第6章 修正と、上書きと

《1》靄に似た違和感

 懸念していた母の容態は、それほど深刻なものではなかった。

 あくまでも表面上は。


 父から電話があった翌日――三年になってからは授業を入れていない月曜日、私は朝から電車を乗り継ぎ、実家に戻っていた。余計なことを考える暇がないことを、助かったと思わないでもなかった。身内の災難をまるで喜ぶかのような自分の内心に、罪悪感を覚えたのも事実だったけれど。

 今は、そうしてでもなにも考えたくなかった。昨日の日中に見てしまったもののことも、夜のことも。


 自宅に帰ると、そこには入院に必要なものを掻き集める父の姿があった。

 行くか、とぽそりと告げられ、私は父と一緒に、昨日母が入院したという隣市の総合病院に向かったのだった。



     *



「もう、お父さんったら大袈裟なのよ。倒れたって言ってもね、バタンといきなりってわけじゃなくてねぇ」

「……元気そうじゃん」

「そうよ。眩暈がしてちょっとうずくまっただけなのに、お父さんったら慌てちゃって、救急車まで呼んじゃってねぇ……お母さん、救急隊員さんたちに申し訳なかったわぁ」


 向かった病室で、母は大仰に溜息をついてみせた。それでも、トーンの高い声で放たれた母の言葉と顔色は、決して比例していない。過労とのことらしいが、疲弊の程度は傍目にも十分に分かる。

 父は、終始渋い顔で黙り込んだきりだ。それだって、ベッドの上でころころと笑う母の様子を前に、ばつの悪い思いをしているだけではきっとない。


 ここまで、なのかもしれなかった。


「お母さん。それからお父さんも」

「ん?」

「私、大学、辞める」


 用件のみを口にすると、ふたりは同時に顔を引きつらせた。


 もう無理だ。これ以上、この人たちのことを放ってはおけない。

 大学に通い続けるだけで、学費は嵩んでいく。普段の生活もバイトに行かなければ成り立たない。奨学金だって結局は借金だから、借りれば借りるほど将来の返済額は増えていくばかりだ。

 残り一年強、耐えられないのは両親ではない。入院費やらなにやらで逼迫しているだろう家計でもない。


 私自身だ。


「今日はたまたま授業がなかっただけなの。やっぱりこれ以上は厳しいなって」

「……真由」

「お母さんたちが悪いんじゃないの。私がもう、余裕とか、全然なくて」


 難しい顔をして黙り込んでしまったふたりの顔は、とても見ていられなかった。

 狭い個室の隅で床に視線を落とした直後、「午後からまた来る」と唐突に口にした父に引きずられ、私はそのまま病室を後にした。


 自宅に戻った後、父に諭された。


 大学を辞めるのはどうにかして回避しよう、そのための方法を考えようと、言葉少なに父は語った。

 授業の受講そのものは去年より少なくなっている。しかし、学費は授業の受講数に関係なく、常に一定の費用がかかる。だから四年の後期、つまり卒業まで、負担は基本的に変わらない。それを告げると、父は低く唸った後にこう返してきた。


「受ける授業が少なくなってきているなら、この家から授業がある日だけ通うのはどうだ? アパート暮らしをやめれば家賃がかからなくなるし、食費やらなにやらも今よりは抑えられるんじゃないか?」

「……けど」

「今回は大丈夫だ、お父さんの早とちりもあったからな。それを理由に大学を辞める必要はない。それでもということなら、一時的に休学手続きを取る方法もある」


 週に数回なら、ここからも通えないわけではない。

 確かにそう思う。けれど。


「けど、私……」

「なぁ、真由。心配も苦労もかけてばかりだが、お父さんもお母さんも、真由にちゃんと大学を卒業してもらいたいんだよ。じゃないと真由の夢、叶えられないだろ」


 ピリピリと音がするくらいに張っていた気が、わずかにたゆむ。

 後はなし崩し的だ。自分ひとりで乗りきらなければと必死に奮い立たせていた気持ちは瞬く間にほつれ、涙腺があっさり緩んだ。思わず両手で顔を覆う。


 これほど真剣な話をお父さんとしたことは、数える程度しかなかった。

 私の相談相手はいつもお母さんで、お父さんはそれを黙って見ているだけで、それなのに、こうやってきちんと私のことを考えてくれていた。自分だって病気になって、仕事を辞めて、大変な目に遭っているのに。


 ぼたぼたと零れる涙は、なかなか止まらなかった。



     *



 それから一週間、母は入院生活を送ることになった。

 入院患者の家族は、思った以上に忙しい。病院内で準備してもらえるものは限られているから、それ以外のものを自分たちで用意したり、使用済みの衣服やタオル類を洗濯したり、それらを再び病室に届けたりと、なにかとバタついてしまいがちだ。


 家のどこになにが仕舞われているのかよく分かっていない父だけでは大変だろうと、私は取り急ぎ、一週間学校を休むことにした。

 大学の事務局に連絡を入れると、たまたま、私の事情を詳しく知っている職員さんが出た。母の容態やら父の容態やら、挙句の果てには私の体調まで心配されてしまい、少々焦った。

 私を心配してくれる人は、私が思っているより多くいるのかもしれない。すっかり長くなった電話を切りつつ、つい苦笑が零れた。


 病院と自宅を忙しなく行き来しているうち、あっという間に一週間が過ぎた。

 最初の数日こそそんな余裕はなかったものの、先週末の記憶が蘇ることも増えた。慌ただしい時間から解放された瞬間などは、特に。


『なんで俺より先にあいつに相談しようとした』

『嫌なら嫌って言え』

『齢が近くて真由のことちゃんと分かってくれる奴がいるんなら、そりゃあそのほうがずっといいよな』


 あのときは、ひどいことを言われているとしか思えなかった。

 それが変化し始めたのは、気持ちが落ち着き始めた最近になってからだ。


 あの夜の都築さんの声は、チャペルの裏に隠れて抱き寄せられたあの日に聞いたそれと同じだった。

 ひどい言葉を口にしながら、誰よりも――私よりも傷ついていたのは、都築さん自身だったのではないか。そんなことを考えては胸を痛めて、近頃の私はひたすらその繰り返しだ。


 それに今思えば、加瀬くんに対する都築さんの態度は明らかにおかしかった。なにもあんなふうに、力ずくで加瀬くんを引っ張らなくても良かったのではないか。

 社員がバイトに故意に怪我をさせたとなれば、大問題になる。それが分からないわけではないだろうに、それでも都築さんはあんな行動に出た。その理由が気になって仕方なかった。


 一方の加瀬くんの態度にも、やはり気に懸かる点がある。

 都築さんに視線を向けた加瀬くんは、マズいと思っているかのような、いうなれば引きつった顔をしていた。新崎さんと一緒にいた都築さんを、あの日の日中、加瀬くんも確かに目撃している。とはいっても、その程度の面識しかない相手を、ひと目見るなりあんな顔で加瀬くんが見つめたのはどうしてなのか。


 激情に身を任せた都築さんは怖かった。けれどそれよりも、都築さんが怒りを少しも隠さなかった、あるいは隠せなかった理由のほうが遥かに気になる。普段はそういうことをする人ではないという認識も、私の懸念にますます拍車をかけていく。


「……はぁ」


 溜息が零れる。

 これ以上は考えても仕方がない。あんな形で都築さんの部屋を飛び出した私に、自分から彼に接触する資格はない。それ以前に、自分からなにか行動を取るなんてできそうになかった。


 もう会えないのかな、と思う。


 バイト自体、このまま辞めることになるかもしれない。せっかく新しい仕事を任せてもらえたのに、結果的に仁藤さんや他のウエディングプランナーさんたちの信頼を裏切るみたいでつらかった。

 新しいバイトに、また一から仕事を教えなければならなくなる仁藤さんに対しては、特に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 月曜に実家に戻ってきた時点で、今週末のバイトを休ませてほしいと、バイト先には電話を入れておいた。

 出勤や欠勤に関する連絡は、久慈さん宛てに行うことに決まっている。家庭の事情でと伝えると、久慈さんはわずかに沈黙した後、労うように優しく声をかけてくれた。


 チャペルアテンダントのデビューが予定されていたのは今週末だ。それが流れることで、アテンダント業務に関わる多くの人たちに迷惑がかかるだろう。その件について久慈さんにも謝ったけれど、『そんなこと気にしなくていいよ、仁藤や他のプランナーには自分からもちゃんと伝えておくから』と、久慈さんは電話越しに朗らかに笑っていた。

 今日は日曜。アテンダントの業務も、すべて終了している頃だ。仁藤さんやウエディングプランナーさんたちは、休んだ私のことを怒っていないだろうか。もしかしたら苛立たしく思っているかもしれないと考えると、気が滅入った。


 私が働く理由は、いつしか生活費のためだけではなくなっていた。

 私は純粋に、セント・アンジェリエでの仕事が好きだ。あそこで仕事ができなくなるのかと思うと、胸にぽっかりと空洞ができてしまった気分になる。

 あの場所が私に与えてくれたものは、あまりに大きすぎた。だから、辞めなければならないと考えると、それだけでキリキリと胸が痛む。そういうことなのだと思う。


 次の一回で、溜息は最後にしよう。深く息を吸い込んだ、そのときだった。

 茶の間のテーブルに置かれた携帯電話が、不意にブルブルと震え出した。


「……え……」


 画面に表示されているのは、私がよく知る、ある人物の名前だ。

 その名を見るや否や、私は携帯に勢い良く指を伸ばした。

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