《3》インターホンと鉄の味
これ以上落ち込むことはないと思っていたのに、どうやら違ったらしい。それどころか、荒んだ内面を表に出さないようにするだけで精一杯だ。
土日にぎっしりと詰まっていた打ち合わせも、伝え忘れや凡ミスは避けなければと、そういう事務的なことしか考えられなかった。何組かのカップルは、普段と異なる俺の様子に気づいたかもしれない。日曜、最後の打ち合わせが終了した頃にようやくその事実に思い至り、薄ら寒さを覚えた。
月曜休みは、思った以上に快適だった。
多忙な週末を終えて疲れきっている中で、いつまでもベッドから出なくて良いというのは、最高に気楽だ。
本来はそんな目的のために月曜の休暇を選んでいるわけではないが、それ以上は考えたくなかった。なにを考えても行き着く先が同じという状況は、いい加減切り抜けなければ危険な気がする。
頭まで布団を被り直し、余計な思考を強引に止めようとしたときだった。
突如、けたたましくインターホンが鳴った。
「……るせぇな……」
午前八時前、こんな時間から非常識にもほどがある。
繰り返し鳴るインターホンの無機質な音に、苛立ちが加速していく。掛布団を蹴りつけてベッドを抜け、玄関に向かいドアを開けて、そのまま俺は固まった。
そこには、郁が立っていた。
ドアのわずかな隙間越しに目が合い、郁はにこりと微笑んだ。
しかし次の瞬間にはドアを一気に引かれ、ドアノブに指を置いていた俺は堪らずバランスを崩してしまう。よろけた体勢を立て直す間もなく、郁は俺の胸倉を掴み、有無を言わさず手を振り上げた。
あ、と声を漏らす暇もなかった。遠慮なく振り下ろされた姉の手は、バチンともゴツンともつかない不穏な衝撃音とともに、俺の頬を強打した。
なにが起こったのか理解が追いつかず、ただ、左頬を貫いた痺れみたいな痛みを追いかけるしかできない。薄く切れた口の中を、錆びた鉄の味がゆっくりと広がっていく。
「ってぇな……いきなりなにしやがるテメェ!」
「黙りなさい。言ったはずよ、真由ちゃんを泣かせたら殺すって」
郁の声は低く平坦で、またひどく掠れていた。
人を叩いた衝撃を手のひらで受け止め、自分自身も痛みを感じているのか。掴んでいた俺の胸倉から力なく手を下ろした郁は、俺を打ったほうの手を押さえ込むようにしてぎゅっと握り締めている。
「昨日、真由ちゃんに電話したの。全部聞いたからね」
正面から俺を睨みつける郁の目尻は、微かに濡れている。
叩かれた衝撃さえ忘れ、俺は呆然とその場に立ち尽くすしかできなかった。
*
真由の携帯電話が、鍵のかかったロッカーから紛失していたこと。それが、その日のうちに〝偶然〟加瀬によって発見されたこと。
休憩が〝偶然〟一緒になった真由と加瀬が休憩室を訪れた時間が、〝偶然〟あのタイミングで新崎に呼び出された俺が一方的にあの女にまとわりつかれていた時間と、〝偶然〟にも重なってしまったこと。
郁が喋る話の半分は、純粋に知らない話だった。
息を呑んだ俺に気づいているのかいないのか、郁は言及を続けた。
駐輪場でうずくまっていた真由が、〝偶然〟加瀬に見つかったこと。
その場に俺が現れて加瀬の腕を引っ掴み投げ飛ばし、そのまま強引に連れ去られてしまったこと。
言いにくそうだったよ、けどほとんど無理やり聞き出した。
震える声でそう口にした後、郁は立ち尽くしたきり、震える拳を再び握り締めて声を荒らげた。
『安っぽいトラップなんかに簡単に引っかかって、本当に情けないよッ! いい加減目を覚ましなさい!!』
安っぽいトラップ。
姉が放ったその言葉は、痛烈に胸を抉った。
この一週間、違和感はずっとあった。本当は、なにも考えたくないと最初に思った日――真由を強引に連れ帰ったあの夜から気づいていた。単に目を背けてきただけだ。
そうやって逃げ続ける俺に、郁は真正面からそれを突きつけた。
『まさか気づいてないわけじゃないよね? アンタが逃げてる場合じゃないでしょ、あんな状態の真由ちゃんのこと、なんで放っておけんのよアンタ!?』
悲鳴じみた姉の声が、頭の奥を突き刺した。
……郁の言う通りだった。とっくに気づいていた。
新崎が俺を引きずり込んだ休憩室に、まるで狙ったかのごとく現れた真由と加瀬。真由に思いを寄せているという加瀬が、真由と一緒に行動していたこと。
不自然とまでは言いきれない、けれどなにかが引っかかる。確かにそう感じていた。
他のバイトと異なる休憩時間を割り当てられるのは、基本的には特殊な業務に就いている真由だけだ。それなのに、取ってつけたようにそこに加瀬が加わり、ふたりは並んであの時間に休憩室に現れた。そして、バイトのシフトを管理しているのは、新崎。
そこまで気がついていて、それでもその先を考えないようにしてきた。
そんな俺の葛藤など余裕で見抜けているのか、刺すみたいな視線を向けてくる郁の顔を、正面からはとても捉えられなかった。
『そいつら、明らかに裏で手を組んでるよね。部外者の私にも分かるくらいなんだから、アンタが気づいてないわけ、ないよね』
分かってる。気づいてる。けど、全部、いまさらだ。
真由はもう戻ってこない。チープな罠にあっさり惑わされた挙句、余計な傷を上乗せしてしまった後なんだ。
いまさら、どうしろっていうんだよ。
八つ当たりだと分かっていながらも声を荒らげると、郁はわずかにためらうような顔を見せてから、静かに口を開いた。
『アンタのこと傷つけちゃったって、泣いてた。自分だってひどい目に遭ってるのに、今度はお母さんが倒れて相当参ってるだろうに。一番傷ついてるの、自分の癖に』
くらりと眩暈がした。
……なに言ってんだ。違うだろ。傷つけた、じゃないだろ。傷つけたのは俺で、さよなら、なんて言葉を吐かせたのも俺だ。なのになんで、そんなふうに泣いてしまうんだ。
『お母さんが、先週末に倒れたって』
仁藤の話を思い出す。あの夜、真由が駐輪場でうずくまっていた理由。それがどれほど真由を追い詰めるできごとだったのかを、心底思い知らされた気分だった。
どうして気づいてあげられなかった。どうして、つまらない嫉妬ばかりを優先させた。傷つけたのは俺なのに、〝傷つけてしまった〟なんて、今もあの子に思わせ続けてしまっている。
精神的な理由で吐きそうになるのは、多分このときが初めてだった。自分はこういう感覚とは無縁だと思って生きてきたのに、視界を掻き回す眩暈は強まっていく一方で、堪らず口を押さえて壁にもたれかかった。
郁は、そんな俺をじっと見ていた。揺れる視界の中で、郁が薄く口を開くさまをぼんやりと見つめ返して、それしかできなかった。
『アンタだって今、キツい思いしてるだろうなって思う。けど、今はアンタが頑張るべきなんじゃないの? ちゃんと真由ちゃんに謝って、誤解、解いてあげなよ』
――真由ちゃんが頼りたがってる一番の相手は、もう私じゃないんだよ?
最後に独り言のようにそれを零した後、姉は帰っていった。
来たときとは逆に、静かにドアを開けて出ていく姉の背中を眺めたきりの格好で、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
*
口の中からは、まだ微かに鉄の味がする。
携帯電話を握り締めてはテーブルに置き直して、何度そんなことを繰り返したか分からない。姉の苦しげな顔と声が頭を埋め尽くしては、早く電話をかけなければと思う。
まだ間に合うだろうか。真由は受け入れてくれるだろうか。
なにより、俺自身は、どうしたい?
取り戻したいと思う。
最初から拗れてしまっていたものも、ゆっくりと時間をかけて拗れ続けたものも、全部ひとつずつ修正してあるべき姿に戻して、直して、そしてもう一度真由の隣に立ちたい。
なら、今の俺がするべきことは、なんだ。
指が震える。それでも、今は逃げている場合ではない。
答えはとっくに出ていたのに、目を背け続けてきた。怖かったからだ。だが、怖がってばかりいるのはもう嫌だとも、確かに思う。
だから、踏み出さなければならない。
鳴り続けるコール音を聞きながら、前にもこんなことがあったなと思う。
あれはまだ真由と付き合う前のことだ。あのときも、身動きが取れず苛立ってばかりの俺の背中を押したのは郁だった。姉には本気で頭が上がらない。
今はあのときとは違う。この電話が俺からのものだと、今の真由は知っている。後は、彼女が受け入れてくれるかどうかだ。
謝らなければならないことも、伝えなければならないことも、山積みだ。
休憩室での誤解についても、直後の加瀬とのやり取りについても、そのせいで俺が覚えた身を焼くような嫉妬のことも、すべてを伝えたいと思う。
あの夜のことも、謝るだけではなく、きちんと話したかった。
はぐらかし続けてきた両親のことも、すべて。
「……もしもし?」
不意にコール音が途切れ、俺は震える唇を無理やり開いた。
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