エピローグ
これまでと、これからと
楽しくても、悲しくても、いつだって時間は同じように過ぎる。
どんなふうに過ごしても、どんなことに思いを巡らせていても、特別な日も、そうでない日も。
早く過ぎ去ってほしいと思う一日を、前ほどつらく思わなくなった。いつまでも続いてほしいと願う一日に、前ほどには縋りたくなくなった。
変わること。変わることを受け入れること。以前は怖くて仕方なかったのに、今は少し違う気がする。
あの日、休憩室でうずくまって泣いていた私をあなたが見つけたこと――舞い降りた偶然が私たちを引き合わせたこと自体が、奇跡みたいに素敵なことだったと、そう思ってしまうのは私だけだろうか。
そうでなければいいと、心から思う。
*
翌四月から、加瀬くんは他の大学に転入することになった。研究室の先生づてに聞いた。
加瀬くんがこの研究室に足繁く通っていたのは、なんのためだったのか。私と顔を合わせたいがためだったなんて、そんな理由でなければいい。それではあまりにも虚しいし、悲しすぎる。だが。
『加瀬くんは本当に勉強熱心な子だったから、ショックだよ』
溜息交じりの先生の言葉を聞き、自分の心配は杞憂だったと確信した。
かつて加瀬くんに対して抱いていた信頼は、そのすべてが間違っていたわけではなかった。救われた気がした。新崎さんと同じで、加瀬くんも、最も選んではならない選択肢を選んでしまっただけだ。
ひどい目に遭わされた。身の竦む思いをして傷ついて、それでも、願わくは加瀬くんには新しい大学で――新しい土地で頑張ってほしいと思う。
研究室での件は、警察には通報していない。警察沙汰になればますます逆上させてしまうかもしれないという恐怖もあって、あえてそうしてもらっていた。
恐怖は、今も完全には払拭されていない。とはいっても、それだけではなくなっていることも事実だった。
最後に研究室に訪れた加瀬くんと偶然顔を合わせたとき、私は彼に、自分から手を差し出した。
握手を求めて向けた私の手のひらを、加瀬くんは困惑した顔を隠しもせず、しばらく訝しそうに眺めていた。
『握手ってこと? 僕と? 嫌じゃないんですか』
『別に。人と握手するとき、いつもそういうつもりでしてるわけじゃないでしょう、加瀬くんも』
私だって、満面の笑みを浮かべていられる心境ではとてもなかった。
けれど、それを伝えたときに加瀬くんが浮かべたくしゃくしゃな泣き顔を、私はきっと、いつまでも無駄に記憶に留めてしまうのだと思う。
『ほんっと……なんなのアンタ、めっちゃ腹立つ……』
『はいはい。元気でね、加瀬くん』
それが、加瀬くんと交わした最後の言葉。
おそらく二度と会うことはないだろう加瀬くんと私の、最後の対面だった。
……それから、郁さん。
彼女にも、私が知らない間に変化が訪れていた。
四年に上がって間もなく、郁さんのマンションにお茶に誘われたときのことだった。満面の笑みを浮かべた彼女が、『離婚することにしたの』と衝撃的なひと言を切り出してきたのだ。
郁さんから聞いたわけでも、また都築さんから聞いたわけでもなかったけれど、郁さんとご主人の関係が芳しくないことはなんとなく察せていた。
都心部で事業を展開しているというご主人が暮らす自宅に、郁さんは明らかに戻っていない。ずっとこの街で暮らしていると、私も気づいていた。
決別をためらう理由が、なにかあるのだと思っていた。
その件について自分から郁さんに尋ねたことは、それまで一度もなかった。だからこそ、このときに私が受けた衝撃は大きかった。
『まだ正式には決まってないんだけど……何年も前から冷えきってるの、私たちの関係って。もう、いい加減ちゃんとしなきゃって思ってね。未来のある学生さんにするような話じゃないんだけど、私が決心できたのは真由ちゃんのおかげなの。だから報告』
『……私の?』
『うん。真由ちゃんのこと見てたら、私、こんな残念な大人のままじゃ嫌だなって思ったの。だから真由ちゃんのおかげ』
そんなことない。だって、私、なにも。
しどろもどろになりつつもそう伝えると、郁さんは軽やかに笑った。
『大丈夫。こういう話をしてるのに、こうやって笑えるくらいには元気なの』
『……郁さん』
『しばらく生活に困らない程度にはふんだくってやる気でいるけど、そのうち仕事は再開するつもりよ。ねぇ真由ちゃん、また遊びに来てね。今度から美容料金は有料になっちゃうけど。ふふ』
いたずらっぽく笑う郁さんを見て、ふと、初めて郁さんと顔を合わせた日のことを思い出した。
――主人がちょっと大きな事業をやっていてね。
あの日も、確かに違和感を覚えた。
傷ついているみたいな顔を覗かせた郁さん。彼女にそんな顔をさせたものの正体に、私はこのとき、ようやく思い至ったのだった。
郁さんも、踏み出そうとしている。諦めるばかりだっただろう日常から、新たな場所へ。
優しい郁さんに、どうか幸せが訪れますようにと、心から思う。一切の余裕がなくなって荒みきっていた私を最初に掬い上げてくれたのは、郁さんだから。
『ふふ。顔見知りってことで、ちょっとは安くしてくださいよね?』
ウインクをしながらそう返せる程度には、もしかしたら私も、大人になれているのかもしれなかった。
郁さんは一瞬大きく目を見開いて、それから私たちはしばらくの間、一緒になって笑い続けた。
*
さくさく。さくさく。
履き慣れない草履で、シャーベット状に積もった薄い雪の膜上を歩く。
こんな日に雪が降るとは、これがなごり雪というものなのか。
滞りなく式が終わった後、彩香やゼミの仲間たちと一緒に写真を撮ったり、お世話になった先生たちに挨拶をして回ったり――そうこうしていると、空から白い雪が舞い降りてきた。卒業式という大学生活最後のイベント中に現れた幻想的な光景に、ただでさえ興奮状態にあった私たちは、はしゃいだ声をあげて笑い合った。
……まぁ、降りやめばこうなることは分かっていた。
気をつけて歩かないと、足袋がびしょびしょになってしまう。
卒業証書、中振袖と袴、派手にアップされた髪。
卒業なんてできるのかと、何度頭を抱えたか分からない。学費のこと、生活費のこと、両親の体調のこと。トラブルのたびにぐらぐらと揺らいでばかりいた私の意志は、それでもこうやって、なんとかここまで漕ぎ着けることができた。
公認会計士の資格も、無事に取得した。就職活動も、他の学生たちのように県を跨いで忙しく……とまではいかなかったが、希望していた職種の会社から早い段階で内定をもらえていた。
これらは、私ひとりの頑張りで得られたものでは決してない。もちろん、かけがえのない友人や両親のおかげもある。けれど、私を誰よりも支えてくれていたのは、やはり。
突然の雪に冷やされた外気の中、ようやく正面に駐車場が見えてくる。
見慣れた車を見つけた私は、走るには到底向かない袴姿だというのに、気持ちが赴くまま駆け出していた。
*
四年に上がってすぐに、私は、入学以来住み続けてきたアパートを解約した。
残りの一年間は実家から通うと決め、それも今日で最後になる。その決心ができたのは都築さんのおかげだ。私の今後について、都築さんが私と一緒に考えてくれたからだ。
十月の入退院を経て以来、母の体調は持ち直していた。父は父で、倒れて以降は症状の悪化などは見られないと聞いていた。だから、もう一年くらい同じ生活を繰り返してもいいのではと思っていた。
安易にそう考えたがる私をたしなめてくれたのは、都築さんだった。
『離れて暮らして毎日心配し続けるぐらいなら、戻ったほうがいい。経済的な問題だけじゃなくて、真由だって本当はそうしたいって思ってるんじゃないのか』
真剣な声でそう言われ、咄嗟には返す言葉が見つからなかった。まさかそんなことを言われるとは、思ってもみなかったからだ。
けど、そうしたら、都築さんに会えなくなっちゃう。ぽつりと返した私の声は我ながら心細そうで、顔もかなり歪んでいたのではと思う。都築さんだってそう思うでしょう、今にもそう叫んで泣き出してしまいそうな私に笑いかけ、都築さんは私の手を優しく握ってくれた。
『なんで? 休みには迎えに行くし、大学でこっちに来てるときにはうちに寄ってくれたっていい。会えなくなんかならないよ。むしろ今までと大して変わらないと思うけど』
少々心外そうに諭され、馬鹿みたいにぼろぼろ泣いた記憶は、きっと一生鮮明なまま残り続けるのだと思う。
バイトについては、久慈さんに相談して、今後は毎週の出勤が難しくなると伝えた。
だとしてもできれば続けたいのですが、とおそるおそる切り出すと、久慈さんはなんとも意外そうな顔をして笑った。
『海老原さんみたいに、毎回出勤してくれるバイトのほうがそもそも珍しいんだよね。そんなことなんか気にしないで、これまで通り業務に励んでくれると嬉しいなぁ』
『あ……は、はい』
『それからチャペルアテンダントは、元々何人か新人を採用するつもりでいたから安心してね。海老原さんが気にする必要なんてなにもないよ』
……難しく考えすぎていたと、そのときにやっと気づいた。
都築さんに報告すると、彼も笑っていた。そうなると思ってた、これからは暇なときだけ稼げばいいじゃん――さらりとそんなことを口にして笑って、私もつい、笑ってしまった。
そう言われてしまったら、私ももう一緒になって笑うしかない。難しく考えて鬱々と悩んで、そんなのは馬鹿らしいと、笑い飛ばすしかなくなる。
いつもそうだ。
都築さんは、私が抱いている本当の気持ちを、本質を、いつだって簡単に見抜いてしまう。
『可愛くなっちゃおうか。ねぇ海老原さん、明日って暇?』
今思えば、あの日から。
あるいはそれよりも前から、ずっと。
*
「おかえり」
都築さんと一緒に彼のアパートに戻り、一緒に帰ってきたはずなのにそう言われ、思わず噴き出しそうになる。
「ただいま。ふふ、なんか今の、新婚さんみたいじゃないですか?」
「またそういうことを言う……はぁ、まぁいいや。ホラこれ、卒業祝いだ」
「えっ、そんなの用意してくれてたの?」
明かりの点いていないアパートの玄関は薄暗い。それでも、目を凝らして眺めれば、彼の手に載っているものが小さな正方形の箱だとは分かる。
どくりと胸が高鳴った。
いや、今この人は〝卒業祝い〟だと言った。まさか、そんなわけは、だけど。否定の言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡り、震える指を白い箱へと伸ばす。
ぱかりと開いた箱の中に、納まっていたものは。
「……ねぇ。これって卒業祝いじゃなくない……?」
「ちょ、まだ泣くな! 最後まで話を聞いてからに……」
「しかもこんな玄関先でなんて、どういうつもりなんですか都築さん……」
「っ、うるせえな! ……はぁ、なんかもうここでいいや。一年も待ったんだし、待ちきれなかったもなにもねえよな……」
……だから電気を点けなかったのか。
さらにはやはり、移動することなくこの薄暗い玄関で切り出す気だ。
私たちって、本当に、いつだって余裕がない。
けれど、別にそれで構わないと思う。
「……俺、土日休み、ほとんど取れないし」
「うん」
「年収も微妙だし、将来的には真由のほうがよっぽど稼ぎそうな気もしてて」
「……うん」
「でも、絶対、幸せにする。だから、」
――俺と、結婚してくれませんか。
途切れ途切れの声が聞こえ、やっぱりな、と思う。
薄暗い玄関でも分かるほど真っ赤に顔を染めた彼の、微かに震える指先にも、やっぱりな、と同じことを思う。
「……はい」
ああ、やっぱり、私も泣いてしまうんだ。
「……はぁ、ヤバいくらい緊張した……過呼吸……」
「ふふ。それを言わなかったら格好良かったままだったのに」
「マジで? 玄関なのに?」
「うん。玄関なのに」
声が震えないよう細心の注意を払った。だというのに、この薄暗い中、どうしてこの人は私の涙にあっさりと気づいてしまうのか。
目尻に触れる指の感触に、身体が震える。それと同時に柔らかな口づけを落とされ、私は縋るように都築さんの腕にしがみついた。
ねぇ都築さん、気づいていますか。
深い場所に沈み込んだ私の心を、力強く引き上げてくれるのは――私にこんな気持ちを与えてくれるのは、これまでもこれからも、あなたひとりだけ。
ずっと、あなただけ、なんですよ。
〈了〉
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