《2》アンバランス
『ふーん、良かったじゃない。一時はどうなるかと思ったけど、わざわざ朝っぱらからアンタんちに出向いた甲斐があったってもんだわ』
「そりゃどうも。顔の腫れ、次の日まで引きませんでしたけど」
『あら、なによ。あのくらいで目が覚めたんなら安いもんでしょ、むしろ感謝しろっつの……ったく、二度と泣かせちゃ駄目だからね!? もし次になんかやらかしたらそのときは……』
「はいはい」
これでも、最大限の感謝を込めて電話を入れているつもりではある。その辺、電話の向こうでときおり声を荒らげる姉にはきちんと伝わっているだろうか。
結局、いつもと変わらない電話のやり取りにまとまり、思わず苦笑が零れた。
『……あ、そうだ。話は変わるんだけど、アンタには先に伝えとこうかな』
「なに」
『私ね、離婚することにしたの』
「は?」
あまりにも口調に変化がなさすぎて、反応が遅れた。
かなり重大な決断をしているようだが、その〝明日買い物行くんだ~〟みたいな軽い調子はなんだ。
「……えっ、あ、マジで?」
『うん。こないだ戻ったときに伝えた。向こうだって何年も前から浮気してるわけだし、私から切り出してくるのを待ってるんじゃないかなって思ってたの』
「は、はぁ」
『なのにいざ切り出したら、あいつってば無駄にゴネ出しちゃってさ。なんか家庭裁判所に行かないといけなくなっちゃって、明日行ってくるんだー』
話の内容と喋り方が、恐ろしいほど噛み合っていない。
いや、おかしいのは俺のほうなのかもしれない、徐々にそう思えてきてしまって怖い。そもそもどうして俺がこんなに動揺しているのか。
……なんでそんなに普通にしていられる。
だってお前、ずっと。
ここ数年、姉夫婦の関係が決裂状態にあることは知っていた。多くを語られたわけではないが、眺めているだけでもある程度は察せるものだ。
このところ、郁は夫婦の自宅にほとんど戻っていない。嫁ぎ先の都心からこの街に生活の拠点を移し、例のマンションで生活をしている。もはや仮面夫婦ですらない、それを装うこともしなくなって数年が経っていた。
決定打は、親父が亡くなったときだった。郁の夫は、通夜にも葬儀にも顔を出さなかった。
妻の父親が亡くなったというのに、その後も線香一本上げに来なかった。『仕事が忙しいらしくて』と面倒そうに弁解した郁も、夫を本気で庇う気はなさそうだった。
あのとき、郁は夫を見限ったのだと思う。家の処分をはじめとした事務処理に追われている間も、一切連絡がないと聞いて、もう無理なんだろうなとは俺も思った。
『子供ができないから、私じゃ駄目みたい』
まだ親父が生きていた頃、そう言っていたことがあった。そのときの郁の声からは、悲しいとか苦しいとか、その手の悲観的な感じはしなかった。疲れきっている、その印象だけが強く残っている。
金は寄越してくれるらしく、生活に困ることはなさそうだった。今住んでいるマンションも、夫から買い与えられたと聞いている。だが。
……違うだろ。そんな夫婦生活、お前はいつまで続ける気なんだ。
いつも喉元まで出かかるその言葉を声に乗せたことは、過去に一度もなかった。郁自身が踏みきれずにいると知っていたからだ。それなのに。
「いいのか。それだけはって思ってたんじゃねえの?」
『え? ああ、いいのいいの。ってかアンタ気づいてたんだ……やだ、腐っても弟なんだねー』
「腐ってねえよ」
『ふふ。本当はね、離婚は絶対してやらないって思ってたんだ。それなら、今の相手とちゃんとした家庭なんて作れないじゃない? ざまあみろって思ってた。向こうの態度に傷つくことも、最近ではほとんどなかったんだけど』
「……へえ」
『でも真由ちゃん見てたら、なんか私、これでいいのかなって。ご両親のこととかお金のこととか、学生のうちから大変なこといっぱい抱えてて、なのに真由ちゃん、全部ちゃんと受け止めてるでしょ。それ見てたら、なんか自分が残念な大人に思えちゃって』
……ようやく腑に落ちる。
どうして、真由の涙に郁が過敏に反応したのか。わざわざ俺の部屋に殴り込みに来てまで、俺に真由の誤解を解かせようとしたのか。
『私も、ちゃんと向き合ってみたいなって思ったの。私の場合は関係の修復なんかはもう無理だけど』
「……郁」
『はいはい、この話は終わり。なんだか予想外に時間がかかりそうな感じになっちゃったけど、成立したらまた連絡するよ』
郁にとっても、真由は大切な存在なのだろう。
だからあの日、郁は俺を叩いた手を押さえながら、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「郁」
『なに』
「いや、その。次はちゃんと幸せにしてくれる奴、見つけろよって思って」
『エッ……なにアンタ、急にキモいよ。熱でもあるの?』
「キモいとか言うな! 熱もねえよ!!」
『あははっ、冗談だよ。そうだね、今の状況だとそういうことも考えられないし……ありがと。じゃあまたね』
もしかしたら真由は、俺が思っているよりもすごい人なのかもしれない。
端末を握り締めたままそんなことを思って、口元が緩んだ。
*
もうたくさんだった。横槍に傷つくことも、真由を傷つけられることも。
それを回避するためならなんでもすると、俺は堅く心に決めた。
手始めに、仕事に支障が出ない範囲内で、真由に近寄る男を威嚇することにした。社員だろうとバイトだろうと、下心を滲ませて真由に近づこうとする男は誰ひとり許さない。
余裕などこれっぽっちもない。が、なにを言われようが構わない。俺は危機回避を最優先することにした。これで社内の虫除けはクリアだ。
しかし、真由が大学に行っている間は直接目を配れない。非常に心配だ。
というわけで、彼氏いますからアピールのために指輪をつけてもらうことにした。むしろなぜ今までこの案に思い至らなかったのか、自分の余裕のなさに本気で引いている。
真由は、基本的に物をほしがらない。
あれ買って、これ買って、なんてまず言わない。それどころか、俺が真由のために金をかけることに対し、異様に困惑する節がある。そのことに気づいていたから、今までは気を遣う意味でもあえて踏み込まなかった。だが。
『どうしてもプレゼントしたいんだけど、駄目?』
困った顔でそう尋ねれば、真由は確実に断ることをためらう。
そうと分かっていて実行した。手口が汚い、ズルい、なんと言ってもらっても構わない。くどいようだが、俺は手段を選ばないことにしたのだ。
学生なら入店さえも躊躇しそうなレベルの、見るからに敷居が高そうなジュエリーショップをチョイスした。
好きなものを選んでいいよ、とすました顔で伝えると、真由は露骨に顔を引きつらせた。隙あらば低価格ブースに足を伸ばそうとするところをさりげなく阻止しつつ、顔見知りの店員にも協力を賜り、真由が気に入ったものの中でそれなりに値の張る品を選んでもらった。
式場の提携店を選んで良かった。ありがとう、万全の協力体制。
ああ、可愛い。指輪もだけど、それを指に嵌めて嬉しそうに笑った真由が一番可愛い。
参ったか、学生どもよ。この子にこんな顔をさせてやれるのは俺だけだ。ちなみに、今のお前らではどう足掻いてもこんな指輪は買ってやれないはずだ。五年目社会人でもドキッとするお値段だったからな。
俺は真由にかける出費を一切惜しまない。ボーナスまでの節約生活など、はっきり言って苦にもならない。
だから、頼むからこの子に手を出そうなんて思わないでほしい。女にかまけている暇があるなら、ぜひとも学業に専念してくれないか。
……完全に重症だ。でも、だったらなんだ。
重症で上等。真由は俺のものだ、他の誰にも触れさせたくなんかない。
そう思って、なにが悪い。
*
少しずつ少しずつ、逃げ場を奪っていく。断れない状況を意図的に作り上げ、残った選択肢がたったひとつしかないことに気づかせる。
害虫の駆除が済んだなら、後は、もう俺なしでは生きていけないと真由に思わせればいいだけだ。
最初は見るからに困惑していた。それが二度、三度と回を重ねていくうち、頑なにシーツを握り締めてばかりだった手を俺の背中に回すようになった。必死に堪えていた可愛い声も、今なら聞かせてくれる。
いつだってものすごく恥ずかしそうではある。でも、そういう反応だからこそ、こっちも熱が入るのかもしれない。
溺れさせる。分からせる。
今、真由にそんな顔をさせているのは誰なのか、直接覚え込ませて、離れられなくさせる。
分かる? 君をこんなにしているのは、俺なんだ。
唇を塞ぐ。くぐもった声をあげる真由の、吐息ごと口内に閉じ込めて、折れてしまいそうなほどきつく抱き締める。
可愛い。そうやって俺のことだけ見ていればいい。身体も心も、俺ひとりにだけ許していればいいんだ。
自分は着衣を乱すどころか、眼鏡さえ外していない。この手の趣味を持ち合わせているわけでは断じてない。血を吐く思いで我慢しているだけだ。理由は、相手がこの子だから。
抱けなくていい。溺れさせることができるなら、それで構わなかった。
痛がる顔も怖がる顔も見たくない。俺が我慢することでそれが叶うなら、それでいい。
自分がどれほどバランスの悪い思考を巡らせているのか、自覚はある。
今日も本心をごまかしながら、半分以上破綻していると言っていいだろうこんな精神状態が一体いつまで保つのかと思ったら、つい苦笑が浮かんだ。
*
ふたりの間にあった歪みは、少しずつ縮小してきている。
実感があって、間もなく完全に塞がるのではという期待もあって、ようやくここまで辿り着けたという達成感もあった。
……当面の問題は、あの男だ。
加瀬はなんの処分も受けなかった。今もなお、平然とバイトに姿を現し続けている。
逃げ場を塞がれて自滅した新崎とは対照的に、加瀬は終始、知らぬ存ぜぬを貫き通した。
限りなく黒に近いグレー。奴がそうだということは久慈さんも支配人も分かっているはずで、それでも決定的な証拠がなく自白もない以上、処分を下すわけにはいかない。そういう結論に辿り着いたようだ。
どのツラ下げて、としか思えない。
階段下でのやり取りは、牽制などという可愛らしいものではすでになかった。目には目を、悪意には悪意を。残念だが、俺は真由みたいに優しくも慈悲深くもない。
全身を震わせながら掠れた声を零す加瀬の、怯えきった目を思い出す。心底恐怖しているように見えた。強烈なそれを心の深い場所に植えつけてやった自覚も手応えも、十分にあった。
黒という明確な判断がなされなかっただけだ、今の加瀬にとって職場の居心地の悪さは相当なものだと思う。
大多数の社員は確かになにも知らないが、直属の上司である久慈さんと、式場の責任者である支配人が詳細を知っているわけで、加瀬は完全に針の筵状態にある。
それが分からないほど、あの男は間抜けなのか。
……違う。おそらくあいつは、まだ。
『大丈夫じゃないかな。バイトでもほとんど顔を合わせてないし』
安易なことを口にしてばかりの真由に、もう少し危機感を持ってもらうためにはどうすればいいのか。近頃ではそんなことを考えては溜息を落として、その繰り返しだ。
真由が知らない階段下でのあの記憶が、俺を掻き乱す。加瀬の本性を、あの日俺が見た素顔を、真由はきっと知らない。だから呑気なことを言っていられる。
なにもないならそれで構わない。だが、それなら胸の奥で燻るこの苦い感情の正体は、一体なんなのか。
結局、今日もその答えは分からずじまいだ。
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