆に私の方が、自傷の魔力にとことん魅せられてしまったのでした、……そう、「あの人」が去って行った後も、私はリストカットをやめられなくなってしまったのです、……もう少しだけ正確に言うなら、手首を切るという行為そのものに、依存するようになってしまったのです。なぜなら切るとその一瞬ときだけは、気持ちがス〜ッと落ち着いたからです。いつしか普通のカッターでは飽き足らなくなってしまいました。

「私の心の傷みはこんなもんじゃないんだ!」

 と言わんばかりに、ハサミで左腕をジャキジャキ切り裂くようにさえなっていってしまったのです。するとそれを見かねた父は、私を心療内科へと連れて行ってくれたのでした。

 私は「あの人」を引き止めたい一心でリストカットした事を、カウンセラーにひと通り全部正直に打ち明けました。すると、

「辛かったでしょう。寂しかったでしょう……」

 その女性のカウンセラーは優しく微笑んでくれたのでした。

「……リストカットに『痛み』という通過点があるのと同じように、依存症には必ず、何らかの『無理』という通過点が存在するんですよ……」

 白いカーテンと白い壁に囲まれた清潔感のある診療室で、彼女は穏やかに諭すように話をしてくれました。

「……本心では美味しいだなんてちっとも思っていない、アルコール度数のものすごく高いお酒を『無理』をしてまで飲んだり、あるいはなけなしのお金を『無理』をしてまでやりくりして、買い物をしたりギャンブルをしたり……」

 彼女は物静かな声で語り続けました。

「……なぜ依存症の人がそうするのかと言うと、その『無理』という通過点を超えなければ依存による高揚感が訪れない事を、人間の脳は記憶してしまうからなんです……」

 その言い分は、この上なく正しい真理のように思えて仕方がありませんでした。

「……貴女が好きな人を繋ぎ止める事にたった一度だけだったとはいえ成功してしまったリストカットに依存しているのは、脳がその成功した時の体験を強烈に記憶しているからなんです。つまり今の貴女は、ビギナーズラックでたまたま儲かってしまった人が、ギャンブルを止められなくなっているのと全く同じ状態にあるんです。そしてその成功体験を擬似的にでも再現したくて、それが理由で何度も手首を切るようになってしまったんですよ。ではなぜそこまでひどいリストカットをするようになってしまったのかと言いますと……」

 カウンセラーは、最後に一言こう付け加えたのでした。

「……他でもない、貴女が真面目すぎたからなんですよ」、と……。

 ……私はハルト君の前で、成功した瞬間の記憶に導かれるまま、そしてその魔力が「一時的なもの」でしかない事を承知の上でなお、傷跡を右手でさすって見せました。すると彼はまんまとその魔力に引き込まれたような表情をして見せたのでした。チャンスだと思った私は、「……寂しいのよ……」と言い終えた後、務めて明るい声でこう言いました。

「……だからお願い、ちょっとでいいから二人きりで一緒に遊んでくれないかな? ハルト君の元気を分けて欲しいのよ……」

 さらに更に思い切ってこう言って見せたのは、「この飛びっきりにスタイルの良い歳下の男の子を連れ回したとしても、まわりからは姉と弟という風に解釈してもらえるであろう最初で最後のチャンス」を、是非ともモノにしたかったからに他なりませんでした。

 批判を恐れずに正直に言います。だからといって具体的に何かがしたかったわけではないのですけど、少なくともこの時点での私には、「この子は『あの人』と違って歳下だ、この子ならきっと自分の思い通りに操る事ができる」といった、まるで魔女のような後ろ暗い願望が少なからずあったのは事実でした。

「……音楽の話をしてたら、私なんだかむしょうにカラオケにでも行きたくなっちゃったの。ハルト君も、ギター弾いてるならカラオケぐらい歌えるでしょ? だからさ、今から二人だけでカラオケにでも行こうよ!」

「まあ、別にいいですけど」

 怪訝そうな顔をしつつも、彼は受け入れてくれました。

「じゃあ私、具合悪くなったって嘘ついて早退するから」

「そんな事して平気なんですか?」

 やっぱりこの子は真面目なんだな、そう思いながらこう言いました。

「いいのいいの、でなきゃカラオケになんか行けないでしょ? それにどーせ私なんて戦力だと思われてないし。だからハルト君も、"自分一人だけで別行動したい。後で必ず戻ってくるからおばさんには内緒にして"って言って抜けてきて。それ以外の事は一切言わなくていいから!」

「分かりました」

 流れるプールの方へと立ち去ってゆく背中を見た瞬間、まだリストカットをしていないのにも関わらず、まるで切った時と同じように何やら胸の内がス〜ッと落ち着くのを感じて、ふと私は、背徳的な満足感を覚えてしまったのでした。



 事前に打ち合わせていたとおり、その後私たちはプールの外の駐輪場で落ち合いました。

「一応言われたとおりにはしましたよ。でもみんなにはバレバレだったみたい。"あの監視員の姉ちゃんとどっか行くんだろう"って冷やかされちゃいましたよ」

 そう言いつつも、彼はまんざらでもなさそうに微笑みながら私に近寄って来ました。

「そうだったのね」

 私も私で思わず苦笑いをしてしまいました。

 ハルト君はカーキ色をしたディッキーズのペインターパンツに、ニューバランスの青いスニーカー、そしてカーハートのベージュのメッシュキャップにヒューストンの灰色のベースボール・シャツという、かなりのお洒落さんでないとありえないようなスタイルで私の目の前に現れました。

 ……まるで読者モデルみたい。連れ回して歩くのに、これほど最適な歳下の男の子はそうはいないよな……。

 と、私はさらに後ろ暗い満足感を覚えてしまいました。

 ハルト君の頭にたった一つのヘルメットを被せた後、

「変な所に触んないでよ!」

 と一言かけてから原付に二人乗りし、駅の近くのカラオケ屋さんへと向かいました。ところがそのお店は夏休み中だった事もあってか満室だったため、30分ほど待たされる事になってしまいました。予約を済ませた後、私たちはすぐ近のゲームセンターで時間を潰す事にしました。

 私は得意のダンスゲームを、あの目が覚めるような美しさを誇っていたクロールのお返しとばかりに披露し、そして高得点を立て続けに弾き出して見せました。しかしハルト君は運動神経はいいはずなのに、その長い手足を有効に使うという事が全く持ってしてできず、平均よりもだいぶ低い点数に留まっていました。その後も、格闘ゲームやシューティングゲーム、それにいわゆる落ちゲーなども楽しみましたが、やはりどれをやってもハルト君はまるで冴えないのです。

「オレ、やっぱテレビゲームはだめだわ」

「男の子ってみんなゲーム上手いってイメージがあるけど、ハルト君は例外ね」

「オレの弟はめちゃくちゃ上手いんですけどね」

 苦笑いをする彼を連れて店外へ出ました。言うまでもなく、いよいよカラオケの時間が近づきつつあったからです。

 受付に行くと、「2時間しか入れませんけどよろしいでしょうか?」、と言われました。そもそもそんなにたくさん時間が残されているわけではなかったので、「ハイそれでいいです」と答えて室内に入りました。

 入室してすぐさま、私は宇多田ヒカルの「First Love」を歌いました、……喫煙者だった「あの人」の事を想いながら……。

 その合間にハルト君が入力した曲は、福山雅治が女性の気持ちを想って作詞曲した事で有名な「Squall」でした。ところがいざ前奏が終わって歌のパートが始まると、ハルト君は画面に日本語の歌詞が出ている状態のまま、なんとそれを英語で朗々と歌い始めたのでした。しばらくすると店員さんが、コーラフロートとメロンソーダフロートを持ってきてくれました。店員さんは、今まさに目の前で行われている事の意味を直ちに理解したようで、しばらくの間あんぐりと口を開けてハルト君と画面を交互に見ていました、が、すぐに気持ちを切り替えたのか、注文の品をテーブルへ降ろして退室して行きました。

 歌のパートが終わり、最後のピアノソロが始まるところへと進んだ時、思わずこう尋ねてしまいました。

「これって英語バージョンあったんだ?」

「いや、ないと思いますよ、多分ですけど」

「多分?」

「はい。オレの通ってる英会話スクールで流行ってるんですよ。J-POPの歌詞を自分なりの解釈で英語に書き換えてカラオケで披露するって事が……」

「すご〜い!」

「そこの先生が渡辺美里を英語で歌ったのを聴いて、みんなでそれを真似し始めたのがきっかけだったんです」

「へぇ。他に英語で歌える曲はないの?」

「ありますよ。サザンの『TSUNAMI』とか」

「ハルト君ってずいぶん出来杉クンだよねぇ。高校生の私よりも英語が上手だなんてさ。まぁいいや。それ歌ってよ!」

 さすがギターも弾けるだけあって、ハルト君は音程も非常に安定していたので、私はたいへん気持ち良く聴いている事ができました。なお本人が言うには、

「もう声変わりもしてるし、そんなに高い声出せないんです」、との事でした。事実、ちょっとでも高くなるとすぐに裏声へ逃げたりしていましたし、確かに決して高い方だとは言えませんでした。そうだとしても一般的にはじゅうぶん過ぎるほどの歌唱力があったのもまた事実で、「無理を言ってプールから連れ出したのは大正解だったな」と、心の底から本当にそう思いました。また、私も負けじと浜崎あゆみの失恋ソング「SEASON」や、そのものずばりのZARDの不倫ソング「GOOD DAY」など、今思うと恥ずかしいのですが、まだ未練がある事が見え見えの歌などをいくつか披露したりしました。

 お互いひと通り歌い終えると、

「ところでスズカさん……」

 ハルト君は、バニラアイスが溶けてカフェオレのような色になったコーラフロートを一口飲んでからこう言い出しました。

「……その奥さんがいる人と、一体どうやって知り合ったんですか?」

「ああ、そういえばそうだったね……」

 私も私で、先端の割れたストローで、バニラアイスが溶けた甘い甘いクリームソーダフロートをカラカラ氷ごとかき回しながら、「あの人」との苦い苦い思い出を振り返りました。

「……居酒屋さんでバイトしてる時に、お客さんとしてやってきたのよ。本当はとっくに結婚してたくせに、それを隠して"ケー番交換しよう"って私に声かけてきて、んで、口説かれちゃったの。"君は知らない人に声をかける事をナンパだと思ってるのかい? それじゃあ世の中の夫婦はみんなナンパで知り合った事になるよ"、なんて上手い事を言ってね。今になって思うと、なんであんな人を最初の相手に選んじゃったのかなって感じ」

「そうだったんですね」

「"そうだったんですね"って、アンタこの話の意味を本当に分かってるの?」

「いやだから、その、"初めて"、だったんでしょ?」

 あろう事か、「あの人」は奥さんの事を、……もう少し正確に言うなら、「奥さんが妊娠している」という事を伏せて交際を申し込んで来たのでした。至って普通のサラリーマンで、真面目に働いていると信じて疑っていなかった私はまんまと騙され、彼を受け入れてしまったのです。

 その事実を知ったのは、「あの人」の車で一緒にコンビニへ行った時の事でした。「あの人」の会社で事務の仕事をしていた女性の方とたまたまそこで鉢合わせた時、私はその事を察してしまったのでした。

「この若い子は一体誰?」

 そのたった一言で、私には全てが理解できてしまったのです。しかし、女の勘を認めようとしない「あの人」は、その場しのぎの苦しい嘘や言い訳を積み重ねるばかりなのでした。むろん最終的には奥さんがいる事と、そしてその奥さんが妊娠している事を認めはしたものの、すでに引き返せないところにまで突き進んでしまっていた私の熱情は、さらにヒートアップしてしまう一方なのでした。

 ……自分には若さという女にとっての最大が武器がある。いつかきっと私に振り向いてくれる日がくる……。

 私は、心に固く強く、その日が来る事を信じていたのです。しかしその不誠実な関係は、その後三ヶ月もの間ズルズルと続いてしまったのでした。

 ……奥さんが無事出産を済ませたら、いずれ「あの人」は家庭に戻って行ってしまうかも知れない……。

 そう危惧した私は、前述のとおり、「あの人」引き止めたい一心でリストカットをしてみせました。しかし「あの人」が優しくしてくれたのはその最初の一回きりだけだったのです。やがて、「面倒な女だ」とでも思われたのでしょう、何度ケータイに連絡しても出てもらえなくなり、やがて「あの人」の置き土産とも言える自傷行為だけが、極端なまでにエスカレートしていってしまったのでした。

「……けっきょく私は、したくてもできない奥さんの代わりでしかなかったのよ、きっと。んで、『あの人』の車の中でよく聴かされてたのよ、渡辺美里を。確かめたわけじゃないけど、でもあれは間違いなく『あの人』じゃなくて奥さんが好きだったのよ……」

 悲しい思い出話をひと通り終えた後、大きくため息をつき、私はさらに話し続けました。

「……それからは毎日のようにリスカリスカ。お父さんが心配して心療内科へ連れて行ってくれて、カウンセリングを受けて、で、今はお薬を飲んで家でゆっくり養生してるってわけ。実を言うとそれ以来ずっと高校にも行ってないんだ、届けを出して休学してる真っ最中なの。とりあえず何もしないわけにはいかないから適当にバイトして過ごしてるんだけど、居酒屋やコンビニはもうたくさん、また客に声かけられても嫌だし。ま、もっともそれはプールも一緒だったんだけどね」

「確かさっき、"自分で命を投げ捨てようとしてた事がある"って言ってましたよね?」

 ハルト君は、「きっと自分の質問は肯定されるはずだ」、と思っていたのでしょう、「言ってませんでした?」ではなく、「言ってましたよね?」、という聞き方をしてきました。

「うん、言った。本当は、死ぬためじゃなくて『あの人』を繋ぎ止めたかったからなのよ。ハルト君の事を誘い出したい一心でつい話を盛っちゃった。ごめんね、嘘を吐いたりして」

「いや、別にいいですよ、むしろ逆にスズカさんが簡単に命を投げ捨てるような人じゃないって事が分かって安心しました……」

 ハルト君は、それはそれは物憂げな表情でこう言い続けました。

「……別にスズカさんの事をどうこう言う気はないです、気持ちは分かりますしね。ただしこれだけは言わせてください、やっぱり不公平ですよ、簡単に死のうとする人がいたり、オレみたいにやりたい事、頑張りたい事が山ほどあるのに命を落としかける人がいたり……。オレの弟なんか、毎日プレステばっかり、宿題だってオレがやったのを書き写してばっかり、先生にだってとっくにバレてるのに、"書き写してない"って見え透いた嘘ばっかり。同じ条件で産まれてるはずなのに、どうしてアイツは病気にもならないでピンピンしていられるんだろう……」

 そう言い終えると、彼は突如、

「……オレ、まだ死にたくない!」

 大きな声を上げてそれはそれは激しく泣き始めたのでした。自分で自分の腕を抱きしめるようにして激しく嗚咽し出した歳下の男の子を見て、私はたまらなく可愛らしいと感じてしまいました。それは同時に、つい今さっきまで感じていた魔女のような後ろ暗い願望が、まるで嘘のように消えた瞬間でもありました。

「大丈夫よ。アンタはきっと早死になんかしないから」

 なんら恥じる事なく弱さをさらけ出して泣きじゃくるハルト君の隣に寄り添い、私は優しく声をかけてあげました。しかし彼はこう言うのでした。

「そんな事分かるわけないじゃないですか!」

 確かにそれはこれ以上ないぐらい、ごもっともな言い分でした。私は激しく泣きじゃくるハルト君の耳元で、ゆっくり、大きく、そしてはっきりと聞こえるように心がけて話をしました。

「確かに根拠はない。でもきっと大丈夫よ……」

 私は心の赴くままに、テーブルの上のまだ封を切っていない使い捨てのウェットティッシュを手に取りました。

「……とにかくちょっと落ち着いて。もう泣かないの。いい? これで涙を拭いてあげるから。目を閉じてゆっくり大きく深呼吸して……」

 まだ幼いがゆえに、まるで女性のようにきめ細かく、綺麗で白くて柔らかな頬を伝う涙を拭い取った瞬間、ふと私の中に、それはそれは限りなく純粋な気持ちが巻き起こりました、……と同時に、激しい衝動も巻き起こったのでした。その衝動に導かれるまま、私は両手でハルト君の頬を優しく包み込み、そしてそのまま彼の唇に、自分の唇をゆっくりと重ね合わせました。まさに騙し討ちそのものでしかない口づけに、ハルト君がひどく驚いているのを、目をつぶりながらも私はしっかりと感じ取っていました。

 唇を離した後、彼の瞳を間近に見つめながら私はこう囁きかけました。

「ハルト君が、この先ず〜っと、普通に生きて、普通に天寿を全うできるって事を、私祈ってる。このキスはその証だと思って」

「スズカさん、あの……」

「いいの。私がそうしたくてそうしたんだから。でも、この事を誰にも話しちゃダメだからね」

 ハルト君もハルト君で、私の瞳を負けじとばかりに真っ正面から覗き込みながら、「うん」と小さく囁きました。その瞳が言わんとしているメッセージを確かめるために、

「何? もしかしてもう一度したいの?」

 と尋ねました。するとハルト君はほんのちょっぴり恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、やはり「うん」と小さく頷きました。

「いいよ、ただし一つだけ約束して……」

 ハルト君は表情だけで、「何を?」、と問いかけてきました。

「……将来、『あの人』みたいに浮気したり女の子を悲しませるようなヤツにだけは絶対にならないで」

 彼はコクンと小さく頷いてくれました。

「この約束、絶対に守ってよね。いい事が一つもなかったこの夏の一番最後の最後に、とびっきりのいい思いをさせてあげるんだから」

「分かりました。約束します」

 きちんと言質を取った後、私はさっきよりも深く長く、ハルト君の唇を求めました。するとハルト君は、最初の瞬間こそピクッと小さく上半身をのけ反らしたものの、すぐさま私を真似してそれに応えてくれたのでした。

 口づけを終えた後、クスリと小さく笑いながらこう尋ねてみました。

「で、どうだった? 初めてのキスの味は?」

「クリームソーダの味がしました」

「だろうね……」

 顔を真っ赤にしているハルト君をたまらなく可愛らしいと思ってしまい、思わず私は「いい子いい子」と言わんばかりの仕草で頭を撫でてしまいました。

「……でもね、実は私もタバコのFlavorがしない甘いキスはこれが初めてだったんだ」

 すると彼は子ども扱いされた事に腹を立てたのか、そのお返しとばかりに、英語ができるのを鼻にかけているとも受け取れるような事を言い出したのです。

「今の"Flavor"って発音、おかしかったですよ。英語にはLとRっていう二種類のラ行が存在するんです」

「うるさいわね」

 彼のおでこを小突いたその直後、お店からのコールが不意に大きく鳴り響きました。私たちを驚かすのに、そのタイミングはあまりにも完璧すぎました。二人の体が同時にビクッと反応したのは言うまでもなく、その反動で、テーブルの上のグラスから、水が少し溢れてしまいました。

「ヤバッ! もしかしたら今の防犯カメラで見られちゃってたのかも!?」

「えっ!? それってやっぱまずいんですか?」

 しかしそれは杞憂でしかありませんでした。なぜならそれは、ただの「お時間10分前です」というコールでしかなかったからです。

 念のため、会計の際に、レジで店員の様子をそれとなく伺ってみました、が、私たちの秘め事に気づいているような気配はまるきり感じられませんでした。私は安堵のため息をつきながらお金を支払い、そしてお店を後にしました。

 その後私たちはプールに戻り、彼にもう一度場内へ入るためのチケットを購入してあげました。

「ハルト君、元気でね」

「スズカさんも。今日は本当にどうもありがとうございました」

 ハルト君はそれはそれは丁寧なお辞儀をした後、入り口の方へと元気よく走り去って行きました。

 こうして私たちの、夏の終わりの無邪気イノセンスな秘め事は、誰にも知られる事なく終焉を迎えたのです。

 2002年。

 高校生ならともかく、まだほとんどの中学生が、ケータイなんて持っていなかった頃の事でした。



 最後にこれだけは言わせてください。

 世の中には、それこそまるで「あの人」のように、お酒に飲まれて女子高生に手を出しておきながら、さも何事もなかったかのように平然としている偽善的な成人男性が少なからずいるようですけど、ひるがえって私はどうでしょう? 死の影に怯える歳下の男の子を慰めるためにキスをしてあげるだなんて、むしろ逆に純粋さの表れだとさえ言えるのではないのでしょうか?

 それに、あの時の私はまだ未成年でしたし、当然の事ながらお酒だって飲んでいませんでした(そもそもお酒なんてこの人生においてただの一度も飲んだ事がありません)。またハルト君だって私の事を全く嫌がっていませんでした。むしろ逆に彼もまた、あの夏の日の秘め事を愉しんでくれていた事は、前後の脈略からしても明白なのです。

 なお、その後も私は「積極的に脳を休める」事をやめたりはしませんでした。ただし、その比率が以前よりもずっと減ったのもまた事実でした。と同時に、それ以降、悪癖だったリストカットもピタリと治ってしまいました。父もカウンセラーも、

「夏の終わり頃から急に良くなったな? 何かあったのか?」

 と私を訝しがりました、が、まさか中学1年生の男の子とキスをした事で、私の中の何かが振っ切れただなんて言えるわけがありません。私は父にもカウンセラーにも、

「詳しい事はちょっと言えないんですけど、でも、とってもいい事があったのは事実です」

 とだけ言い、後はただただ笑ってごまかすのみに留めました。

 事実、最初の方こそ、まるで魔女のような後ろ暗い願望があった私ではありましたが、結果的には「まさかここまで」と自分でもビックリするぐらいに、心身ともに清々しいまでに回復できたのです。

 また長らく休んでいた高校への復学も、無事に果たす事ができました。もっとも長く休んでいた分、どうしても勉強に追いつけなくて留年こそしてしまいました。でも、たとえそれはそうだとしても、あの夏もしもハルト君に元気を分けてもらっていなかったなら、あるいは留年どころか、そもそも復学ですら恐らく不可能だった事でしょう。私は彼に、今なおとても、それはそれは強く感謝しているのです。

 なお、それは復学を控えたとある秋の週末の日の事でした。私は以前からいつか行ってみたいと思っていた、「耳をすませば」の聖地巡礼をしに、たった一人で聖蹟桜ヶ丘へと向かいました。

 いいえ、勘違いをしないでください。間違っても私は、「もしかしたらハルト君に会えるかも」などといった馬鹿げた妄想に突き動かされて行ったわけではないのです。あくまでも週明けからの復学に備えて気持ちを切り替えたくて、それが理由で選んだ秋ならではの小洒落た小旅行先が聖蹟桜ヶ丘だった、というだけの話なのです、……ただし、ハルト君が住んでいる街がどんな所なのかを見てみたい、といった願望があった事を否定はしませんけれども。

 聖蹟桜ヶ丘駅に着くと、話に聞いていたとおり、プラットホームで「カントリーロード」のメロディーを聞く事ができました。また映画の中に登場する、地球屋があると設定されていた桜ヶ丘ロータリーを見る事もできました。そこのパン屋さんに、「耳すまノート」という聖地巡礼者向けのノートがある事を事前に調べて知っていた私は、そこにこう書き記しました。

「スズカです。ハルト君のファースト・キスの相手です。おかげさまで私は心身共にすっかり回復しました。あなたに元気を分けてもらったおかげです。月曜日から高校へも復学します。このメッセージがあなたに届いたらどんなに嬉しい事でしょう。

 P.S.

 ハルト君、例の約束、ちゃんと守ってくださいね」、と。

 何を隠そう、私が復学直前に秋の聖蹟桜ヶ丘へと向かった最大の目的は、あの「耳すまノート」にハルト君へのメッセージを書く事にあったのです。

 やがて私は高校生活をどうにかこうにかやり過ごし、決して人様に誇れるような成績でこそありませんでしたが、それでもなんとか卒業にまでこぎ着ける事ができました。またそれから数年後、「あの人」とは比べものにならないくらい素敵な男性と知り合う事もできました、……言うまでもなく今の主人です。

 その後ハルト君がどうなったのかを、もちろん私は知る由もないまま結婚し、母となり、やがて約20年の年月が過ぎ去ってゆきました。

 ところが、です。その後のハルト君が一体どこで何をしていたのかを知る機会を、つい先日、私は偶然にして得てしまったのでした、……何を隠そう、私がこんな駄文をネット上にて匿名でしたためようと思ったのは、実はこんな事があったからなのです!

 それは、「耳すまノート」にメッセージを残したのと同じ季節が、静かにゆっくりと訪れる気配を、窓越しに眺めていたとある週末の午後の事でした。「積極的に脳を休める」ために、自宅でコーヒーを飲みながら頬杖をついてボンヤリしていた時、ふとこう思ったのです。

 ……そういえば今頃、ハルト君は一体どこで何をしてるんだろう? 得意だった英語を活かせる職業にでも就いていて、素敵な女性ひとと一緒になっていて、子どもを大切にしている素敵なパパになってくれてるとホント、嬉しいんだけどなぁ……。

 そんな風に思っていた、それはまさにその次の日の事でした。授業参観を見に月曜日、学校へと赴いたところ、思わず私は「あっ!」っと息を飲んでしまいました。なぜなら息子に英語を教えるために教室へとやってきた人物が、他でもない、あのハルト君まさにその人だったからです!

 あれから約20年の年月が流れていましたが、私にはその先生が間違いなくハルト君であると瞬時に判別できました。またハルト君もハルト君で、よもやファースト・キスの相手を覚えていないだなんてそんな馬鹿な話があるはずもなく、私と目があった瞬間、彼の声と動作は一瞬、完全に停止したのでした。しかし彼は直ちにポーカーフェイスを決め込むや否や、あの魅惑的な低い声とネイティヴと思われる発音で、朗らかに授業の開始を宣言したのでした。でもそれは同時に、現在の私が私なりの幸せを掴んでいるのだという事を、ハルト君にも認知してもらえたのだという確証が持てた瞬間でもあったのです。

 クラスでの様子を見る限り、女子たちからの人気も非常に高そうでした。昔はしっかりしているように見えてどことなく弱々しかったくせに、今ではすっかり頼り甲斐のありそうな大人の男性へと成長し、私よりも背が高くなったハルト君……。そんな彼の人気っぷりを見た私の心に、ふと、意地の悪い疑惑が芽生えてきました。

 ……あの約束、ちゃんと守ってくれてるのかしら? なんだかんだ言って男の人は、みんな若い子が好きだから……。

 そう思った私は、つとそばにいた婦人に口元を手で覆ってそれとなく話しかけてみました。

「あの先生ずいぶんスタイルがいいですよね、しかもイケメンだし。もう結婚してるのかしら?」

「らしいですよ。もうお子さんもいるみたい……」

 しかし私は知っているのです、こういった問題に身持ちの有無はあまり関係がないのだという事を……。事実、奥さんがいるのに女子高生に手を出す男の人だっているのですから。ところがその婦人は、聞いてもいないのに私にこう教えてくれたのでした。

「……うちの一番上の子の担任があの人だったんですけど、もう本当にものすご〜くいい先生なんですよ」

 その話を耳にし、

 ……まさかあのハルト君に限って、よもや中学生に手を出すなんて事はないか……。

 私はそう思う事にしました。それと同時に、今目の前にいる非常に評判のよい先生のファースト・キスの相手が実は自分なのだという事実に、それこそまるで魔女のような後ろ暗い秘めやかなる満足感を、ふと、覚えてしまったのでした。

 こんな気持ちを見抜いたのか、ハルト君は教科書を見るふりをして、一瞬だけ私に目配せをしてきました。そして、何も知らない人が聞いたなら、「きっと授業を進めるために言ったのだろう」と思うに違いない言葉を口にしました、……けれども本当は、私たち二人だけにしか分からない秘密の言葉を、彼はあの夏、キスと約束を交わしたその唇から、確かに声に出したのでした。

「ノート見ましたよ」

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夏の終わりのイノセンス 如月トニー @kisaragi-tony

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