《6》狂った歯車

「……降りて」


 抑揚のない声が耳に届き、私は震える手を車のドアノブにかける。

 いつの間にか助手席側のドアの外に立っていた都築さんは、震えっぱなしの私の腕を強引に引っ張った。滑り落ちるように地面に足を下ろした私を引きずりながら、彼はまっすぐに自室を目指す。


 都築さんは私を見ようとしない。怒りに歪んだ彼の顔を、私はさっきから一度も捉えられていなかった。

 いつだって私の目を見て話を聞いてくれた都築さんは、ここにはいない。底知れぬ渦に呑み込まれていくかのような恐怖だけがあった。


 鍵の開く音が、ガチャリと響く。

 玄関に押し込められた私の身体は、閉じたドアの内側にぐっと押しつけられ、すぐさま身動きが取れなくなる。


「もう逃げらんねえのは分かるな?」


 頭の横には都築さんの両腕、背後には閉まったドア。わずかな明かりもないそこでは、目の前にあるはずの彼の顔さえまったく見えなかった。

 見えないのは顔だけではない。怖い。都築さんが今なにを考えているのか、少しも見えない。


「なんで加瀬なの」

「っ、え?」

「よりによってなんであいつに頼ろうとしたんだって訊いてる」

「ち、違……」

「なにが? 答えろ、なんで俺より先にあいつに相談しようとした」


 冷たいものが頬を掠め、それが都築さんの指だと一瞬遅れて理解する。

 夜の空気に冷やされただけとは思いがたい、まるで氷のような温度だった。背筋も心も、まとめて氷漬けにされた気分になる。


「つ、都築さん、私は……」

「もしかして俺にはもう頼りたくなくなったとか、そういう話?」


 ……違う。違う違う、違う。

 長い指が、頬から首筋に向けてゆっくりと動く。そのまま首を締めつけられるのではと、今の彼ならそのくらい簡単にしてしまうのではと、突拍子もない思考が頭を埋め尽くしていく。


「駄目だ、真由。あいつは……俺以外は、駄目だ」


 言葉の最後に重ねるように、唇を塞がれた。強引に押し進めてくる深いキスに、全身がぴしりと強張る。私がどう思っていようが構わないとでも言いたげな、一方的で乱暴なキスだった。

 いつもはこんなふうになんて、しないのに。いつだって、慣れない私の緊張がほぐれていくのに合わせて、優しくしてくれていたのに。


 こんなのは、違う。


「ん、んん! やだ、都築さん、待って!」

「もう黙れよ」


 なにも見えない暗闇の中で、それでも確かに都築さんは苦々しく顔を歪めた。

 有無を言わさずまたも荒々しく唇を重ねられ、呼吸は簡単に上がっていく。気持ちが伴わないキスを繰り返す都築さんは、私の知っている都築さんとはもう完全に別人だった。


 こんなキスを繰り返して、なんになる。こんな悲しいだけの行為の果てに、あなたはなにを見出せるんだろう。

 もう涙さえ滲みそうになかった。ぱきんとなにかが欠ける音がした気がして、それを最後に、私はそれ以上なにかを考えることをやめた。



     *

    ***

     *



 電気は点けなかった。


 なにも見せる必要はない。嫉妬に歪んだ俺の顔も、なにかが欠落した内面も。

 なにも見る必要はない。恐怖に歪んだ相手の顔も、他ならぬ俺自身が今まさに刻みつけてしまっている新しい傷も。

 見せたくない。見たくない。だから、明かりなんて要らない。


 華奢な身体を抱え込み、靴を足から剥ぎ取る。靴はそのまま玄関に投げた。

 ベッドの上に身体ごと放り投げると、真由は少しだけ顔を歪めて、もしかしたら痛かったのかもしれなくて、それでも俺はなにも言わなかった。気を遣いさえしなかった。


 逃げようとなど考えられなくなるように、隙間なく圧しかかる。両手首をひとまとめに固定しながら、細っこいな、と場違いな思考が過ぎる。

 拘束と無理やりのキスを繰り返していると、真由の抵抗は弱まっていく。いつもなら顔を真っ赤にして、それでもおずおずと反応を示してくれるはずが、今日は違った。されるがままの口元を蹂躙しながら、勝手な俺は苛立ちを募らせて、ただ貪り続けて、徐々に白い首筋を目指して唇を移動させていく。


 そのとき、微かに真由の喉が震えた。

 それが今日、こうやって触れてから真由が初めて見せた反応だと気づいて、声をあげて笑いたくなった。


 ……なんでこんなこと、してるんだっけ。


 抵抗すればいいのに。嫌だと、やめろと、言えばいいのに。なじられて責められて、〝お前のせいで私はこんなにも傷ついている〟と冷たく突き放されたほうが、遥かに気楽なのに。

 そうでなければ、やめてやることもできない。自発的にやめてやれるほどのまともな精神は、もう俺の中には残っていない。


 内心とは裏腹に、噛みつくようにして首筋に吸いついた。血管が透けて見えるくらいに青白い肌が、真っ暗な部屋の中にあってもはっきりと目に焼きつく。

 もしかして息をしていないのではと、不意に物騒な考えが脳裏を過ぎる。あながち間違ってはいないのかもしれなかった。触れれば確かに脈打っている感触はあって、ときおり喉元が震えて、それらはこの子が呼吸を続けていることの証だ。


 でももしかしたら、この子の心は、もう。


「なんで抵抗しねえの。嫌なら嫌って言え、泣いて拒絶してみろ」


 そんな言葉ばかり吐き出す自分に嫌気が差した。

 自分で止められないから相手に止めさせる。そうやって、真由の傷をより深く抉る。

 ……それで? そんなふうにこの子を苦しめて、なにが残る。なにも残らないと、むしろ取り返しがつかないことになるのだと、頭では分かっていても口は勝手に動いてしまう。


「もう口も利きたくないか。そうだな、こんなことする奴と喋りたくなんかねえよな」

「……」

「俺よりもあいつのほうがいいか? 俺みたいな年上の男より、齢が近くて真由のことちゃんと分かってくれる奴がいるんなら、そりゃあそのほうがずっといいよな」


 真由はなにも言わない。自分も、こんなことが言いたいわけではない。この子の傷を深くして、自分の傷も深くして、そんなことしかできない言葉ばかり繰り返して、自分はなにをやっているんだろう。

 言葉尻が微かに震え、それを隠すふりをする。中身のない薄っぺらな言葉を、またも口端に上らせようとした、そのとき。


 不意に、冷たいものが頬を掠めた。


「……都築さん」


 それが真由の指だと、一拍置いてから気がついた。

 冷えきった彼女の指先は、俺の肌をすぐさま同じ温度にまで引き下げていく。茹で上がった頭も、すん、と音もなく冷やされ、震える息が小さく零れた。


「私は、構いません」


 低く、静かな声だった。

 なにを言われているのか、すぐには理解が及ばない。無駄に時間をかけてその言葉の意味を反芻しているうちに、真由はさらに続ける。


「都築さんのこと、好きだから。だから、痛くされてもひどいことされても、別に構わない」

「……真由」

「でも、どうしてそんな悲しいことばっかり言うの? 他の人がいいなんて、私、そんなこと一度だって思ったこと、ないのに」


 穏やかにさえ聞こえる真由の声が、麻痺した頭に突き刺さる。

 細い肩を押さえつけていた手が、動力の切れた機械のように、ぱたりと横に流れて落ちた。


「都築さんはいつも、私の話、聞いてくれる。つらいことも困ってることも、なんでも聞いてくれて、でも都築さんは私を頼ってくれたこと、ありますか?」

「……真由」

「都築さんがつらいとき、支えになりたい。私、まだまだ子供かもしれないけど、それでも私だって都築さんに頼ってほしいって思ってるのに」

「……真由、俺は」

「私じゃ駄目なんじゃないのかなって、いっつも不安だった。都築さんには、私みたいな子供じゃなくて、新崎さんみたいな大人の女の人のほうがずっと似合ってるんじゃないかって」


 ぞわりと背筋が粟立った。

 話の矛先がおかしい。どうして今、その女の名前が出てくる。


 日中の忌まわしい記憶が、ふと脳裏を掠めた。

 真由は誤解をしている。だが、その誤解をどう解いたらいいのか分からない。なにを言っても伝えきれない気がした。ついさっきまで、この子を相手に愚行を犯していた自分には、なおさら。


「都築さんのこと、好きなのに、言い返せなかった。新崎さんに言われて、違うって、私だって都築さんしかいないって、私、ちゃんと言わなきゃいけなかったのに……っ」


 大粒の涙が真由の目尻を滑り落ちていく。

 ……なんの話だ。さっきから意味が分からない。話が読めない。


 新崎さんに言われた――なにを?


「ご両親のことも、私みたいなのが相手じゃ打ち明けられなかったってことでしょう? 私、これじゃなんのために都築さんの隣にいるのか、私が嬉しいだけでなんの意味もな……」

「違う!」


 堪らず、震える肩を抱き寄せる。

 ……なんで君がそれを知っている。両親のことなんて、俺は今まで、一度も。


 おかしい。どこで拗れた。

 いつの間に、こんなに歯車が狂ってしまっていたんだ。


『私だって都築さんに頼ってほしいって思ってるのに』


 いつかは。そう思って逃げ続けてきた。

 そのことこそが、君を追い詰め、苦しめていたとでも。


 力なく腕を落とした真由は、すり抜けるようにして俺の拘束から外れた。

 絶対に離したくないと思ってきつく抱き寄せていたはずの身体は、信じられないくらい簡単に俺の腕を抜けて、そして後には俺のからっぽの心身だけが残る。


「あのままひどいことされても、別に良かった。でも、都築さんに気持ちを疑われるのだけは、私はどうしても耐えられません」


 暗闇に慣れてきた目が、静かに距離を狭めてくる真由の唇を捉えた。

 静かに寄せられたそれが、震える俺の口元に薄く触れる。柔らかな氷のような感触は、すぐに離れていってしまった。


「さよなら」


 小さな声が聞こえ、次いでもっと小さな足音が続いた。

 言葉の意味を頭が理解するよりも前に、真由は一度も俺を振り返ることなく、玄関の向こう側に消えていなくなってしまった。


 バタン、と扉が閉じた音を最後に、狭い部屋に今度こそ深い静寂が落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る