《4》暴走する蛇
『蛇みたいなんです。加瀬くんが真由を見てるときの目って』
接触を図った井口 彩香が、開口一番に告げてきた言葉がそれだった。それを耳にしたときの衝撃を、俺は今も忘れられずにいる。
あれは純粋に好意を寄せている目ではない。今はなにもしてこないけれど、それはきっと、真由の警戒心を解くためだと思う。電話越しにそう語った井口さんの声は、確かに震えていた。
……ほら見ろ。やっぱり気のせいなんかじゃなかったじゃねえか。
用件のみの通話を終え、すぐに発信履歴を削除した。端末を操作しながら、唐突な頭痛に襲われて頭を抱えたのは、つい三日前のことだ。
なのに、まさかこれほど早く、こんな。
「井口さんっ? 今エントランス着いたんだけど!」
『あ、こっちです!』
正面からの微かな肉声と電話越しの声、焦りの滲んだ二種類の声が耳を刺す。
素早く左右に泳がせた視線が、ようやくひとつの人影を捉えた。
「すみません急にっ……! 二階です、ついてきてください!!」
息を切らした井口さんの悲鳴じみた声が、わんわんと頭を反響する。
最悪の事態が脳裏を過ぎり、気を抜けばすぐにも動かなくなりそうな足を無理やり動かし、走らせる。
やはりあのとき、完全に潰しておくべきだったのかもしれない。
物騒な思考を巡らせつつ、長く伸びる廊下を全速力で駆け抜けた。
*
端末が鳴ったのは、仕事を終えてタイムカードを切った頃だった。
緊急時以外には連絡が入らないはずの相手の名が、液晶画面に表示されている――それを確認した途端、背筋を戦慄が駆け抜けた。
少々取り乱しつつも、井口さんは状況をはっきりと教えてくれた。
真由ひとりが残った研究室、その鍵が内側から締められている。自分が席を外して十分も経っていないのに、携帯を鳴らしても反応がない。常駐の警備員は、今、館内の警備に当たっているらしく警備室にいない。
内側から施錠されると、学生が所有するカードキーでは開錠できなくなる。真由にはそんなことをする理由も必要もない。
それなら、誰が、なんのために?
通話の途中で、事務所を飛び出した。
残っていたスタッフが驚いたように視線を向けてきたが、気に懸けている暇はなかった。うっすらと雪が積もる駐車場までの道を、もつれそうになる足を叱咤しながら走り抜けて、そして。
『席を外している警備員に連絡を取って、鍵、なんとか先に開錠できないか訊いてみてほしい』
なんとかそれだけを伝え、後は一心不乱に車を走らせた。
だから言っただろ。あいつは駄目だと、もっとちゃんと警戒しろと、あれだけ。
向けられる悪意が明確であればあるほど、警戒は無力化する。剥き出しにされた凶暴な悪意が、真由に焦点を定めて襲いかかってくるのなら、それはすでに真由ひとりで簡単に回避できるような類のものではない。そんなことは嫌になるくらい分かっていて、だが。
「……くそ……ッ!」
全身を巡る血液が、急激に温度を上げていく錯覚に陥る。
せめて、真由のもとに辿り着くまでは平静を保たなければと思う。思うそばから剥がれ落ちていきそうになるそれを、なんとしてでも。
信号が青に変わり、アクセルを踏み込む。
走り慣れているはずの普段の道が、今日は異様なまでに長かった。
*
***
*
「ねぇ海老原先輩、単刀直入にお訊きします。都築さんとはまだお付き合いされてるんですか?」
「……加瀬くん」
「答えてもらえませんか? はは、僕ってそんなに信用ありませんかね? でも先輩、都築さんは駄目ですよ」
一歩、また一歩、少しずつ距離を狭められる。先刻から一切変化を見せない、能面じみた加瀬くんの顔が視界に映り込むたび、悪寒が背筋を走る。
ふらつきそうになる足を叱咤し、なんとか震えを抑え込んだ。加瀬くんからは視線を離さず、私はゆっくりと後方に足を下げていく。
奥側に逃げてはいけない。研究室の出入り口はひとつ、加瀬くんが内側からロックをかけたそこだけだ。そこから離れるように逃げてしまっては、ますます脱出しにくくなる。
……ならどうすればいい。焦ってはいけないと思いながらも、冷静さは徐々に削げ落ちていく。加瀬くんと私の距離は、確実に縮み続けている。
「……どうして? 加瀬くんにそんなことを言われるのは心外なんだけど」
「駄目なんです。ねぇ、先輩はあんな男のどこがいいんですか? どうして僕じゃ駄目なんですか? 僕、ずっと先輩のことを見てたんですよ。今みたいに先輩の外見が変わってしまう前から、ずっと」
「……加瀬くん」
「それなのに、なんであいつのこと選んじゃうんですか? どうして僕じゃないんですか、早く答えてください、ほら」
穏やかに笑ういつもの加瀬くんは、すでにそこにはいなかった。
温厚な仮面を剥ぎ取って私を詰問するこの人物が、眼前まで迫ったその男が、誰なのか一瞬分からなくなる。
加瀬くんと同じ顔、同じ声をした、あなたは誰。
唐突に手首を掴まれ、強い痛みが走った。
骨が軋むほどの痛みとともに過ぎったのは、底の知れない恐怖だ。壁に背中がぶつかり、絶望はすさまじいスピードで成長を遂げていく。
「ねぇ先輩、今からでもいいんです。僕のものになってくれますよね」
「加瀬くん……放して」
「嫌です。だって放したら逃げちゃうんでしょう? 先輩、あいつのところに戻っちゃうんでしょう? 駄目です。そんなのは絶対に許さない」
背には壁、腕は加瀬くんに捕らえられたまま。逃げ場などあるわけがない。
背筋を抜けていく寒気は、今日だけで何度目か。まるで別人になってしまったかのような後輩に、私は気力を振り絞って訴え続ける。
「加瀬くん、放して。こんなことしてもしょうがないって、本当は分かってるんでしょ? おかしいよ、だって私は……」
「もう黙って。ねぇ先輩、これだけ震えてるのに、それでも僕じゃ駄目なんですか? ほら、こんな指輪、早く外してくださいよ」
震えているのは加瀬くんのせいだし、指輪を外さなければならない理由もない。おかしい。加瀬くんの言っていることは、完全に破綻している。
どれほど諭そうが懇願しようが、少しも意図が通じない。その恐怖に息を呑みながら、右手の薬指に触れた加瀬くんの手をぱしりと払いのける。
「っ、触らないで!」
「あははっ! そんな指輪、先輩には似合わないんですよ! あいつにもらったものなんて、ねぇさっさと外して? じゃないとその綺麗な指、切り落としちゃいますよ?」
投げつけられた言葉の衝撃が、ゆっくりと頭に届く。
近づいてくる加瀬くんの視線が、正面から私の目を射抜いた。その瞳の奥ではギラギラと狂気が揺らめいていて、思わず思考が麻痺しそうになる。
『都築さんは駄目ですよ』
『先輩はあんな男のどこがいいんですか?』
『あいつにもらったものなんて、ねぇさっさと外して?』
――じゃないとその綺麗な指、切り落としちゃいますよ?
言葉の端々に、違和感が滲み出ている。苛立たしげな口調と、たった今投げつけられた言葉に含まれている強烈な毒。その矛先を、私はようやく理解した。
加瀬くんがほしがっているものは私ではない。この子が望んでいることは、ただ単に……こんな状況だというのに、つい口元が緩みそうになる。
ねえ、加瀬くん。
私のことが好きだなんて、あんまり笑わせないで。
*
時間を稼ぎたかった。彩香が、この研究室内の異変に気づいてくれるまで。
それも確かだった。だが。
加瀬くんの目的。加瀬くんが、真に望んでいること。
それが、私にとってなにより耐えがたいことであると気づいてしまった。欺瞞を暴いてしまった以上、目を逸らすことはもうできない。
「……ねぇ、加瀬くん」
「なんですか?」
「加瀬くんは、本当はなにがほしいの」
男の動きがぴたりと止まった。私の手首を拘束したまま、唇を目指して近づいてきていた顔が、微かに強張るさまを見て取った。
迫りくる唇を避けるように背けていた顔を、毅然と上げる。少々高い位置にある端正な顔を真正面から睨みつけ、私は再び口を開いた。
「私じゃないよね? もしそうなら、そんなふうに思ってる人の指を切ろうなんて思わないだろうし」
「……それは言葉のあやなんですけど」
負けたくない。負けるわけにはいかない。
私を傷つけたいなら勝手にすればいい。けれど、この人が本当に狙っていることはそれではない。
絶対に、許せない。
「嘘つき。加瀬くんは私を自分のものにしたいんじゃなくて、そうすることで都築さんが苦しむところを見たいだけでしょう」
加瀬くんの目が、すっと細められる。
さっきまで全身を占拠していた恐怖がじわりと再燃しかけ、それでも私は加瀬くんから目を逸らさなかった。
怖い。しかし、恐怖以上に私を焚きつけているのは、憤りだ。
怒っている。身勝手に都築さんを傷つけようとするこの男に対して、私は今、こんなにも強い怒りを感じている。
これほど激しい感情を他人にぶつけるのは、もしかしたら、これが人生で初めてかもしれなかった。
「どうしてそんなことを言うんですか? 言ったはずです、僕は先輩の外見が変わるよりずっと前から」
「都築さんも同じだよ。知ってるんでしょう?」
「……は?」
「無理やり指輪を外させて、それからどうするの? 私の気持ちを踏みにじる? そういうことして、私が本当に加瀬くんのものになるとでも思ってる?」
「……黙ってください」
私の声を遮るように落とされた加瀬くんの呟きは、幾分か語尾が震えていた。わずかな焦燥を覗かせる加瀬くんの顔を見て、一旦火がついた激情は、さらなる勢いを得て昂ぶっていく。
これ以上見ないふりなどさせるものか。
こんなものは、子供の我侭と同じだ。身勝手な感情で都築さんを傷つけることは、私が許さない。
「君には傷つけさせないよ。私は君のものには絶対にならない」
「うるさいな、黙れって言ってるだろっ!」
「っ、あ……!」
握られた手首を強く引かれ、私の身体はあっけなく傾いだ。
床に倒れ込んだ瞬間、振り払われた手首が解放される。けれど、安堵を感じたのはほんの数秒だけだった。
倒れた私の腰に、加瀬くんは圧しかかるようにして跨った。苛立ちに染まる両目が覗き見え、その圧迫感と恐怖に、私の呼吸は一瞬止まる。
激情に身を任せすぎ、気づくのが遅れた。加瀬くん自身の感情の変化にも、加瀬くんが力で簡単に私をねじ伏せてしまえる大人の男性であるという事実にも。
今度こそ、恐怖に身体が動かなくなる。
頬に強引に触れた加瀬くんの指先は、ぞっとするくらい冷たかった。払いのけるために手を動かすと、またも手首を拘束されてしまう。その触れ方に気遣いは露ほども感じられず、戦慄した私はなんとか声を張り上げる。
「っ、放せ……っ!」
「うるさい! おとなしく言うことを聞いてればいいのに、腹立つなぁ……僕に優しくないアンタなんか要らないんだよっ!!」
荒れた呼吸とギラついた視線に囚われ、目の前が真っ白になる。首筋に動こうとする頭を押し返そうとして、だがそれは徒労に終わった。どう足掻いたところで、力では男性に敵わない。
生ぬるい息が首にかかり、吐き気がした。嘔吐感、眩暈、頭痛。強烈なそれらが、私を追い詰めたがって鋭く牙を剥く。
近寄るな。触るな。
助けて。誰か。ここから出して。
「いやぁ……っ!」
どれほど強く願っても、私に逃げ場なんてない。
そうと分かっていてもなお、死に物狂いで男の唇から逃げようと首をひねった、そのときだった。
ガチャリ。内側からかかっていたはずの鍵が、確かに開く音がした。
次いで、爆音じみた音とともにドアが開く。ふたつの人影が覗き、詰めていた息が、別の要因で完全に止まった。
「……あ……」
ここは大学内だ。学生と学内関係者しか入れない、研究室の中。
濁った視界に映ったその人物が、絶対にいるわけのない場所で、それなのに。
「真由ッ!!」
焦った声が鼓膜を叩く。
密着していた首筋から、生ぬるい感触が離れた。乱れた足音が聞こえた直後、間を置かずに鈍い音とくぐもった悲鳴が聞こえる。
身体を圧迫していたものが、即座に私から引き剥がされていく。
床に転がる私が捉えた光景は、いつか見たものとまったく同じだった。お母さんが倒れたという連絡が入り、駐輪場でうずくまって泣いていたあの日の記憶が鮮烈に脳裏に甦って、今見ている光景とぴたり重なる。
後方に投げ飛ばされる人影、腕を掴む力強い手のひらの感触。普段の彼からは想像もつかないほどの激情を滲ませた、不穏にも思えるギラついた眼差し。
すべてが同じ。ただ、私の心を満たしていくものだけが違った。
今、私が感じているのは、あの日に感じた色濃い恐怖などではなかった。
「っ、都築さん……」
床に転がったきり、懸命に手を伸ばす。
強く引き寄せる腕に身を任せ、私はためらうことなく都築さんの腕の中に飛び込んだ。
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