第5章 波乱と、毒と

《1》這う不穏

 異変に気づいたのは、休憩時間のことだった。

 午前十一時から三十分間取ることになった休憩のため、荷物を取りにロッカールームに戻ったときのこと。ロッカーの鍵を開け、お昼用に持ってきていたゼリー飲料を取り出そうとして、引っ張り出したバッグの中にあるはずのそれがないことに気がついた。


 ……携帯電話がない。

 自宅に忘れてきたのだろうか。いや、アパートを出てすぐ、忘れたと思って慌てて部屋に戻った記憶がある。ロッカーの鍵は、今まさにかかっていたところを開けた。


「……え……」


 呆然とした声が、思わず口をつく。

 休憩時間はすでに三分ほど経過してしまっている。とはいっても、これは自分の食事時間がなくなることを気に懸けている場合ではないのでは。早めに社員に報告しなければならない類のことなのではないか。

 誰かが故意にロッカーを開けているのかもしれない。窃盗――そんなことをする人間が社内にいるとは思いたくないが、もし他のバイト仲間も同じような被害に遭っているとしたら。


 いけない。きちんと報告しなければ。


 今日は披露宴の数が少なく、久慈マネージャーは他の式場へ応援に向かっている。となれば、まずは新崎さんに相談すべきか。新崎さんは三階のパントリーにいたはずだ。

 携帯電話がなくなったこと自体にも、もちろん不安を煽られた。けれどそれよりも、鍵のかかった状態のロッカーから物がなくなったという状況こそが恐ろしかった。


 ロッカールームを飛び出した私は、三階までの業務用階段を駆け上がった。


「……荷物がなくなった?」

「はい。バッグの中に入れてたんですけど、バッグはちゃんとあって、携帯電話だけがなくなってて」


 三階。目当ての人物は、やはり先ほどと同じ場所にいた。ほっとしつつ、私は焦った気持ちのままで話を切り出した。

 話を聞きながら、新崎さんは険しい顔をして指を口元に運んだ。そして私から視線をついと逸らし、なにか考えるような素振りを見せた後、再び口を開いた。


「ちゃんとロッカーに入れてた? 鍵はかけてたの?」

「え? あ、はい。それはいつもちゃんとやってるので」

「ふーん、そっかぁ。持ち歩いててどこかに忘れちゃったって可能性は? 海老原さん、最近チャペルにもよく顔出してるでしょ?」

「……いえ。勤務中に携帯は持ち歩いてません」


 矢継ぎ早に続く質問に、違和感を覚えた。

 一度も私の目を見ずに放たれる問いかけの数々。鍵のかかったロッカーから物が紛失したという報告に対するものとは思いがたい、妙に軽い口調。言葉尻に滲む、あなたの管理が悪かっただけではと言わんばかりの態度。そのどれもに、得体の知れない不安が募っていく。


『チャペルにもよく顔出してるでしょ?』


 ……それは仕事だからだ。まるで遊びに行っているみたいな言い方をされる筋合いはない。

 言葉の内容にも刺々しさを感じたけれど、そういう負の感情は、新崎さんの声音にも滲み出ている気がした。


 どうして。知らない間に、新崎さんが不快に思うことをしてしまったのだろうか、私は。

 思い当たる節はなかった。今月に入り、新崎さんと一緒に仕事をする時間は大幅に減った。アテンダント業務が終わってから裏方業務に就くことはあったものの、それだって必ずしも新崎さんと顔を合わせるわけではない。


「うーん、分かった。じゃあ総務には報告しておくね……本当に鍵のかけ忘れじゃないんだよね?」

「……はい」


 なんだろう、この感じ。私が疑われているのではないかという気さえする。

 なんとも冷ややかな新崎さんの態度を前に、言い表しようのない不信感が、徐々に心を侵食し始めていた。



     *



「お疲れ様です、海老原先輩」

「……あ、加瀬かせくん」


 不意に声をかけられたのは、新崎さんへの報告を終えた直後。腑に落ちない彼女の対応に、なんとなく不快感を抱えながら休憩室に向かっているときのことだった。

 休憩室の扉の前、温厚そうな笑顔を浮かべてそこに立っていたのは、今月から新しくアルバイトとして入ってきた加瀬はるくんだった。


 加瀬くんは、同じ大学に通う二年生。担当の先生のもとで研究を開始する、いわゆる各ゼミへの所属が始まるのは三年次からだが、それにもかかわらず頻繁にうちの研究室に姿を見せる真面目な学生だ。

 私が所属するゼミの先生をよく訪ねてくるため、私自身も何度か研究室内で挨拶を交わしたことがあった。

 ……まさか、この子と同じ職場で働くことになるとは。初めて彼が出勤してきたとき、そう思ったことを覚えている。意外と言ったら失礼かもしれないが、こういった華やかな場所での接客アルバイトを選ぶような子には、加瀬くんはとても見えなかったのだ。


「どうかしたんですか? 顔色が悪いみたいですけど」

「あ……ううん、なんでもないよ。昨日遅くまで研究室に残ってたから疲れてるのかも。加瀬くんは大丈夫? ここのバイトって結構ハードでしょう、もう慣れた?」

「僕は大丈夫です、結構楽しんでやれてますし。……休憩、終わりですね。先輩はこれからチャペルですか?」

「そっか、三十分休憩だもんね。うん、これからチャペルに行って着替えるよ」

「なら一緒に行きませんか? 僕、今日はチャペルの待合室係なんです」


 加瀬くんが最後に口にした話題に、少々面食らってしまった。

 チャペルの参列者用控え室は、チャペルへ向かう通路の途中に併設されているオープンスペースだ。開式までの待ち時間を、参列者が気楽に過ごせるよう用意されている。私たちはそのスペースのことを、分かりやすく〝チャペルの待合室〟と呼ぶことが多かった。


 基本的には女性、主にパート従業員を中心に配置されるため、今日は加瀬くんがそこの担当だと聞いて驚いてしまった。

 もしかしたら、今日はお休みのパートさんが多いのかもしれない。そう思いつつも、バイトを初めてまだ一ヶ月も経っていない加瀬くんが、そのようなイレギュラーな業務を任されていることに純粋な尊敬を覚えた。

 勤め始めて最初の一ヶ月、ホール内での料飲サービスのことだけで手一杯だった私は、その時期に特別な仕事を任されたことなど一切ない。


「そうなんだ。そうだね、もう時間だし行こっか」

「はい」


 微笑んだ加瀬くんと一緒に、私は従業員用の階段を下り、一階に向かったのだった。



     *



「……あれ?」

「どうしたの?」

「これ……なんだろ、誰のかな」


 訝しげな声をあげた加瀬くんに視線を向ける。

 オープンスペースの裏、グラスやコーヒーカップが煩雑に並んだ場所の端で、加瀬くんが腰を屈めて座り込んでいた。


「なに? なにか落ちてた?」

「はい。携帯電話ですね」


 困惑気味な加瀬くんの声が耳に届いた瞬間、弾かれたように彼を向き直る。

 ちょっと見せて、とそれを差し出してもらう。彼の手のひらに乗った携帯電話を目にして、私は思わず息を呑んだ。


「……なんで……?」


 なんでこんなところに。

 黒色の、飾り気の欠片もない携帯電話。もう何年も前の型であるそれは、紛失した私の携帯電話と同じ機種のものだった。


「え、これ海老原先輩のですか?」

「……うん。ごめんね、ちょっと貸して」


 ひったくるみたいにしてそれを受け取り、中のデータを確認する。

 これほど古い型の携帯を今も使い続けている人間が自分以外にいるとは思えなかったけれど、急いでプロフィール画面を開く。そこに表示された自分の電話番号を目にして、それが本当に自分のものなのだと確信した。


「どうしてこんな場所に?」


 加瀬くんの声がして、はっと我に返る。

 余計な疑念を抱かせたくなくて、嘘の言い訳が咄嗟に口をつく。


「あ、昨日、チャペルの仕事が終わってからちょっとここに寄ったの。そのときに落としちゃったのかもしれない」


 取ってつけたような苦しい言い訳だなと、自分でも思った。

 微かに眉根を寄せた加瀬くんは、しかし、すぐにいつもの温厚な笑顔に戻った。


「そうなんですか、見つかって良かったですね……あ、そうだ。海老原先輩、あの、後で僕と連絡先を交換してもらえませんか?」

「……え?」

「学校でよく面倒を見てもらってますし、バイトでもお世話になってるので。相談したいこともあるし……って思ったんですけど、もしかしてマズいですか?」


 ……特に不自然な点は見受けられない。

 確か加瀬くんには、このバイト先に私以外の知り合いがいない。学校の先輩であり、バイトでも頻繁に顔を合わせる私の連絡先を、この子が知りたいと思ってもなんら不自然ではなかった。


 それなのに、なぜか私の心を瞬時に占拠していくのは、燻るような不審感だけだ。


「……あ、ごめん。その、彼氏に相談してからじゃないと」


 嘘だ。都築さんにその手の干渉をされたことは、これまでに一度もなかった。

 都築さんは、私の交友関係に基本的に口を挟まない。社会人と大学生では生活の基盤や環境が全然違うから、そんなことは気にしないでほしい。いつかそう告げられたことをはっきりと覚えている。


 それでも、都築さんのことを利用してでも、この誘いを断りたかった。

 どうしてと問われても答えられない。直感でそう思っただけだ。


「そうなんですか。海老原先輩、彼氏さんがいらっしゃるんですね」

「……うん」


 曖昧に言葉尻を濁す。これ以上この話を続けていたくないと思った途端、絶好の言い訳が脳裏を過ぎった。

 ああ、私、そろそろ着替えに行かないと――そう言って立ち去ろうとした、そのときだった。


「連絡先の交換も駄目だなんて、彼氏さんの拘束、きつすぎません?」


 背後から聞こえた加瀬くんの言葉は、自分でついた嘘に揺れる私の心を叩きのめすに十分なものだった。

 違う。都築さんはそんな人じゃない。すぐにもそう言い返したかったものの、他ならぬ私がそう受け取られても仕方ないようなことを口にしたのだ。弁解すれば、さっきの話自体が嘘だったとバレてしまう。


「っ、ごめん。じゃあまたね」


 喉が震えて仕方がなかったけれど、なんとかそれだけは口にした。

 そして加瀬くんを振り返ることなく、私は逃げるみたいにその場を後にした。



     *



「あら、見つかったの?」

「……はい。お騒がせして申し訳ありませんでした」


 午前のチャペルアテンダント業務が一段落した、その後。

 深々と頭を下げた私に、新崎さんはやはり一度も視線を向けなかった。違和感などという言葉では済まされない。これはもう、悪意に等しい。


「まだ総務には伝えてなかったから良かったけど、ちゃんと確認してから報告してね。で、結局どこにあったの?」

「……バッグの底のほうに入ってました。すみません、私の確認不足でした」


 責めるように向いてきた視線が痛い。睨まれているのだと思う。

 だが、本当のことは伝えなかった。この人にありのままを報告するのはやめたほうがいい気がしたからだ。この件に関しては、久慈マネージャーに直接報告しなければならない。


 私の勘違いでないなら、これは嫌がらせだ。

 それならば、なおさら直属の上司に報告すべきだ。


「そっかぁ。見つかって良かったね」

「はい。本当に申し訳ありませんでした」

「いいのよ、気にしないで。海老原さんは……あ、午後もチャペルだね、頑張ってね」


 ようやく、新崎さんが私に笑いかけた。

 その笑顔が、顔全体にべっとりと貼りつけた能面によく似て見えて、少し怖くなった。

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