《5》置いていかないで

 警備員室からの遠隔操作で開錠されたドアが、ガチャンと重い音を立てる。

 ほぼ同時に蹴破るようにしてドアを開け、その先に見えた光景に、両目を見開いたきり固まった。

 焦った顔でこちらを振り返った男と、その男に跨がられている人影――否、膝丈スカートから覗く白い足。色がなくなるほどきつく握り締められたその人物の手の、薬指。室内の明かりを微かに反射し控えめにきらめくそれは、確かに、俺が恋人に贈ったものだった。


 瞼の裏を、血のような赤がチカチカと点滅する。

 それはすぐさま目の前の光景を塗り潰し、視界を遮った。鬱陶しい。視界と一緒に塗り潰された内心、鮮烈な赤の中で残ったものは、どす黒い感情のみ。


 ――死んでしまえ。

 思いながら、足が動いた。


 男の腕を掴み上げる。それを引っ張り、身体ごと床に叩きつけてやった。

 突然の衝撃に男は低く呻いたが、気に懸けてやる気などさらさらない。一旦限界まで膨れ上がった激情は、もはや自分の意志で折り畳める状態にはなかった。


 今、どんな顔してんだろ、俺。

 正常な意識が遠のいていく中、ふとそんなことを思う。呻く男を放置し、床に倒れる恋人を抱き寄せた。その細腕に、掴まれた痕が痣になって残っているさまを見て取った。


「……井口さんのところ、行ってな」


 目を合わせてしまわないよう、それだけをなんとか口に上らせる。

 井口さんが駆け寄ってくる姿を視界の端に捉え、そのまま彼女に真由を託した。親友に抱え込まれるように腕を引かれる真由を見て、やっと安堵が浮かぶ。

 今は、俺から離れていてほしかった。醜い激情に染まった俺を、真由には見せたくない。見てほしくもなかった。


 傷ついたみたいな顔には、気づかないふりを貫いた。


 腕を震わせて起き上がろうとする男の様子に、気づくと同時に圧しかかる。

 上体を腕で突いただけで、加瀬はぐえ、と醜い声をあげて再び床に伏せた。仰向けに転がる男の胸倉をぞんざいに掴んでやると、その顔は見る間に恐怖一色に染まっていく。

 

 ぐ、とくぐもった声が聞こえ、思わず嘲笑が零れた。そんな情けない顔を晒すくらいなら、最初から余計なことなどしなければ良かっただろうに。

 一度起きてしまったことは、二度と取り消せない。新崎の件をあれほど間近に見ていたお前に、どうしてそれが分からなかったのか。


「動くなよ。……はずみで絞め殺しちまいそうだ」


 本人にだけ聞こえるよう、声量を抑えて呟いた。真下の方向からひゅっと喉の鳴る音がしたから、聞こえはしたのだと思う。

 どうしてか口端が上がる。声をあげて笑いたい気分だった。今の加瀬のこの顔、どこかで見覚えがある。ああ、新崎に嵌められた日の夜だ。あのときも相手はこいつだった。


 首を押さえる指先に力がこもる。

 加瀬の両目がこれ以上ないほどに見開かれた、そのときだった。


 バタバタと近づいてくる複数の足音が、不意に耳に届く。

 ……遅いんだよ、と心の中で毒づきながら、俺は加瀬の首元から半ば強引に指を引き剥がした。



     *

    ***

     *



 駆けつけてくれたのは、三人の警備員だった。

 三人が三人とも、床に伏せたふたりの男性のうちのどちらが加害者でどちらが被害者なのか、理解しかねているような困惑を見せた。


 抵抗の意思が完全に削げ落ちた加瀬くんから手を放した都築さんは、警備員のひとりを面倒そうに振り返り、後はどうぞと言いたげに顎で加瀬くんを指し示した。我に返った警備員たちが、床に仰向けになった加瀬くんの拘束を開始する。

 革靴が立てるコツコツという足音は、どこまでも冷静だった。それが私と彩香の前を通過して、ドアの前でそれがふと止まる。


「……井口さん。悪いんだけど、真由のこと頼むよ」


 静かに落とされた声は、怖くなるくらい遠かった。

 私へも彩香へも視線は向けられず、ついさっきまでの恐怖が分からなくなりそうなほど胸が痛む。


「あ、待って都築さん……っ」

「真由」


 立ち去ろうとする背中に投げた声も、伸ばした手も、彩香の静止に遮られる。

 ドアはそのまま閉じてしまった。都築さんと私を、あっさり隔ててしまった。


 なんで行っちゃうの? 彩香も、どうして止めるの?

 廊下を歩む足音が、徐々に遠のいていく。結局なにも掴めなかった私の手のひらは、力なく、床にぱたりと落ちた。



     *



 その後の記憶は、かなり曖昧だ。

 警備員に拘束された加瀬くんがその後どうなったのか、研究室から立ち去った都築さんがどこに行ったのか。どちらの答えも知ることなく、私は彩香に連れられ、自宅アパートに戻ったらしかった。


『今日は一緒にいるよ。ひとり、嫌でしょ?』


 労るような彩香の言葉に頷いた途端、忘れていた涙が堰を切って溢れ出す。

 危うく貞操を奪われるところだったのに、そのことに確かに恐怖を覚えていたのに、今の私をなによりも苦しめているのはそのことではなかった。一度も私に目を向けることなく立ち去った都築さんの、冷ややかな態度こそが、私をここまで痛めつけていた。


 どうして行ってしまうの。どうして私を見てくれないの。

 私が、加瀬くんをきちんと警戒しなかったからか。加瀬くんの暴挙を、簡単に許してしまったからだろうか。


 怖い思いをしてもそのたびに塗り変えてくれると、約束したのに。


 泣きじゃくりながら何度も同じことばかり繰り返す私の話を、彩香は静かに聞いてくれていた。

 ひきつけを起こしたみたいな泣き方が落ち着き出した頃、彩香は私の背中を撫でつつ、ぽつぽつと話し始めた。


「真由。私、真由の彼氏さんのこと、どんな人かちゃんと知らないんだ。けどね、彼氏さんがあんなふうに真由から離れたのは、真由のことを大事に思ってるからなんだと思うよ」

「う……く、ひ……」

「さっき彼氏さん、すごく怒ってたでしょ? これは私の想像だけど、彼氏さん、そんなふうに気が昂ぶってるところなんて、あれ以上真由には見せたくなかったんじゃないかな」


 肩にそっと置かれた彩香の手のひらは、あたたかい。

 帰宅するまでの間、外の空気にすっかり冷やされた身体が、そこからぬくもりを取り戻していく。それでも、凍りついた心はそのままだ。そんな中、彩香の声だけが、静かな部屋に透き通るように響く。


 数日前に、知らない電話番号から電話がかかってきたこと。それが都築さん本人だったこと。真由のことでと切り出され、最初は不審に思ったこと。けれど、話に加瀬くんの名前が登場したため、彩香自身も常々感じていた不安を吐露したのだということ。

 もし学校で私が危険な目に遭っても、自分はすぐには助けに行けない。だから私と親しい彩香に連絡を取った。都築さんはそう言ったという。


 都築さんは、どうやって彩香の連絡先を知ったのだろう。

 だが、いわれてみれば数日前、都築さんの車の中に携帯を忘れてしまったことがあった。すぐに届けてくれたから気にしていなかったが、もしかしたらあのときに私の携帯を覗いたのかもしれない。


「すごく心配してたよ。普通、見も知らない彼女の友達に相談しようと思うかな? そうしなきゃいけないくらい、真由が心配だったってことじゃない?」

「っ、でも……」

「今日だってね、研究室の鍵が開かないって思ったら、私ってば頭が真っ白になって。警備員室に行っても誰もいないし、もうどうしたらいいのか分からなくなっちゃって、めちゃくちゃ焦りながら彼氏さんに連絡したんだ。仕事は終わってたみたいだけど、それにしたってあんなふうにすっ飛んできてさ、それって真由のことが心配だったからでしょ? 違う?」

「……彩香」

「さっきね。私、失礼かもしれないけど、この人加瀬くんのこと絞め殺しちゃうんじゃないかって心配になってた。いいタイミングで警備員さんたちが来てくれたから、正直ほっとしたんだよね。そういう気持ち、もし本当に抱えてたんだとしたら、やっぱり自分の彼女には見せたくないって思うんじゃないかな。ただでさえ怖がってる真由のこと、もっと怯えさせちゃうって思って、だからあのまま帰ったんじゃないかなって思う」


 彩香の声も、背を撫でる手も、凍えた私の心に直にぬくもりを運んでくれる。

 深い場所に沈んで動かなくなった心を、引き上げようとしてくれている。


「大事にされてるんだよ。なにも心配しなくていいと思うけどなぁ。……ね、今日はゆっくり休もう? なにも考えないで、眠れなくてもとりあえず目、閉じてさ。細かいことは全部、明日になってからまた考えればいいじゃん」


 ……今の彩香の話を、まるごと信じてもいいのか。

 けれどもう、そう思わなければやっていけそうにない。


 そうでなければきっと、眠ることも素直に明日を迎えることも、できないに違いなかった。


 困った顔で笑う彩香が、背中をぽんぽんと軽く叩く。

 その感触に甘えつつ、私は再び涙を零した。

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