第8章 体温と、あなたと

《1》会いたい

 まだ焦げついている気がする。

 多分、身体も心もまるごと呑み込まれた、例の激情のせいだ。


 あれからひと晩が経った。結局、日を持ち越しても残ってしまった。

 今日が休みで良かったと心底思う。これほど揺らいでいる精神状態で仕事をするというのは、相当に骨が折れたに違いなかった。


 昨日はまずかった。その自覚はあった。他人に対してあそこまでの激情を抱いたのは、人生で初めてだと思う。

 できることなら、今後はああいう状態には陥りたくない。警備員の到着があと少し遅かったら、正直危なかったかもしれない。


 ……真由は大丈夫だろうか。井口さんのところに、と告げた途端に歪められた恋人の顔を思い出し、胸がずきんと痛んだ。

 普通、こんなときこそ傍で支えるべきではないのか。あんな状況から間一髪で解放されて、縋るようにしがみついてきた腕を、あれほど無下に放してしまった。いくら理由があったとはいっても、俺の内心が極限まで荒んでいたこと自体、真由にはまったく関係ない。


 新しい傷を、みすみす与えてしまった気がする。

 泣きそうな顔にも呼び声にも、気づかないふりを決め込んだことは、きっと間違いだった。


 電話をかけてみようかと思う。

 謝りたかった。考えてみれば、怪我の有無さえ尋ねていない。ふと手首の痣を思い出し、それも気遣ってあげられなかったと思い至り、気が滅入った。

 嫌われずにいられることが、もはや奇跡に思えてくる。……嫌われてはいないと思いたい。それも自分の希望でしかないと気づき、ますます気が滅入った。


 声を聞けば会いたくなる。感情がここまで昂ぶった状態のまま真由と顔を突き合わせるのは、危険に思えてならなかった。俺のせいで、昨日味わったばかりの恐怖を再燃させてしまいかねない。

 なにを考えていても、最終的には思考はそこに辿り着く。そのせいで、今日になってからは一度も携帯に触れられていなかった。


 自分からは絶対に電話なんてできない。

 そう思いながら、どうしてかかってこないのかなどと身勝手なことを考えてしまう。はっきり言って終わっている。


 朝から、もう何度同じことを考えているだろう。数えるのも馬鹿らしい。

 一度は抜け出そうとしたベッドに再び深く潜り込み、俺は無理やり目を閉じた。



     *

    ***

     *



 歩く。歩く。ひたすら歩き続ける。

 自宅アパートを出発し、すでに二十分が経過していた。


 横に吹きつける冷風に運ばれてきた粉雪が、今朝、ドアの前に控えめな隆起を作っていた。自室は二階だというのにこれだ。毒づきたい気持ちを抑えて払いのけたものの、無駄に時間がかかった。

 昨晩から今朝にかけ、随分と降り積もったようだ。歩道は、歩けないというほどではなかったけれど、歩くたびにギュッギュッと音がなる程度には新雪に覆われている。


 わぁ雪だ、とか、キレイ、とか。そんなふうに思えるのは、例年十二月の上旬までだ。

 本格的な冬が到来すれば、こちらの都合などお構いなし。際限なく降り積もる雪、雪、雪……うんざりしてしまう。道を覆い、アパートの窓や玄関を塞ぎ、電車を停める。そうなれば、雪は鬱陶しいだけの単なる障害物に成り下がる。


 冬は憂鬱だ。寒いし雪は重いし、眼鏡はすぐに汚れるし、いいことがない。傘を差しても、こまめに払っていないと重みで折れそうになる。しかも今日の雪は横殴りに近い降り方だ、傘を差していたほうが逆に危ない。

 今年はコンタクトにしたからまだマシだ。しかし、豪雪地帯に暮らし続けていく以上、この憂鬱から解放されることはないのかもしれなかった。強めの風に煽られ、叩きつけるように襲いかかってくる細かな雪に、頬も耳もちぎれんばかりに痛みを覚えてしまう。


 ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。

 防水ブーツを履いていても、ばっちり染み込んできている気がする。足の指が切れそうなくらいに痛む。かといって、こんな場所で歩みを止めたところで、休める場所も暖まれる場所もない。


 ……長いな。

 こんなに遠かったっけ。


 いつもは車だからかもしれない。迎えに来てもらって、送ってもらって、いつの間にかそれが当然になってしまっていた。

 甘えるということの、蜜の味。それを一度知ってしまってから取り上げられるのは、実に耐えがたいもの。前にも同じことを思った気がして、冷えきった唇が自嘲に緩む。


 ここまで来ておいて、都築さん、出かけてたりして。そんな事態になったら立ち直れないかもしれない。今来た道をまたトコトコ歩いて戻るなど、私にできるだろうか。

 でも仕方がないじゃないか。電話は通じないし、メールの返事もない。今日会う約束は以前からしていた。なのにたまたま昨日あんなことになって、それだけの話なのだ。


 こんな状況だろうとなんだろうと、会いたいと思ったなら、もう会いに行くしかないじゃないか。


 足を踏み出したそばから、雪はしんしんと降り積もっていく。

 気を抜けばすぐに埋もれてしまいそうだ。簡単に鈍りかける足を、なんとか前へと進め続ける。


 早く着くといい。

 早く、会いたい。



     *



 鳴らしたインターホンの回数は、きっとふた桁に達していた。

 駐車場に車はあるが、本人は出てこない。歩いて出かけている可能性はゼロではない。でも。


 最後の一回は、ほとんど涙目になりながら押した。やっとのことでガチャリと鍵が開く音がして、それを心待ちにしていたはずなのになぜか慌ててしまう。

 もしかして迷惑だったかもしれない。都築さんが私に会いたいと思っていたとは限らない。ここに来て悪い考えばかりが頭を埋め尽くして、そして。


 開いたドアの、内側と外側。

 互いに立ち尽くしたきり、呆然と相手の顔を見つめ続ける。


「……歩いて来たの?」

「だって電話、全然、出てくれないから……」


 呆然と問われて途切れ途切れに返すと、都築さんは露骨に顔を強張らせた。


 もしやこの人、着信に気づいていなかっただけでは……ようやくその可能性に思い至り、脱力の溜息が零れた。

 どうして。約束してたのに。頭を埋め続けてきたその手の思考が、どんどん消え失せていく。


「ごっ、ごめん……!!」


 悲鳴じみた声を聞き、場違いにも笑ってしまいそうになる。

 強めに手を引かれ、安堵が胸を満たしていく。冷えきった手のひらを包むように触れる長い指があまりにあたたかすぎて、今度は声を張り上げて泣きたくなった。

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