《3》陥落する唇

「……すみませんでした。その、調子に乗りすぎた」

「……う……」

「あの、怒ってる?」


 怒っていない。

 怒ってはいないけれど、心身ともに怠すぎて、話す気力も碌に残っていないというだけだ。


 床に膝をついておそるおそる私の肩に触れる都築さんの指は、微かに震えている。

 自分だけさっさと先に服を着て、ズルいと思う。心底弱っているみたいな声ばかり出して、それもズルいと思う。満身創痍と言っていいこの状態で、そんなことにはしっかりと考えを巡らせられる自分の頭に、少々嫌気が差した。


『いつもみたいなのじゃ終われない』


 そう言われて、それでいいと返したのは私だ。それも一度きりではなく、何度も何度も確認してもらって、そのたびに大丈夫だと返した。だが。

 もう少し、初心者への配慮というものを求めては……駄目か。そうか。

 よりにもよって明るい時間からという事実が、私に追い打ちをかけてくる。取り返しのつかないことをしてしまったような気分が、先ほどからさっぱり抜けなかった。


 信じられない。まさか、皆が皆、こんなことをしているとでも。

 この一ヶ月間、間接的な行為は何度も経験してきたものの、恥ずかしさのあまり頭が爆発してしまいそうだ。


「……大丈夫です」


 もはや考えを逸らすためだけに絞り出した声は、ひどい掠れ方をしていた。誰のものかと戸惑うほど低い声が出て、自分でも驚いた。

 枕の上で強引に頭を動かすと、視界がやっと明るくなる。瞼を開くことも億劫なくらいに疲弊していたが、なんとかこじ開けて隣の都築さんを眺めた。都築さんはどうしてか今にも泣き出しそうな顔をしていて、私は思わず噴き出してしまった。


「ふふ。なんで泣きそうになってるんですか」

「……笑ってんじゃねえよ」

「だって……ふふ」


 さっきから無言を貫いていたから、心配だったのかもしれない。長い指が私の髪を緩く梳く。その指に自分の指を絡ませると、都築さんはやっと顔を綻ばせた。

 感じていた羞恥がゆっくりと霧散していく。気怠さに抗いながら両腕を伸ばし、強請るように、私はそれを都築さんの首に巻きつけた。



     *



 今日は、夕方から彩香と一緒に学校に向かう予定だった。

 昨夜の件を、当事者として大学側に報告するためだ。


『今日は休ませてあげてほしい。詳細は明日でもいいですよね』


 動揺と混乱があまりに深すぎた私を見かねて、警備員にそう話をつけてくれたのは彩香だった。

 すぐ目の前で彩香が交わしていたそのやり取りも、私の記憶には碌に残っていない。なにせ、自宅に戻ったことさえうろ覚えだ。彩香がずっと隣にいてくれたことだけは、はっきり覚えているが。


 午後の予定を都築さんに伝えつつ、満身創痍に近いこの状態の私が、これから学校になど行けるのかと不安になってきた。

 今日の報告は辞退させてもらえないだろうかと、ついそんな気持ちが芽生えてくる。しかし、昨晩も融通してもらったのだと思うと、さすがに我侭が過ぎる気がして憚られてしまう。


 取り急ぎ、昨日の詳細を都築さんに伝えることにした。

 もしかしたら、こんな話は聞きたくないかもしれない。自分の彼女が他の男に襲われかけたなんて、どう考えても、聞いていていい気分がする話ではないと思う。遠慮がちにそのことを問うと、都築さんは静かに首を横に振った。


『真由が嫌じゃないなら、ちゃんと聞きたい』


 まっすぐに目を見てそう言ってくれたから、安心して切り出せた。

 話している間、都築さんは隣でずっと手を握ってくれていた。昨日、加瀬くんに乱暴に握られた手首に、感触ごと塗り変えてくれるかのように触れる都築さんの指は、どこまでも優しかった。

 鮮明に思い出しそうになる不快感や嫌悪感も、おかげで随分と緩和された。


「加瀬くんが本当にほしがってたのは、私じゃなかったんです。あの子は、都築さんが苦しめばいいって思ってただけ」

「……うん」

「そのために、私のことを言い訳にしてた。それに気づいたら、なんだか頭にきちゃって。加瀬くんには絶対傷つけさせないからって、私、怒っちゃった」


 ひと回り大きな手のひらに包まれた手が、微かに震えてしまう。

 あのときに全身を貫いた激情は、元々私が自分の内側に秘めていたものとは思えないほどの激しさを伴っていた。思い返すだけで震えるなんて、本当なら信じられない。

 怒鳴り声をあげた現場を都築さんに見られずに済んで、本当に良かった。同時に、あれを見てもらえていたなら、私がどれくらい都築さんに心を委ねているのかを証明できたのにという気もする。矛盾する自分の思考に、つい苦笑が零れた。


「許せなかったんです。心の中ではそんなことを思ってるのに、私のことが好きだなんて、ふざけないでって。私を都合良く利用してるだけで、しかも手に入らないって分かったら強引にするしかできない癖に、そんな口で都築さんと同じこと言わないでよって思ったの。結局、あんなふうに逆上させちゃいましたけど」


 浮かんでいた苦笑が、瞬く間に自嘲の笑みへと形を変えていく。

 経緯はどうあれ、自分が取った行動は軽率だった。たまたま神懸かったタイミングで都築さんと彩香が助けてくれたから良かったものの、どう考えてもあれは最善の方法ではなかった。


 私が傷つけば、都築さんも傷つく。下手をすれば私以上に。

 それこそが加瀬くんの真の望みだったのだと、分かっていたのに。


「……ごめんなさい。私、軽率でした」


 小さく呟き、おそるおそる視線を隣に向ける。そして都築さんの顔を視界に収めた瞬間、握られた手ごと、私は全身を強張らせた。

 都築さんは、嬉しそうに笑っていた。目を見開いたきり、私はなにも言えなくなってしまう。

 突然強く腕を引かれ、私の上体はあっけなく都築さんの胸元に引き込まれた。直に鼓膜に届く鼓動は、通常よりも遥かに激しく早鐘を打っていて、まるでそれが伝染したかのように私の息も上がっていく。


「そんなこと思ったの?」

「え?」

「真由、俺のために、そんなふうにあいつのこと怒っちゃったの?」

「え……だ、だって」

「喜ぶところじゃないって分かってるけど、真由がそう思ってくれただけで、頭おかしくなるくらい嬉しい」


 くしゃりと緩んだ都築さんの顔を呆然と見つめては、疑問ばかりが頭を巡る。

 簡単に感情に流されて、そのせいであれほど危ない目に遭ったのに――もう少しで都築さんを傷つけてしまうところだったのに、どうしてそんな顔で笑っていられるのか。


 問いかけは、声には出せなかった。気づいたときには唇が重ねられていたからだ。

 食むように啄む感触に気を取られ、疑問の数々は瞬く間に散り散りになる。

 キスは決して激しいものではなかった。けれど、唇も頭の中も溶かされていく感覚は、先刻交わした濃厚なそれとなにも変わらない。むしろもっとひどい気さえして、一気に頬が熱くなる。


「真由、好きだ……俺ばっかりこんな、なんかズルくないか……」

「は!? な、なにがですか」

「はい無意識ね……知ってる、真由はいっつもそうだもんな、そうだな……」


 耳元に動いた都築さんの唇が、触れるか触れないかぎりぎりの場所で囁く。

 なんのことか明確な答えはもらえないまま、熱を帯びた声は甘く鼓膜を突き抜け、脳に届いて、根こそぎ思考を奪い取っていってしまう。


「愛してるよ、真由。もう一回しよう?」


 熱っぽい声に聞き入るあまり、内容を完全にスルーして頷きかけた自分を必死に諌めた。

 ……駄目に決まっている。夕方から彩香と一緒に学校に行くと、報告したばかりだというのに。

 時刻を確認すると、すでに午後三時を回っていた。そろそろ支度をしなければと思う。放してほしいと言わなければいけないのに、どうにもうまく言葉にならない。


「……駄目。学校、行かなきゃ……」

「嫌だ、放したくない。井口さんには俺から連絡するから、行かないで」

「っ、なに言って……っ」


 口では駄目だと言いつつも、頭はとうに甘い囁きに陥落している。

 刷り込まれるように直接脳に注ぎ込まれる言葉の数々に、私はこんなにも喜んでいて、それでもまだ認めてしまいたくはなかった。


「駄目……都築さんってば」

「『都築さん』じゃないだろ? さっきみたいに名前で呼んでよ」

「む、無理……!!」

「なんで? さっきはいっぱい呼んでくれたのに」

「さっきはさっき、今は今です! ちょっと、本当、そろそろ放して……っ」

「呼んでくれるまで放さない」


 首筋にかかる吐息の熱さに、上擦った声が止まらなくなりそうだ。さっさと陥落してしまいたいと思っていることは、口が裂けても言えそうにない。言えそうにないけれど、この態度ではバレバレな気もする。

 私の内心を知ってか知らずか、都築さんは口元を薄く緩めて笑った。そしてそのまま、私をベッドの縁に押しつけてしまう。


「……まぁ、呼んでくれてももうやめませんけど」


 私が逆らえないと知っている、満足そうな声だった。それを聞いて、私も、もうどうでも良くなってくる。

 今はただ、この人のことだけ考えていたい。最後に残ったそんな思考も、深まっていく口づけに甘く溶かされ、ついにはふつりと消え失せた。

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