《3》剥き出しの敵意

 乱れた心を抱えたまま、なんとか午後の業務を乗りきった。

 休憩中に仁藤さんから聞いた話も、もちろん私を戸惑わせていた。けれどそれよりも私の焦燥と不安を掻き立ててやまなかったのは、業務時間中、久慈マネージャーと顔を合わせられなかったことのほうだ。


 早く報告したい。信用できる第三者に、私が抱える現状を伝えなければ。

 そればかりを考えながら、落ち着かないひと晩を過ごした。


 ……そして、翌日。

 今日の出勤時刻は午前八時三十分。その十五分前よりもさらに早く職場に着くよう、自宅を出た。久慈さんに昨日の件を報告するためだ。

 新崎さんに話を聞かれるわけにはいかなかった。紛失した携帯電話が本当はどこにあったのか、彼女には昨日、嘘の報告をしている。


 誰かが私のロッカーの鍵を故意に開け、バッグの中から携帯電話だけを取り出し、あそこに放置したのだ。私が業務中に通過する、もしくは立ち寄る可能性が高い、チャペルのすぐ近くに。

 誰がなんのためにそんなことをしたのかは分からない。ただ、ひと晩考えて辿り着いた結論は、そこに新崎さん本人が関与している可能性が高いということだ。新崎さんが関わっていないと思うには、彼女の反応はあまりに不自然だった。


 しかし、久慈さんはなかなか捕まらなかった。

 朝の時間は、久慈さんが昨日の出張について支配人に報告を行っていたため。その後は、私がすぐチャペルに向かわなければならなかったため。そして午後からは、久慈さん自身が各パーティー会場を行き来しながら業務にあたっていたためだ。

 結局、業務がすべて終わった今の時間まで、久慈さんとは顔を合わせられなかった。


 ……しかも、今のこの状況。久慈さんの席の隣には新崎さんがいて、どうにも声をかけにくかった。久慈さんだけを他の場所に呼び出すにしても、それでは新崎さんに怪しまれてしまう。

 昨日の件を久慈さんに報告していると、彼女はすぐに勘づくだろう。そして自分が信用されていないと、あるいは疑われているのだと思い至るに違いなかった。


 躊躇が残る。それでも、報告しないわけにはいかない。

 意を決して久慈さんの席に足を踏み出した、そのときだった。


「海老原さん」


 喉まで出かかった声を、ぐっと呑み込んだ。

 痛むほど高鳴る心臓を抱え、私は声の主にゆっくりと焦点を合わせる。


「ごめん、ちょっといいかな? 今日の最後の披露宴……裏方をお願いしたときね。そのときのこと、少し訊きたくて」


 視線の先には、射抜くような目で私を見つめる新崎さんがいた。

 穏やかな表情に見えるが、目が笑っていない。まるで蛇だ。狙った獲物を凍りつかせるほどに鋭い視線を向けられ、私は知らず息を呑む。


「……なんですか?」

「うーん、ここじゃちょっと。もう上がりなのに悪いんだけど、少しいい?」


 にっこりと微笑んだ新崎さんの表情は、昨日の午後、携帯電話が見つかったことを報告したときに浮かべていた能面じみた笑顔と完全に同じだった。

 言いようのない恐怖に沈みそうになる胸の内を、なんとか強引に浮上させる。


「……分かりました」


 怖い。そう思う気持ちを、振り払うことさえもうできない。

 数歩先を行く新崎さんに、半ば引きずられる形で、私は最低限まで照明が落とされた従業員用通路を歩いた。



     *



 向かった先は休憩室だった。

 昼に同じ場所で仁藤さんと過ごしたばかりなのに、それが何日も前のことみたいに感じられる。

 先に口を開いたのは、新崎さんだった。


「ふふ、駄目じゃない海老原さん。あなたさっき久慈さんに報告しようとしてたでしょ?」

「……新崎さん」

「ね、昨日さ。携帯、バッグに入ってたって言ってたよね? あれって本当?」


 休憩室内は、不気味ささえ漂うほどに薄暗い。

 照明を点けてしまっては、今ここに私たちがいることが明白になるからだろうか。新崎さんは一ヶ所だけ蛍光灯の電源を入れ、私に向き直る。


「違うよね? 加瀬くん、教えてくれたよ? チャペルのオープンスペースの裏に海老原さんの携帯が落ちてたって」

「……それは」

「ねぇ、なんで嘘ついたの? 自分が仕事中に携帯電話を持ってたの、知られたくなかったから?」

「っ、違います! 私は……」

「じゃあなんで? あ、もしかして私じゃ信用ならなかったとか?」


 徐々に顔を歪ませていく新崎さんが、心底怖かった。

 立ち尽くしたきり、身体が震えそうになるのを堪えるだけで精一杯だ。


「ふふ。でもね、今ここに来てもらったのって、そんな話をするためじゃないのよ」

「……え?」

「ねぇ海老原さん、都築くんと付き合ってるって本当?」


 目を見開いた。

 なぜ知っている、私は誰にも喋ってなんていないのに。仁藤さんも知っていた。そして今、この人も。


「あ、いいのよぉ嘘つかなくて。都築くんから直接聞いたのよ、こないだ電話したときにね」


 ――電話。


 思い当たるできごとが脳裏に蘇り、くらりと眩暈がした。


 以前、デートの帰りに都築さんの部屋にお邪魔したときのことだ。

 突如鳴り出した携帯の呼び出し音、画面を見て微かに眉根を寄せた都築さんの横顔、そのときに感じた正体不明の不安、申し訳なさそうに謝りながら廊下で通話に応じた彼。ぐらぐらと揺れる頭は、思い出したくないことを次から次へと連鎖的に引っ張り出してきてしまう。

 相手が誰かを訊けずに黙りこくった私を一瞥し、それが誰かを教えてくれた都築さんの、ためらいがちな声がぐるぐると脳裏を駆け巡る。


「よりによって大学生に手を出すなんて、都築くんらしくなくてビックリしちゃったんだよね。ねぇ海老原さん、あなた都築くんの事情ってどこまで聞いてるの?」

「……事情?」


 話が脈絡のない方向に切り替わり、思わず眉根を寄せる。

 それでも、この人がなにをしたいのか、答えは少しずつ輪郭を見せ始めていた。言いようのない恐怖を覚えた私は、指先をぎゅっと手のひらに閉じ込めて震えをごまかす。


「うん。例えば家族のこととか、実家のこととか。もしかしてなにも聞かされてないのかな?」


 都築さんの事情……家族、実家。

 彼からは一度も聞いていない。いつだったかそういう話になったときに濁されて、深く追及することが憚られてしまって、それきりだった。


「まぁ学生さんだしね。そういう打ち明け話はされてなくても仕方ないね」

「……新崎さん」


 もう明白だ。

 なんの脈絡もなくこんな話を始めた新崎さんの動機は、たったひとつ。


 私を傷つけるため、それだけだ。


 剥き出しの牙の照準を私に定め、新崎さんは嬉しそうだ。

 そして、緩んだ口元はそのままに、ついに彼女は切り札を切った。


「都築くん、ご両親を亡くしてるのよ。そんな大事なことも聞かされてないなんて、もしかして海老原さん、信用されてないんじゃない?」


 全身の血液が、足元に落ちていく感覚があった。

 それがダラダラと地面に流れ出ていくような錯覚に溺れ、私は立ち尽くしたきり、激しい眩暈に襲われる。


 これは悪意だ。私を、都築さんから引き剥がすための。

 彼を責めるべきではない。私を頼るどころか、そんな大切な話さえ打ち明けてくれなかったのかと、そんなふうに思ってはならない。


 声は出せそうになかった。

 拳を握り締め、ただひたすら、震えが全身に転移していくことを防ごうと足掻く。


「もうはっきり言わせてもらうね? 海老原さん、都築くんを私にくれない? いいじゃない、あなたは若くて綺麗なんだから。これからいくらでも出会いなんて転がってるのよ、でも私は違う。私には都築くんしかいないの!」


 やめて。

 それ以上、私を攻撃しないで。傷つけようとしないで。


 凍りついたかのごとく固まった喉は、まともな呼吸を繰り返せていない。いつかロッカールームから聞こえてきた、かつての同僚たちの陰口とは違う。彼女たちは、面と向かって私にそれを投げつけてきたわけではなかった。でも、今は。

 これほどまっすぐに突き刺さってくる刃を、どうやってかわせばいい。分からない。結局、黙って心臓が貫かれるところを耐えるしかない。それしかできない。


 もう、この場には留まっていられなかった。


「っ、失礼します……!」


 後ろの扉に手を伸ばす。見もせず掴んだドアノブをひねり、私は廊下に飛び出した。

 逃げなければ。この人から。この人の悪意から。でなければ殺されてしまう。都築さんを信じたいと思う心が突き崩されて、あっという間に呼吸を止めてしまう。


 滑り落ちるように階段を駆け下りながら、私はそれだけを恐れていた。



     *



 ロッカールームに辿り着くや否や、溜息が零れた。


 職場でここまできつい経験をしたのは、あの日以来だった。同じこの場所で、偶然、私の陰口を叩く女の子たちの声を聞いてしまったあの日以来。

 とっくにバイトを辞めた彼女たちを思い出すことは、今ではほとんどなかった。それに、考えようによっては、彼女たちがいたからこそ都築さんとの接点が生まれたとも言える。


 ……都築さん。

 脳裏に浮かんだ恋人の顔は、しかしすぐに掻き消えた。


 今回のことは、都築さんには相談できそうにない。頭にこびりつくように残る新崎さんの声を前に、私には一切の逃げ場がなかった。

 どうしてだろう。バイトを始めて一年強、いつだって新崎さんは私に優しくしてくれていた。それなのに、どうしてこんな。


 私を傷つけるためにわざと選ばれた言葉。

 新崎さんが、私を標的にする理由。


『都築くん、ご両親を亡くしてるのよ』

『信用されてないんじゃない?』


 燻っていた不安が、見る間に火の粉を噴き上げる。

 都築さんは自分の話をしない。私には聞かせない。でも、新崎さんは知っていた。私には教えてくれなかった癖に、新崎さんには伝えていた。


 身を屈め、その場にしゃがみ込む。もたれかかったロッカーのひんやりとした感触に、早鐘を打つ心臓が少しだけ落ち着きを取り戻す。

 どうすればいい。こんな痛みを引きずりながら、都築さんのことは頼れない。話の内容が内容だけに、彼の姉である郁さんにも、今回は頼るべきではないと思う。


「……なんで……?」


 無意識に零れた疑問符が、誰に当てたものなのかも判然としない。

 新崎さんに対するものか、それとも、大事な話を打ち明けてくれなかった都築さんに対するものなのか。もう、分からない。


 早く帰らなければと思う。

 明日は月曜だ。都築さんと会う約束をしている。けれど、こんな話を聞かされた直後に、一体どんな顔をして彼に会えばいい。


『私には都築くんしかいないの』


 ……知らないよ。

 私にだって都築さんしかいないのに、勝手なことを言わないで。


 自分だけが正しいと、他はすべて間違いだと、どうしてそこまで胸を張って言えるのかが分からない。

 自分が正しければ、間違っている相手を傷つけてもいいのか。いいわけがない。その時点で、私には彼女の言動のなにもかもが理解できなかった。でも。


『荷物がなくなった?』

『彼氏さんの拘束、きつすぎません?』

『新崎さんには気をつけてね』


 頭を駆け巡るのは、どれもがこの二日間――そんな短い期間のうちに投げかけられた言葉ばかりだ。

 なにが本当で、なにが嘘なのか。それぞれが異なる人物から向けられた言葉のうち、私はどれを信じるべきで、どれを切り捨てるべきなのか。情報ばかりが溢れて、鈍りきった今の私の頭では、とてもついていけそうになかった。


 待って。少し考えさせて。きちんと考えられるだけの時間を、ください。

 誰にともなく向けた願いは、たったひとり取り残されたロッカールームの不気味な静けさに溶け、消えてしまった。

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