《2》思う壺

 もう戻れない。

 それくらいのことをした。それくらいの傷を、負わせてしまった。


 やっぱり駄目だった。

 誰と付き合おうといたずらに相手を傷つけるだけだと、そんなことは最初から分かっていた癖に。真由は特別だ、今度こそ同じ轍は踏まない――確かにそう思っていたのに、浮かれた挙句このザマだ。


 月曜、休日。屍同然で、部屋から一歩も出ることなく過ごした。

 本当なら真由と過ごしているはずだった。よせばいいのにそればかり考えてしまうせいで、疲弊した精神はさらに痩せ細っていく。最後には、考えること自体をすべて放棄した。


 次に会社に行くことが億劫でならなかった。

 とはいえ、一旦出社してしまえば、思いのほか日常は簡単に舞い戻ってくるのだと思う。そんなものだ。前のときだってそうだった。


 火曜には、一切の感情を切り離して働いた。余計なことを考えれば、その瞬間に仕事に支障が出るからだ。

 せっかくだからこの機会にと、忙しさにかまけて後回しにしていた業務を片っ端から片づけてやった。

 気づいた頃には、抱えていたタスクの大半が消化されていた。これまでは、片づけても片づけても湧いて出てくるそれらを、優先順位の高いものからなんとか順に潰すだけで精一杯だったのに。


 なんだ。やればできるじゃないか、残業率はなかなかすごいことになったが。

 それでいて、気分は晴れたようで晴れていない。結局、なにをしていても最後にはそこに行き着くようになっている。嫌気が差す。


 新崎さんへの嫌悪感、加瀬に対する嫉妬。そして、一番傷つけたくなかった人を傷つけた、後悔。

 そのどれもを、強引に頭の隅に押しやった。見ないふりをして、表向きの仮面を普段以上に念入りに顔に貼りつけて、今日という日をやり過ごすために重い身体を引きずって働く。


 それでも、やるべきことが目の前から消えてしまえば、残るものは同じだ。

 何度繰り返しても結果は変わらない。

 本当に、嫌になる。



     *



 週末、土曜。

 仁藤が異様に慌ただしくしていたため、声をかけた。


 午前十時に開式を予定しているチャペル挙式、そのアテンダント業務の準備がままならずにいたらしい。いつもはこういう焦り方をしない仁藤が、今日に限って余裕をなくしているところを、そうと分かっていながらスルーするのも気が引けた。


「すみません助かります! じゃあさっそく、コレとコレと……あとコレも。この三つをチャペルに運ぶの、手伝ってもらっていいですか?」


 弱った顔をした仁藤が指差したのは、音響関係の機材が入った袋がひとつ、式場前方に設置する巨大な造花と花瓶が一対。それから、アテンダントの制服やら手袋やら、細々こまごまとした備品類が入った紙袋だった。


「……多いな」


 定位置から滅多に動かすことがない巨大な造花は、わけあって平日の間、他の式場に貸し出されていたそうだ。

 仁藤はかなり不服そうだ。準備の手は休めることなく、頬を膨らませながらひたすら口を動かし続けている。


「今日になるまでバンケットさん、全然教えてくれなかったんですよ。ひどくないですか? 借りるなら返すまでちゃんと責任持てよって感じなんですけど!」

「そ、そうね」

「最近はずっと海老原さんに手伝ってもらってたからなー。ひとりって本当キツいです」


 不意に飛び出した名前に、背筋が強張った。

 顔に出すわけにはいかない。ふうん、と適当な相槌を入れて受け流した。


「今日、海老原さんってお休みなんですね。それも今日になってから伝えてくるとか、久慈さんってばそろそろいい加減にしたほうが良くないですか? 月曜のうちから連絡入ってたの、伝え忘れとかホント……一瞬、海老原さんを恨みそうになっちゃいましたよぉ」

「……え?」

「都築さんも知ってたんじゃないんですか? だったら教えてくださいよー」


 手が止まる。

 休み? 月曜のうちから連絡が入っていた?


「……いや、俺は聞いてない」

「えっ、そうなんですか? だって……」

「後は? これで全部? だったらホラ、行くぞ」


 話の続きは、あからさまに遮った。微かに驚いた顔をした仁藤から視線を外し、持っただけで碌に前が見えなくなる巨大な造花の壺を手に取る。

 余計な追及はたくさんだ。仁藤には悪い気もするが、これ以上は誰の干渉も受けたくない。振り回されるのも踊らされるのも、もううんざりだった。


「あ、すみません。えと、後はチャペルの鍵……」


 俺の態度の変化に、仁藤はすぐさま気づいたらしかった。

 気が利くというか、空気が読めるというか、仁藤のこういうところにはつい感心してしまう。


 あの女とは、大違いだ。


 思わず舌打ちをしそうになる。

 浮かんだ黒い感情を削ぎ落とすようにして荷物を抱え直し、俺は仁藤と一緒にチャペルへ向かった。


 造花の設置を先に済ませ、次は音響機材の接続に取りかかる。


「うわー早いですね、めっちゃ助かります―! 私これすごく苦手で!」

「知ってる……」


 仁藤の声が周囲の壁にわんわんと反響し、少々居た堪れない気分になる。

 この手の配線の接続や管理は、バンケット勤務の頃に頻繁にやっていた。今となっては、なかなか活かしがたいスキルに成り下がってはいるが。


「ありがとうございました、助かりました! でもどうしよう、今日のサブって誰にお願いすればいいのかな。本当は今日、海老原さんがデビューする予定だったから」

「ふうん。さすがにそれは手伝ってやれねえぞ」

「分かってますよ。……あの、都築さん」

「ん?」

「余計なお世話かもしれないですけど、本当に聞いてないんですか? 海老原さんの欠勤の理由」


 先刻までとは打って変わって、仁藤は声をぐっとひそめた。

 単に俺に気を遣っているだけとも思えず、顔をしかめてしまう。


「知らない。そもそも休みだって話も聞いてない」

「……なにかあったんですか?」

「別に」


 素っ気ない、見方次第では不機嫌とも取れる態度だという自覚はある。

 だが、それもわざとだ。分かってやっている。


 ……珍しい。あの仁藤が、妙に突っかかってくる。

 もう一度牽制しておいたほうがいいかと思考を巡らせた矢先、俺が口を開くよりもひと足早く、仁藤がおずおずと口を開いた。


「その、お母さんが、先週末に倒れたって……」


 心臓が、文字通り凍りついた。


 ……それか。

 真由はあの日、それを加瀬に打ち明けようとしていたのか。


 強烈な眩暈に襲われ、額を押さえた。

 誰かに縋りたいというあの子の願いごと、俺が邪魔した。本当なら俺が耳を傾けるべきだった真由の声は、最悪の形で遮られてしまった。俺が、遮ってしまった。


「っ、大丈夫ですか都築さん? 顔色……っ」

「……ああ、悪い。戻るわ、サブの件はちゃんとマネージャーに相談しろよ」


 やっとのことでそれだけを口に乗せ、足早に裏の通用口に向かう。

 後には、まだなにか言いたげな顔をした仁藤が残ったのだと思う。だが、これ以上仁藤になにか訊かれるわけにはいかなかった。性質たちの悪い動揺を、社内の人間の誰にも悟られたくなどなかった。


 どうして傷ついた気分になる。どうしてこんなに苛立ってしまうんだ。

 まさかまだ頼ってもらえるとでも思っているのか。あれほどのことをしでかしておいて、この期に及んで、俺はまだそんな浅はかな夢に縋りついているのか。


 笑わせてくれる。完全に、あいつらの思う壺だ。


 裏への扉が、バタンと音を立てて閉じる。この場所で隠れるように真由を抱き寄せた記憶がふと蘇り、大声で叫びたくなった。

 思えば、あの頃から歪みはすでに生まれていたのかもしれなかった。気づいていなかったのが俺だけだった、というだけで。


「……最悪」


 低く呟いた声は、誰にも聞かれることはなかった。

 薄暗い空気の中に溶け込むみたいにして消えて、後にはなにも残らない。


 なにひとつ、残りやしない。

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