《5》意趣返し
簡単なことだった。
先輩だから。入社した頃に世話になったから。そういう妙な躊躇を最初から捨てていれば、おそらく話はここまで拗れなかった。
それでも、起きてしまったことがすべてだ。
ならせめて、意趣返しくらいは俺の好きなようにさせてもらおうか。
*
先週、馬車馬のごとく片っ端から仕事を片づけ、急ぎの業務は残っていなかった。
過去の自分を褒め称えたくなる。別にこの状況を見越してそうしたわけではなかったが、おかげで今日は自由に動ける時間が多めに取れる。結果オーライ、というやつだ。
朝礼が終わった後、事務の南さんからロッカーの鍵の管理簿を借りた。
数年前の日付がでかでかと表紙に書かれたそのノートは、滅多に書き込まれることがないためか、半分以上のページがまだ空白だ。
最後に書かれているのは、南さんの筆跡と思しき数字と文字の羅列だった。
十月四日、土曜日、午前九時五十分。利用者の氏名は――やはり。明確な目的があったからとはいえ、これほどあっさり足がつく方法を選んだことについて、逆に尊敬の念が浮かぶ。
南さんに尋ねると、彼女はこのノートと一緒に従業員用ロッカーのマスターキーを持ち出したという。
持ち出しの理由は、辞めたアルバイトのロッカー内に残っているものがないか確認したいから、というもの。マスターキー自体はすぐに返してもらえたものの、管理簿への記載は一切なかったそうだ。
『それは私が書いておいたの。仕事なんだから、その辺はちゃんとルールを守ってほしいよねぇ』
溜息交じりにぼやいた南さんには、曖昧な相槌を打つに留めた。
土曜日、いつもなら忙しさのあまりグルグルに目を回しているはずのあなたが、そんな日にわざわざ優先順位の低そうな仕事を……ご苦労なことだ。
管理簿になにも書かず、少しでも自分の関与をごまかそうとしたのだろうか。几帳面な南さんがそれに気づかないと思えるおめでたい頭の中身は、もはや賞賛に値する。
つい口元を歪めてしまった俺を、南さんは怪訝そうに眺めていた。
*
「思い当たる節、俺もいくつかあったんだよ」
午前中の早い時間のうち、この人物にあらかじめお願いしておいたことはひとつ。新崎さんの近頃の業務とその内容について、詳細を確認してもらえませんか――それだけだった。
人目を避けて声をかけたところ、かつての上司である久慈さんは、小さく息を呑んだように見えた。その仕種を眺めたとき、この人もなにかしら勘づいていることがあるのかもしれないと思った。その推測はどうやら間違いではなかったらしい。
真由の携帯電話が鍵のかかったロッカーから紛失し、その日のうちに発見されたという報告自体、受けるのは今が初めてだと呟き、久慈さんは低く唸った。
「……二週間くらい前になるかなぁ。俺に話があるような顔してた海老原さんが、業務が終わった後なのに新崎に呼び止められたことがあってな。戻ってきたと思ったら、海老原さんひとりしかいないし、しかもすぐ事務所から出ていっちゃってな。なんともこう、話を聞くタイミングを逃しちゃってなぁ。今思えばそのときだったのかもなぁ」
「……そうですか」
「ほら、これ。朝に言われてた件、ちょっと調べてみた」
会議室の一角、長テーブルの上に数枚の紙束がぱさりと落とされる。
縦線と横線が何本も重なり合うA3サイズのその用紙は、アルバイトのタイムシフト表だった。土曜、日曜、祝日。「過去一ヶ月分程度だが、集められるだけ集めた」と語る久慈さんの声は苦々しい。
「よく他部署のお前が気づいたな。普通なら新入りのバイトなんかまず入れないんだよ……加瀬、だったか? チャペルの待合室係、ここ数週間は頻繁に奴が入ってる」
「ちょっと久慈さん、ちゃんと仕事してるんスか? こんなの見逃すとかいくらなんでもあんまりじゃ」
「失礼なこと言うな! ……けど、そう言われちゃっても仕方ないのかなぁ。ここ最近、バイトのシフトに関しては新崎に任せきりだからなぁ。もう何年も任せてるし、新崎なら現場の事情もよく分かってるから、って思ってたんだけどなぁ……」
軽く落胆する久慈さんになんとも複雑な感情を抱きながら、今はそんなことを話している場合ではないと、俺は気持ちを切り替える。
「この件への新崎さんの関与は決定的です。ロッカーの鍵の管理簿に記載されている情報と、後は南さんからも確認が取れています。海老原の携帯が紛失した当日に、新崎さんがマスターキーを持ち出したそうで」
「……ふうん」
「業務中にバイトが携帯電話を持ち歩くのは、確か禁止でしたよね? 多分、そういう意味で海老原に嫌がらせをしかけたんじゃないかと」
「新崎が、か。ちょっと前までは海老原さんのこと、めちゃくちゃ気に入ってたと思ったんだがなぁ」
理由は明白で、だが現時点でそれをわざわざ久慈さんに明かす必要もない。
特になにも返さず視線を下げた矢先、あれ、と久慈さんが訝しげな声をあげた。
「じゃあ、加瀬っていう奴はなんなんだ? なんでそいつ、毎回チャペルの業務に就かされてんの?」
「……嫌がらせに協力してる、っていう話じゃないですかね。なにも知らないということはないと思います。まぁ、単に海老原の気を惹きたいだけかもしれませんが。新崎さんに協力する代わりに、海老原に接触しやすい業務に就けろとかなんとか、交渉したんじゃないですか」
言葉の最後に分かりやすい毒が滲んでしまい、肝が冷えた。
加瀬の話題になると、つい平常心が崩れる。かれこれ一週間以上前のことになる階段下でのやり取りを思い出し、瞬時に苛立ちが湧き起こりそうになったところを、無理やり抑え込んだ。
「海老原本人の話では、紛失した携帯を発見したのも加瀬だそうです。その場所に盗んだ携帯を隠してあることを、あらかじめ新崎さんから伝えられてたのかなって」
「そこまでして嫌がらせ、か。……しかし罪な奴だね、お前」
「は?」
溜息交じりに呟かれた久慈さんの最後のひと言、その真意を図りかね、思わず眉根が寄った。
「だって新崎が海老原さんに嫌がらせって、俺としては理由、ひとつしか思い浮かばないんだけど」
「は?」
「お前、うちの部署にいた頃から新崎のお気に入りだったじゃん。それが異動になってただでさえやる気失くしかけてるところに、今度は海老原さんがお前のお気に入りだろー? ってことなんじゃないの? 嫌がらせの理由って」
「……は?」
俺のお気に入り、とは一体。
まさかこの人も自発的に気づいてしまっているのか。正直、引く。
なんなんだ、この職場は。
ほとんど全員が、尋常ではない勘の良さをしているのはなぜだ。職業柄か。それとも、どこの職場でもこんなものなんだろうか。本当に引く。
「なんですか、僕のお気に入りって」
「えっ、だって仁藤が言ってたぞ? 先週海老原さんが休みだーっていう連絡もらってたの、俺、うっかり金曜の夜まで仁藤に伝え忘れててな。『なんなんですか急にー』とかなんとか……それから『都築さんもなんで教えてくれないのー』とかなんとか……」
……しばくぞ、仁藤。
黒い感情が膨らんだ直後、それはすぐさま脱力感に取って代わった。
なんだかもう、いろいろとどうでも良くなってきた。
今回の件は、いわゆるドロドロの痴情のもつれが原因だ。しかも俺と真由はそれに一方的に巻き込まれたわけで、とにかくひたすら迷惑しているというだけの話なんだ。心の底から引く。
なんなんだ。最初から久慈さんにバレていたなら、なんのためにわざわざ知恵を絞ってまでその点を回避して話を進めてきたか分からなくなる。
いっそ、真由は俺のものだと明言したほうがいいのではないか。今までだって隠してきたつもりは別にないが、そうしてしまえば真由にヘラヘラと近寄ってくる輩も、職場内に限っては激減するだろう。
真由が嫌がらなければそうしたほうがいい。そうすべきだとさえ思えてくる。よし、本人に確認後、そうしよう。
古びた長テーブルに肘をつき、手で額を覆いながら現実逃避に耽る。
延々と考えを巡らせていると、久慈さんが少々焦った声をあげて俺の逃避を遮ってきた。
「な、なんだよ? てっきり仁藤の冗談かと思ってたけど、もしかして本当なのか?」
「白々しいにもほどがありますよ、その言い方……」
「いや、結構真面目な話なんだが。へぇーそうか、お前と海老原さんがなぁ」
「……はぁ……」
「いや、でも実際、そういう理由のほうが信憑性は高い気もするなぁ。……となると新崎は真っ黒ってことで間違いないのかな?」
最後のひと言とともに表情を引き締めた久慈さんを見て、続いていた気怠さを頭の端に追いやった。沈黙のまま頷き返すと、久慈さんは微かに視線を落とし、意外なことを切り出してきた。
「都築。お前さ、証拠って持ってこれそう?」
「……証拠ですか?」
「うん。例えば新崎の自白、とか」
「自白?」
鸚鵡返しを繰り返す俺に、久慈さんはこくりと頷いて見せた。
「鍵の持ち出しに関しては記録も証言もある。ただ、私物の持ち出しっていう観点から見ると、これといった証拠がない。今のままだと、多分〝私は知らない〟の一点張りになるだろうな」
「……はい」
「俺が聞き出してもいいんだが、全部引っ張り出すのは難しい。知らない事情が多すぎるからな。だから、現時点ではお前のほうがよっぽど適任だよなって思ってさ」
……一理ある。
沈黙を返すことで続きを促すと、久慈さんは親指を唇に当てて再度口を開いた。
「新崎、確かに最近おかしいんだよ。俺の許可なしで勝手な行動を取ることが増えてる。今回の件もだが」
「……そうですね」
「これは放置できない問題だ、支配人には俺から伝えておく。……あ、そうだ。これやるよ」
「は……なんですか、これ?」
「別件で持ち歩いてたんだけどちょうど良かった。これ貸してやるから頼むわ」
手渡されたのは、手のひらサイズの細長い精密機器。ボイスレコーダーだった。
どうして久慈さんがこんなものを持ち歩いているのか気になりつつも、あまり深く考えないようにしてそれを受け取った。
こう見えて、久慈さんだって複数の部下を抱える役職者だ。
先ほどは〝ちゃんと仕事してるのか〟と茶化したものの、俺たちみたいな一般社員には見えないところで抱えている仕事も苦労も、きっとたくさんあるのだと思う。それにしたって、普段の仕事が適当すぎると思わないではないが。
「了解です。証拠の件ですが、業務時間内でも大丈夫ですか」
「ああ、できれば早いほうがいい。新崎の業務に関しては融通を利かせる」
「はい。ではさっそくですが、明日の午前中に。この部屋、勝手に使ってもいいですかね」
「いいよ。それも含めて、支配人とお前の上司には今日中に通しておく。その間、俺たちは加瀬に直接連絡を取ってみるよ。そっちの方面は役職を持ってる人間のほうが有利だろう」
「……了解」
受け取ったボイスレコーダーを軽く握り締める。
難しい表情を浮かべた久慈さんにお礼の言葉を告げ、俺は会議室を後にした。
*
『都築さん。あの、ちょっと顔、腫れてないですか?』
『ん、ああこれ? 今朝、郁にビンタ食らった』
『えっ!?』
『真由泣かせてんじゃねぇよって。はは、やっぱり腫れちゃったな』
『だ、大丈夫なんですか?』
『うん。これで目が覚めたようなもんだし』
昨日の夜、送りの車の中で交わしたやり取りを思い出す。
心配そうな真由の顔を見て、かえって安堵したくらいだ。真由が俺を頼ってくれることを、心から嬉しいと思う。同時に、真由が俺に頼られていないのではと悩んだ時間が、彼女にとってどれほど苦しいものだったかとも思う。
この数ヶ月、俺のなにげない態度からそれを感じ取ってしまうことは、きっと一度や二度ではなかっただろう。
挙句の果てに、敵意を剥き出しにした人間から余計な情報を吹き込まれたとあっては、真由が負った傷は決して浅いものではなかったはずだ。特に両親の件については、真由からは相当切り出しにくかったに違いない。
余計な心配をかけたくない、大変なときにわざわざそんな話をする必要はない。そう思ってあえて打ち明けなかったこと、それ自体が間違いだった。
俺自身も、かつて真由に頼ってもらえないことにあれだけ苛立って苦しんで、それだって決して古い記憶ではない。自分が同じことをやらかしていると、どうしてすぐに気づけなかったのか。
『ひとりで泣いてほしくない』
あれを聞いたとき、本気で心の内側を見透かされているのかもしれないと思った。
無意識のうちに隠してしまっているということもあるだろう。急に全部、というわけにはいかないかもしれないが、それでも、俺も逃げてばかりではなく、真由を頼れるようになりたいと思う。
真由が俺にしてくれたように、俺も、抱えた気持ちを真由に明け渡したい。
真由が望んでいるからという理由も確かにあるが、今となっては、むしろ俺自身が強くそう思っている。
……ここに至るまでの経緯を、ふと思い返す。
直接のきっかけは、第三者による煩わしい横槍だった。だが、元々広がりかけていた俺たちの関係の歪みは、それがなくてもいずれは正面から向き合わなければならなかったものだ。
意図は違えど、まだ修正が利くうちにそれを眼前に突きつけてくれたことだけは、新崎と加瀬に感謝すべきなのかもしれなかった。とはいっても、許してやろうなどとは毛ほども思わないが。
夏の謹慎騒ぎの際にあそこまで険悪な状況に陥り、その後はこちらの都合も迷惑も一切考えず、一方的な接触を繰り返した。挙句、俺の一番大事なものを、真っ向から傷つけてくれた。
――誰が許すかよ。
明日が待ち遠しくてならない。
せいぜい、納得のいく言い訳を展開してもらいたいものだ……ねぇ、新崎さん。
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