《5》触るな
考えてはいけない。
私はなにも見ていないし、聞いてもいない。ふたりの抱擁も、私の名前を呼ぶ声も。
なにも、知らない。
嵐のように吹き荒ぶ胸の内を抑え込めるなら、それだけで良かった。顔の表面に貼りつけた偽物の笑顔に、どうか誰も気づかずにいてほしかった。
心の奥深くに押し込めて、幾重にも鍵をかける。そうやって、自分の本音を二度と解放できないほどの力で締め出す。いっそそのまま永遠に葬ってしまえないものかと、不穏なことばかりがぐるぐると頭を巡る。
純白のウエディングドレスをまとって最愛の人に微笑みかける花嫁が、泣けてくるくらいに美しく見えた。
こんなにも荒んだ心を抱えた私が、祝福に包まれたこの場に居合わせること自体が不謹慎に思えて、ただただ息苦しかった。
*
その着信に気づいたのは、すべての業務が終了した後だった。
嫌な思い出がたくさん詰まったロッカールームには、できるだけ長居したくなかった。急いで着替えを済ませ、裏口を出てすぐ隣の駐輪場に向かう。
時刻を確認するために取り出した携帯電話が、着信を伝えるランプの点滅を繰り返していることに、私はそのときになって気づいた。
画面を確認し、眉根が寄る。着信は父からだった。
珍しい。実家からの連絡は、いつも家の電話か母の携帯電話からなのに。嫌な予感がじっとりと背筋を這う。それでもかけないわけにはいくまいと、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『おう、真由か。ごめんな、バイト中だったか?』
「今終わったよ。どうしたの、急に?」
聞きたくない。直感でそう思う。
これほどの混乱に頭を抱えている今、さらなる問題などとても受けつけていられない。そんな余裕はこれっぽっちもなかった。
どうか、なんでもありませんように。
誰に向けるでもない私の願いはしかし、続く父の声を耳にした瞬間、無残にも打ち砕かれた。
『あのな。今日、お母さんが倒れてな』
……今度こそ、もう立っていられないと思う。
返事をするよりも前に、私は崩れるようにして地面にうずくまった。
*
「海老原先輩?」
通話が切れた携帯電話を、なんの操作もできずに握り締めていた私は、突如かけられた声にゆっくりと顔を上げた。
「あ……」
「どうしたんですか、こんなところで? 具合が悪いんですか?」
加瀬くんだった。
うずくまる私に手を伸ばしてくる加瀬くんは、普段の落ち着いた姿からは想像できないくらいに動揺している。意外だと思って、そう思ったことがきっかけになって、グラグラと揺れる視界がわずかに落ち着きを取り戻す。
差し伸べられた手のひらには触れなかった。
いまだに震え続けている喉から、私はなんとか声を絞り出す。
「だ、大丈夫。ちょっと眩暈がしただけだから」
「立てますか?」
「うん。ちょっと経てば、多分大丈夫。お疲れ様」
手を振ることで、暗に〝もう行ってくれ〟と示した。
けれど加瀬くんは一向に立ち去ろうとしない。ためらうような素振りを見せた後、彼は苦々しげに口を開いた。
「午前中のことですか?」
「……え?」
「午前中、休憩のとき……その」
言い淀んだ加瀬くんは、困った顔をして見えた。
どうしてこの子がこんな顔をしているのかと、微妙に論点のズレた考えが過ぎって、ついおかしくなってしまう。
この手に縋りついてはいけない。私が頼るべき人は、たったひとりだ。ああ、けど、私はもうその人に頼ることはできないのではなかったか。
震える指を握り締める。一度誰かに頼ることを覚えてしまったばかりに、誰でもいいから自分をここから引き上げてほしいと、今の私はそれだけで埋め尽くされている。
誰でもいいから、聞いて。
私が抱える傷を、見て。
とうとう、涙腺が壊れた。
加瀬くんが息を呑んだらしき音が聞こえ、直後に手を握られる。
振り払う気力もなくされるがままの私は、ただ、その手が自分のものよりもあたたかいなとだけ思った。十月の夜、寒空の中でうずくまっていた私の手はすっかり冷えきっていたから。
溢れた涙は、黒い地面に吸い込まれて消えていく。嗚咽は零れなかった。この暗がりの中で、静かに泣き続ける私が果たして見えているのかいないのか、加瀬くんは意を決した様子で口を開いた。
「海老原先輩。先輩が抱えてるもののこと、僕に話してもらえませんか?」
踏み込んでこないでほしい。
この先は、都築さんにしか許したくない。でも。
でも、これ以上は無理だ。
助けてほしい――その誘惑に、私はもう、勝てない。
「……助けて。もう、私」
――無理。
声はひどく掠れ、自分のものとはまるで思えなかった。
壊れ物に触れるみたいに私の手の甲を擦っていた加瀬くんが、微かに指に力を込めた、そのときだった。
派手な音を立てて通用口の扉が開く。
蹴り飛ばされたかのような勢いで乱暴に開いたドアに気を取られ、続けようとしていた言葉はあっけなく掻き消えてしまう。
「……あ……」
ドアから出てきた人物は焦燥に駆られた様子で周囲をぐるりと見渡し、やがて私たちが座り込んでいる駐輪場に視線を定めた。
焦燥が、見る間に怒りに変わっていくさまを見て取った。
息を呑んだ加瀬くんは、どうしてか焦った顔を覗かせている。
違和感を覚えた。けれどそれを呑気に追いかけていられるほどの余裕も時間も、私にはなかった。触れていた加瀬くんの手が引き剥がされ、あ、と思わず声が零れる。
「触るなっ!!」
大きな手のひらが、腕ごと加瀬くんの身体を後方に振り投げた。
バランスを崩した加瀬くんの上体が、危うく地面に叩きつけられそうになって、渇ききった私の喉がひゅっと音を立てる。
……今の声は、誰の声だ。
違う。都築さんの声はそんなじゃない。都築さんは、激情に駆られるままに声を荒らげるような、そんな人じゃない。
地面に尻もちをついた加瀬くんは、突然の衝撃に思考がついていけていなそうな顔で、ただ呆然としていた。
その直後、腕に鈍い痛みが走った。掴まれた腕はギリギリと握り締められ、私は自分を捕らえている人物の顔をゆっくりと見上げて、そして。
「……帰るよ」
掠れた声の理由は怒りなのか、それとも。
聞こえた声は、これまでに聞いたことがある都築さんのどの声よりも低く、抑揚のないものだった。
「っ、都築、さん……」
怖い。こんな都築さんは、知らない。怒りの矛先が、加瀬くんに向けられているのか私に向けられているのか、それさえも分からなくなる。
頭の中で、高らかに警鐘が鳴り響く。徐々に音量を増していくそれを拭いきれないまま、私は引きずられるようにしてその場を後にした。
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