《4》塗り変える
時刻は、午後八時を回っていた。
数時間前に鳴った携帯の、画面に表示された名前を見て、一瞬ためらったのは確かだった。それでも、放置することは私にはできなかった。
震える指で通話ボタンを押した。
聞こえてきた声は、いつもの都築さんの声だった。激情に染まったあの日の声とは違う、いつもの。
『……真由?』
都築さんが私の部屋に駆けつけてくれた夏の夜にも、同じように名前を呼ばれた。あの日も、ひとりぼっちで泣いていた私に電話をかけてきてくれた。
随分前のことに思えるものの、考えてみればたった数ヶ月前の話だ。そんなふうに思ってしまうくらい、都築さんは、私の心の一番深い場所に住み着いている。ごまかすことは、きっともうできない。
十月中旬、山間の田舎町に流れる夜の空気は冷たい。吐く息が白く見えた気がして焦ったけれど、それはさすがに気のせいだったみたいでほっとする。
家を出るときにはゆっくりとしか踏み出せなかった歩幅は、すでに小走りと呼べるほどまでに大きくなっている。実家の傍にある小さな公園の、やや広めの道路の端。古びた街灯に弱々しく照らし出されているのは、一台の見慣れた車だ。
そこに佇む人影が見えた途端、痛むほど胸が締めつけられ、涙が零れそうになった。
歩くたび、足元の砂利がじりじりと鳴る。音に気づいた都築さんが顔を上げて、私に向けてそっと手を振って、それが視界に映った瞬間、私は彼の隣を目指して走り出した。
縋るように抱きついた私を、驚いた顔をしながらも都築さんは抱き締め返してくれた。冷えた肌にぬくもりが沁みる。悲しいわけではないのに、ぽとりとひと粒、涙が溢れてしまった。
「……遅くにごめんな」
優しい声が耳に届いて、彼の腕に埋もれたまま、ぶんぶんと首を横に振る。
つい一週間前にこの人に負わされたばかりの傷は、今、同じこの人の手によって見る間に縫い合わされていく。私を傷つけることができるのも、その傷を治すことができるのも、都築さんだけだ。
身体を締めつける腕の力が増した気がして、この一週間、どうしたところで塞げなかった空白が急速に埋め尽くされていく。
『俺、真由ちゃんいないともう生きてけなさそう』
初めて口づけを交わした日の都築さんの言葉が、ふと脳裏を掠めた。
……生きていけなくなりそうなのは、むしろ私のほうだ。都築さんが傍にいてくれないと、足を踏み出す方向すらも簡単に見失いそうになる。
数ヶ月前まで、当然のようにひとりで歩いていたはずだった。けれど、今は都築さんがいないと足が竦んでばかりだ。歩くどころか立つことさえままならないだなんて、自分でも信じられないくらいで、それが怖かった。
ひとりではなにもできない弱い人間だと思われたくなかった。失望されたくなくて、それなのに、こんなに強く抱き締められたら、もうなにも考えられなくなる。どうでも良くなってしまいそうになる。
「ごめんな。俺、こないだ怖かったよな」
広い胸に頭を埋めたきりで、首を横に振る。
都築さんがこの傷を治してくれるのなら、それで良かった。怖くて痛くて苦しかった、そのすべてを都築さんが塗り変えてくれるのなら。
それだけで、十分だ。
背中に回した腕に力を込めると、応えるように髪を撫でられる。瞼が震える。からっぽだった心が、どんどん満たされていく。
こんな気持ちを私に与えてくれるのは、世界中のどこを探しても、たったひとり――この人しかいない。
*
古びた遊具の間に設置されたベンチに、ふたり並んで腰かける。
すぐ隣にいるのに、都築さんは私の手をしっかり握って放さない。私は私で、それを嬉しいと思ってしまうのだから大概だ。
先に口を開いたのは、都築さんだった。
「お母さんの具合は? 大丈夫なの?」
「あ、はい。昨日の午後に退院しました。過労らしくて……なんで知ってるんですか?」
「おととい人づてに聞いた。それから今日、郁からも」
そこで言葉を区切った都築さんは、溜息をついて「参ったな」と呟いた。
同時に、頭に手を乗せられる。大きな手のひらの感触に思わず肩が震え、視線を上げると、どうしてか傷ついたような顔をした都築さんと目が合った。
「結構きついな。大事なことを人づてに聞くのは」
「……あ」
「いいんだ、謝らないで。俺だって同じようなことしてただろ」
傷ついた顔をしたきりの都築さんが泣いているみたいに見えて、はっとする。
泣いてはいない。泣いてはいないけれど、だからといって傷ついていないわけでは、きっとない。
触れなくて良いものか、それとも。
そんなことを考えているうちに、頭に乗った手のひらが微かに動いた。
「ごめんな。そんな話を何ヶ月も黙ってられたら、そりゃ信用されてないかなって思っちゃうよな」
「都築さん、それは」
すぐに否定しようとしたものの、できなかった。
不意にぐっと抱き寄せられ、私の頭は難なく都築さんの胸元に抱え込まれてしまったからだ。
「それ、真由に言ったのって新崎さんだろ」
「……あ」
「誤解しないでほしい。俺は、新崎さんを頼ってそれを打ち明けたわけじゃないんだ」
「……え?」
「母親が死んだっていう話をあの人にしたの、入社してすぐの頃だったんだけど、それから少しして今度は親父がっていうだけ。葬式とか手続きとかでバタついてて、一週間近く会社休んだから、親父のほうの話は他の人も結構知ってて。ただ、新崎さんが母親の話まで知ってるのはそういう理由なんだ」
淡々とした声だった。
実の親がこの世を去ったという話をしている人のものとは思いがたい抑揚のない声に、抱き寄せられたまま、私の身体は小さく震えてしまう。
「しつこくてさ。はぐらかすのもだんだん面倒になって、牽制のつもりで喋ったんだよな」
「……都築さん」
「別にふたり一緒にってわけじゃなかったし、俺自身はあんまり気にしてなくて。親父のときにはもう仕事してたし、郁も結婚してたし。薄情だな俺、っては思うけど」
顔は見えない。頭ごと抱え込まれた私の視界は、都築さんの胸元に完全に塞がれている。
いつかも似たようなことがあった。あのときは、赤く染まった顔を私に見られたくないのだと思った。
なら、今はどうか。
この人は今、なにを隠そうとしている。
「こんな話、なにも真由が大変なときにしなくてもいいよなって思ってた。いつか話そうって勝手に決めてたんだ。そうやって簡単に考えてたのが、真由のこと傷つけてたんだって知って……馬鹿だな本当」
……どうしてこの人は、いつも自分を責めてしまうんだろう。
私だって同じようなことをした。私には謝らせない癖に自分だけは謝って、その上、どんな顔をしているのか私には見せない。
見せてほしかった。今、どんな顔をしているのかを、隠してほしくなかった。
胸板を緩く押し返し、薄手のコートの端を握っていた指を前に伸ばす。冷えた頬に触れると、都築さんは微かに目を瞠った。
「隠さないで」
「え?」
「話のことだけじゃなくて、そうやって、私に見せたくないって思わないで」
「……真由」
「つらいのも苦しいのも、ちゃんと見せてください。ひとりで泣いてほしくない」
都築さんは今泣いてなどいなくて、頭ではそれをきちんと分かっていて、けれど言葉は止まらない。
本当はどうだろう。私には見えないよう、見せてしまわないよう、心の中で泣いているのでは――そう思っただけだ。
私の指も大概冷えているはずが、都築さんの頬はそれよりもずっと冷たかった。
少しでもあたためてあげたくなって、手のひらで頬を包む。途端に、都築さんはくしゃりと顔を歪ませた。
「……なに。真由ってもしかして人の心読めんの?」
小さな呟きが耳に届いた瞬間、さっきまでよりもさらに強く抱き締められる。
骨が軋んで痛むほどの抱擁に応えるように、私は広い背中に腕を巻きつけた。
*
新崎さんとは本当になんでもないのだと、都築さんは言った。
あの日は無理やり呼び出され、いつまでも応じずにいるほうが面倒だと考え、新崎さんに言われるまま休憩室に向かったという。
嵌められた、と、都築さんは苦々しく口にした。
「嵌められた?」
「うん。だっておかしいでしょ、あんな計ったみたいなタイミング」
……そうなのかもしれない、と考えながら思う。
あの日、私と加瀬くんが休憩室に向かったのは、午前十時を少々過ぎた頃だった。そんな時間に休憩を取るスタッフはまずいない。私たちだって、取りたくてあの時間に休憩を取ろうとしたのではなく、指示があったからそうしただけだ。
それなのに、まるでドラマかと思うようなタイミングで、都築さんにとっては最も見られたくなかった相手――私に、例の現場を目撃されてしまったわけだ。
鍵のかかったロッカーから私の携帯電話が紛失した件も、都築さんはすでに知っていた。それを新崎さんに報告したときの彼女の態度についても、その日のうちにチャペル脇のオープンスペースの裏に落ちているそれが見つかったことも、発見したのが加瀬くんだったこともだ。
おとといの電話で郁さんに打ち明けた話は、ほぼすべて、都築さんにも伝わっているようだった。
加瀬くんが、バイトには基本的に任されない待合室係を、このところ頻繁に任されていること。そのために、チャペルでの業務がメインになった私と、加瀬くんの休憩時間が重なりやすくなったこと。
そして、バイトのシフトは新崎さんが作成・管理していること。
打算の気配は、確かにあった。
悪寒が背筋を駆け抜けていく。
新崎さんが、都築さんに思いを寄せていることは明白だ。面と向かってひどい言葉をぶつけられたことに加え、携帯電話の件はほぼ彼女の手によるものと考えていいだろう。
では、加瀬くんは? 加瀬くんも、なにか明確な意図を持って私と接していたのか。悶々と考えを巡らせる私に、都築さんはためらう仕種を見せながらも言葉を続ける。
休憩室での遭遇の後、加瀬くんが自分に接触してきたこと。私を傷つけることしかできないなら、私をもらってもいいかと問われたこと。「あんまり頭にきたからその場で殴りかかっちゃった」と苦笑交じりに呟いた後、都築さんは曖昧に口元を緩めた。
加瀬くんに対して抱いていた違和感の正体に、ようやく思い至る。
あの夜、駐輪場にいた私と加瀬くんが都築さんに見つかったとき、加瀬くんが焦ったような顔をしていたことを思い出した。
ほとんど面識がない都築さんに対し、加瀬くんが示した過剰な反応。なんのことはない、それはふたりが〝ほとんど面識がない〟わけではなかったことによるものだったのだ。
さらに、たった今都築さんから伝えられた話を考慮するなら、ふたりの間に良好な関係があるとは到底思えない。
思い当たる節が、次から次へと脳裏を巡る。
これほど多くの違和感を覚えていたというのに、動揺を重ねてばかりでちっとも核心に迫れなかった自分に、つい苛立ちを感じてしまう。
「真由、加瀬には気をつけて。連絡先はもう交換してる?」
「ううん、してないです」
「良かった。じゃあ、学校で加瀬からなにか言われたりされたりしたら、ちょっとしたことでも全部俺に教えてくれるか?」
「はい。分かりました」
指先が微かに震えた。しかし、それはすぐに都築さんの手のひらに包まれる。
突如目の前に立ち塞がった不安は、決して小さなものではない。でも今の私には都築さんがいる。全幅の信頼を寄せられる人が、こんなにも傍にいるのだ。不安に乱れかけた気持ちはすぐさま落ち着いていく。
「携帯の件は窃盗に当たるだろうし、久慈さんと支配人に報告すべきだな。明日からいろいろ動くつもりでいるから、ちょっと余裕なくなるかもしれないけど、俺のこと、信じて待っててくれる?」
「はい」
握った手のひらにそっと力を込めると、頭をぽんと撫でられた。
思い浮かんだのは、先刻思ったことと同じだ。この人がいなくなったら途端に生きていけなくなりそうで、けれど今は、それでいいと思ってしまう。
今度こそ、間違えずに、信じ続けたかった。
*
***
*
「そろそろ戻らないとな。遅くなっちゃったな、お父さんとお母さん、怒ってるかもしれないなぁ」
「いえ、大丈夫です。その辺はあまり過保護ではないので」
「そうか、良かった。……っていう言い方もなんかアレか……送るよ」
名残惜しさを振りきって立ち上がろうとした矢先、ふと袖口を引かれた。
視線を下げると、縋るような眼差しを向けてくる真由と目が合い、思わず唾を飲み込む。
「……どうした?」
「ええと……その」
平静を装って口に乗せた問いかけに、真由は視線を逸らして返答を淀ませる。
なにか余計なことをしてしまっただろうか。急に不安になり、再度ベンチに座り直す。根気強く返事を待とうと粘っていると、真由は恥ずかしそうに小さな声を零した。
「あの。キス、してほしい」
……不意打ちが過ぎ、頭が真っ白になる。
瞬く間に赤く染まっていく真由の頬を見る限り、聞き間違いかもしれないとはとても思えず、思考はあっけなく麻痺した。
「っ、ここで?」
みっともなく上擦った俺の疑問符に、真由は小さくこくりと頷いた。
次第に潤んでいく瞳に釘づけになったきり、俺は身動きが取れなくなる。
「こないだのキス、さっき怖くなかったって言ったけど、本当は怖かったから」
「……真由」
「都築さんだけだから。だからちゃんと、都築さんに塗り変えてほし……あっ」
続く言葉ごと、唇を奪った。
寒空の中で冷えきっていたはずの互いの唇は、見る間に温度を上げていく。
いつもそうだ。
イメチェンに誘った日も、初めてキスをした日も、身体を重ねた日も、今も、いつだって俺はこの子に振り回されっぱなしなんだ。
それで構わないと、そんなふうに思えてしまう程度には溺れている。いっそ、このままずっと溺れていてもいいとさえ思う。
自分がどれほどこの子に参っているのか、心の底から思い知らされた気分だった。
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