《4》もうひとつの敵意

 訊きたい。同時に、絶対に訊けないとも思う。

 訊けば、誰にそんなことを言われたのかと逆に尋ねられてしまうだろう。そうなれば、先日の携帯電話紛失の件や、新崎さんが都築さんに思いを寄せている件について、触れないわけにはいかなくなる。

 もしそうなったとき、私は新崎さんに対して抱え始めている負の感情を――濁流のように渦巻いているそれを、きちんと抑え込めるのか。


 ……無理だ。

 どうして大事な話をこれまで打ち明けてくれなかったのかと、都築さんを責めてしまうに違いなかった。


 人づてにその話を聞かされてどれほどつらかったか、きっと私は、なりふり構わず彼にぶつけてしまう。突然そんなことを言われれば動揺するだろうに、多分私は、戸惑う都築さんのことさえ思いやれなくなる。それは避けたかった。

 それに、新崎さんは都築さんの先輩だ。悪く言われたら、都築さんだっていい気はしないはずだ。


 本当は隠しごとなんかしたくない。

 自分を頼ってほしいと縋るように口にする都築さんのことを、こういう形で傷つけたくないと確かに思っていて、それでも。


 デート中は、終始うわの空になった。そんな私に都築さんが気づかなかったわけはなくて、けれど彼は特になにも言わなかった。何度か怪訝そうに視線を向けてきて、それだけだ。

 今こそ、この人の手に縋りたいのに。一度知ってしまった〝頼る〟ということの甘美な味わいは、それができないときの苦痛までをも私に知らしめ、追い詰めてくる。


 気づきたくなかった。知らないままでいたかった。

 泣きたくても泣けない、打ち明けたくても打ち明けられない――それが、こんなにも苦しいことだったなんて。



     *



 十月に入り、バイトの出勤日はますます増えてきていた。

 チャペルアテンダントの業務も、このところはただ見学するだけではなく、実際の動きの練習を着々と積み重ねている。


『もう大丈夫そうだね、来週にはデビューしてみようか』


 昨日、仁藤さんにそう言われた。

 仕事に集中している間は余計なことを考えずにいられる。それなら、自分のキャパシティを常に仕事で埋めていればいい。打ち込めることがあるという現状に、今の私は心から救われていた。


 休憩室で新崎さんと対峙した日から、一週間が過ぎた。あれから新崎さんとは一度も顔を合わせていない。

 バイトのシフトを組んでいるのは彼女だ。私のことなど視界に入れることすら不愉快とばかりに、自分とは異なるフロアの業務に私を振り分けているのかもしれない。そこまでしなくても、アテンダント業務が中心となった今の私とでは、顔を合わせる機会は激減している気もするが。


「海老原先輩、お疲れ様です」

「……加瀬くん」


 背後から声をかけられ、私はふと足を止めた。

 近頃、加瀬くんとよく会う。バイトを始めて一ヶ月ほどで、イレギュラーな業務を難なくこなしてしまった加瀬くんは、一度経験した仕事だからと同じ業務に優先的に回されるようになったという。


 チャペル挙式には、新郎新婦の友人や職場の同僚など、親族以外の人も数多く参列する。そういった人たち――特に未婚の女性に〝私もここで結婚式がしたい〟と思ってもらえるか否かは、式場にとって重要なことだという。

 それ自体が式場の宣伝になり、武器になるからだ。その辺のメカニズムは、以前仁藤さんから聞いた。

 つまり、挙式に携わるスタッフの責任は大きい。チャペル挙式を大々的に売りにしているセント・アンジェリエでは、特に。そんな中で、勤務歴一ヶ月程度でこういう仕事を任されている加瀬くんは、非常に優秀な人材なのかもしれなかった。


「チャペル関係の仕事に就くと、他のバイトと休憩時間がズレやすいですよね。僕、今日もひとりで休憩なんです。もしかして海老原先輩もですか?」

「うん。出勤してすぐ休憩ってキツいけど、仕方ないよね」

「はは、ですよね。ご一緒してもいいですか?」

「え? あ、うん……」


 ここ一週間、学校で加瀬くんを見かけたことはなかった。先週のバイトで気まずい思いをしたばかりだった分、私にとってはありがたかった。けれど今こうして顔を合わせ、もしや気まずさを引きずっているのは私だけなのではと思わされる。

 加瀬くんの表情は穏やかで、口調も朗らかだ。緊張している様子も気まずそうな感じも、特に見受けられない。普段通りの彼だ。


 ……気にしすぎかもしれない。

 ほっとした。緊張が徐々にほぐれていく。


 来週のアテンダントデビューに向け、仁藤さんたちの動きを確認できるチャンスは今日しかない。

 見落としている点や、説明までは受けていないもののできれば押さえたい気配りポイントなど、しっかりと目に焼きつけておきたかった。そんなときに、余計なことに気を取られたままではいたくない。


「先輩、先週はすみませんでした。僕、失礼なことを言ってしまったなって、あれからずっと思ってて……」

「え? ああ、いいのいいの。私こそごめんね、あんな言い方しちゃって」

「いいえ。それによく考えたら、自分の彼女が他の男と連絡先を交換してたら、そりゃあ嫌だよなって。どうかしてました、僕」


 顔を俯けた加瀬くんは、心から反省しているように見えた。その姿を見ていたら、なんだか私のほうこそ申し訳なくなってくる。

 悪い子ではないと思う。自分の考えをきちんと持っていて、しっかりしていて、むしろとてもいい子ではないかと。

 先週、加瀬くんに対して感じた不穏な予感は、単なる気のせいだったのかもしれない。そんなことを考えながら、休憩室のドアノブに手をかけた。


 ――開けるべきではなかった、なんて、そのときの私に理解が及ぶわけもなかった。


 ガチャリ。

 ドアが開く音に合わせて視線を正面に戻した瞬間、私は目を見開いて固まった。


「……え?」


 掠れた呟きは、おそらくふたり分のものだった。

 ひとつは、ドアノブに手を置いたまま、真正面に覗いたふたりの人物を凝視するしかできなかった私のもの。もうひとつは、私の視線の先で、ある女性に抱きつかれた状態で呆然と私を見つめる彼のもの。


 頭が真っ白になって、後には血の気が引いていく感覚だけが残る。


「どうしたんですか、海老原せんぱ……」


 背後から聞こえた加瀬くんの声が、耳鳴りと交ざってただの雑音になる。

 次いで息を呑むような音が聞こえ、加瀬くんも状況を理解したのだろうと思って、けれどすぐ傍にあるはずの彼の気配は異様に遠かった。


「っ、すみませ……」


 なんとかそれだけを喉から絞り出し、来たばかりの廊下を駆け戻る。

 振り返りざまに視界に映り込んだのは、勝ち誇ったように口角を上げた、都築さんに抱きつく新崎さんの笑顔。


 声はもう、出せそうになかった。


「海老原先輩っ!」


 加瀬くんの声が耳に刺さる。

 ……違う。私が聞きたいのは加瀬くんの声ではなくて、でも今は、都築さんの声さえ耳に入れたくはなかった。


「真由っ!!」


 悲鳴じみた声が聞こえ、堪らず両手で耳を塞ぐ。

 聞きたくない。今はまだ。

 だから、追いかけてなんて、こないで。


 痛むほど高鳴る心臓の音も、背後から迫り来る焦燥まみれの気配も、階段を駆け下りる自分の足音で無理やり掻き消した。



     *

    ***

     *



「待って、都築く……っ!」


 まとわりつく女の手を払い落とす。

 真由が立ち尽くしていた場所の隣で、きつく俺を睨みつけている男がいることにも気づいたが、それも無視して階段を駆け下りていく。


 なんでだ。なんでこうなってしまうんだ。


 滑るように階段を下りた先に、真由の姿はすでになかった。

 全身を焦がすほどの激しい苛立ちは、今なおその温度を上げ続け、呼吸がうまく続かない。


「……くそッ……」


 息が震え、堪らず壁に拳を当てる。

 一方的な呼び出しなど、やはり最初から断るべきだった。おとなしく向かったほうが面倒ごとを回避できるかもしれないなんて、どうしてそんなふうに思ってしまったのか。


 ぐらりと視界が傾き、揺れているのは周囲ではなく自分の頭だと思い至る。

 最低限の照明に照らされるだけの階段は、日中だというのに薄暗い。最後の一段を擦るみたいに下り、そのまま壁に寄りかかった、そのときだった。


「……あの」


 不意に背後から声がかかり、振り返る。

 不機嫌を隠す気にもなれず、睨むようにして目を向けたその先には、ついさっき真由の隣に佇んでいた男の姿があった。


 男の視線はまるで針だ。いわれてみれば、休憩室にいた時点で俺をギロリと睨みつけていた。今もなお、その視線に宿る非難は色濃い。

 男は残りの階段をゆっくりと下り進み、静かに俺の隣に並んだ。


「都築さん、ですよね。僕は加瀬と言います。海老原先輩の大学の後輩です」

「……あ?」

「お伺いしますが、海老原先輩の彼氏さんってあなたですよね」


 反射的に額を押さえた。

 誰に訊いた。どいつもこいつも、どうして俺たちに干渉したがる。


「どういうつもりなんですか? 海老原先輩、泣きそうな顔してましたよ」


 ……黙れ。

 他人のテリトリーに土足でズカズカ上がり込んだ挙句、気に入らないからと一方的に睨みつけて――目障りにもほどがある。忙しいと言っているのに無理やり休憩室に呼び出したあの女も、敵意剥き出しで食ってかかってくるこのガキも。


 頼むから、今すぐ俺の目の前から消えてくれ。


 言葉にならない叫びは、結局喉を通り過ぎることなく全身を焼く苛立ちと同化し、音にならずに終わる。それすらこの男に見抜かれている気にさせられ、この上なく癪だった。


「ねぇ都築さん。あなたがもし海老原先輩を傷つけることしかできないんなら」


 ――彼女のこと、僕がもらっちゃってもいいですよね?


 男の口角は、満足げに上がって見えた。あの女と同じ顔だなと思い、ようやく合点が行く。

 加瀬……とか言ったか、男が口元を歪めながら吐いた言葉の意味が、少しずつ頭に入ってくる。


 知らない間に真由を取り巻いていた悪意の正体が、初めて垣間見えた気がした。

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