《3》崩れる平穏
いつだって、異変は突然やってくる。
今思えば、あのときもそうだった。ロッカーから消えた携帯電話、彼女から投げつけられた悪意、ちょっぴり不可解な君からの干渉、見る間に広がっていった歪み。
一度は、修復は不可能と諦めかけた。それでも私と彼は、もう一度お互いの隣にありたいと望んで、そして今に至る。取り戻した平穏に、ようやく身を委ねることができている。
それを、どうして君は壊したがる。
どうして、私が本当に望むものを壊したがっては喜びを見出そうとするの。仮にそうやって私を手に入れられたとして、君はなにを得たいの。
君は、本当はなにがほしいの。
……私じゃない癖に。
自分でも分かっている癖に、笑わせないで。
*
***
*
自覚がまったく足りていない。
もっと警戒してほしいと思っては、荒らげかけた声を呑み込んでばかりだ。
『少し前まで信頼してた後輩だから、できるだけ苦しめたくない』
『このままなにもないなら、前みたいに普通に話せるようになったらなって』
警戒心の緩さを咎めると、あろうことかそんなことを言い出す。……結構なことだ。人の気も知らないで。
真由は加瀬の本性を知らない。口元を歪めて俺を糾弾したあの男が、どれほど浅ましく真由を狙っているのか、なにも分かっていやしない。一度はその思いごと叩き潰してやったつもりだったが、加瀬が真由を諦めきれずにいることは、バイトを辞めなかった時点で明白だ。
近頃は、バイト中になんの接触もないと真由は言う。チャペルでの業務が中心の真由と、ホールでの業務が中心の加瀬とでは、そうなって当然だろうと思ってしまうのは俺だけか。
学校でも、顔を合わせれば挨拶するくらいだと言う。だが、なにがきっかけで奴が真由への干渉を再開するか分からない以上、ちゃんと警戒してくれと叫びたくなる。そう思うのも、やはり俺だけなんだろうか。
分かってくれ。
頼むから、そんな言葉を安易に口にしないでほしい。
手元の携帯電話を軽く握り締める。真由をアパートまで送り届けた後、車の助手席に残っていたのだ。届けなければと思って手に取り、しかし俺はそれを実行せず自室に戻った。
しんと静まり返った部屋で、何年も前の型の携帯電話をじっと眺め……そうしていると、住み慣れた自室が別の場所みたいに思えてくる。今からやろうとしていることを非難されている気分になった。
『学校でもひとりでは行動しないようにしてるから、大丈夫ですよ。遅くなる日には彩香と一緒に過ごしてることが多いし』
『彩香ってすごく心配性なんですよ。そういう意味では都築さんと似てるかもしれないですね』
真由の声には、相変わらず危機感がない。俺ひとりが焦っている。あるかどうかもはっきりしない危機のために神経をすり減らして、馬鹿らしいと自分でも思う。だが。
学校でなにかあったら守りきれない。大学に在籍していて、真由のことをよく知っていて、なにより信頼に足りる――そういう人間と接触したかった。
例えば、井口彩香はどうか。
真由と彼女は、大学に入学した当初から仲がいいと聞いている。元来心配性であり、知り合いでもなんでもない人間から声をかけられやすくなった真由を、いつも気に懸けているという。
専攻も真由と同じだという彼女なら、万が一真由の身に危険が迫ったとき、真由の一番近くにいる可能性が高い気がする。
突拍子もないことを考えている。それは嫌になるほど分かっていて、それでももう耐えられなかった。真由自身の危機意識のなさを咎めても、おそらくもう効果は見込めない。考えすぎだと一蹴される、あるいは煙たがられてしまうだけだ。
他人の携帯電話の電源を勝手に入れ、連絡先を表示させながら、微かに指が震えた。
どうかしているのは、加瀬ではなくて俺のほうなのかもしれない……だとしても。
井口彩香の連絡先を、自分の端末に写し入れていく。
気のせいならそれで構わない。なにもしなかったために後から後悔するのは、今度こそ回避したかった。
*
***
*
……随分遅い時間になってしまった。
公認会計士の資格試験が迫っていることもあり、近頃は研究室にこもることが多くなった。今日も私は、彩香と一緒にデスクいっぱいに資料や過去問題集を広げている。
十二月に入り、雪が降る日も増えた。日が翳るのも早い。
こんなふうに遅くまで残ることは、最近では極力避けていた。都築さんを心配させたくなかったからだ。ただ、今日は彩香も一緒だからと気が緩んでしまっていた。
このところは、彩香までもが加瀬くんを警戒しているように見える。ときおり研究室を訪ねてくるだけの子を相手にどうしてそこまで、と思うが、確かに彩香は以前から、よく私に声をかけてくる加瀬くんを怪訝そうに眺めていた。
彩香は彩香なりに、私を心配してくれている。その気持ちを蔑ろにはしたくなかった。だが。
『すぐ戻るから』
そう言って、彩香は先ほど隣の研究室に出向いていった。必要な文献や書籍を探しに他の場所へ出向くことは多い。立ち去る前、微かに顔を強張らせた彩香に、『大丈夫だよ』と笑って返したのはつい五分前の話だ。
いくらなんでも心配しすぎだ。この短時間でなにかが起きるとは、私にはとても思えなかった。
加瀬くんに対し、近頃の私が抱いている感情は複雑だ。
加瀬くんは、私に思いを寄せているという。面と向かってそれを打ち明けられたことは一度もないけれど、彼が都築さんに対して悪意を剥き出しにしたことは知っている。
加瀬くんへの都築さんの警戒は、日に日に強くなっていく。直接嫌がらせを受けた当時よりも露骨だ。大丈夫だと宥めることさえ憚られるくらい、険しい顔を見せることも増えた。
『少し前まで信頼してた後輩だから、できるだけ苦しめたくない』
『このままなにもないなら、前みたいに普通に話せるようになったらなって』
……あんなこと、言わなければ良かったなと思う。
心労を重ねてほしくないと思って伝えた言葉だった。それなのに、私の言葉にこそ傷ついたと言いたげに歪んだ都築さんの顔が、脳裏に焼きついたきり離れない。
加瀬くんからの干渉が途絶えて以降、ひと月以上なにごともなく過ぎた。その間、バイト先で彼の姿を見かけることもほとんどなかった。研究室にも、彼は前ほど顔を出さなくなった。
加瀬くんからの接触はほとんど途絶えていて、だからなおさら、都築さんにはこれ以上余計な心配をかけたくなかった。でも。
どうしたらいい。せっかく平穏が訪れたと思えるようになったのに。もしかしたらこの先、遠距離恋愛になってしまうかもしれないのに。
少しでも安心させてあげたい。そんな思いは、ますますから回ってばかりだ。
加えて、資格試験の本番が近づいてきているからか、最近は私自身も少々ナーバスになっていた。加瀬くんの件にだけ思考を割いているわけにもいかない。そのせいで試験に集中できなかったなんて、情けなくて言い訳にもできない。
思ったより大きめの溜息が零れた、そのときだった。
研究室の鍵がカードキーで開錠される、ピーッという機械音が室内に響いた。彩香が帰ってきたのだと思い、おかえり、と声をかけようと椅子をぐるっと回転させてドアに向き直って、そして。
現れた人物が誰なのかを理解した瞬間、私はそのまま固まった。
「こんばんは。お久しぶりです、海老原先輩」
ゆっくりと閉じゆくドアの内側には、加瀬くんが立っていた。
ガチャリ。外側からのカードキーでの開錠が不可能となる手動ロックをかける音が、はっきりと耳に届く。
振り返り際に加瀬くんが見せた微笑みに、ぞわりと全身が総毛立った。
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