《4》鎖と溝
『……あ、陽介?』
「おう、久しぶり。なに?」
『ううん、元気にしてるかと思って。真由ちゃんとはどう? うまくいってんの?』
「……んー。まぁぼちぼち」
『なによその言い方……ってアンタまさか! ちょっとアンタ、真由ちゃん泣かせたら殺すからね!』
「まさかってなんだよ、そこ伏せるほうがよっぽど怖ぇよ。泣かせてませんから安心して……っつうか用件それだけ? なんかあんじゃねえの?」
普段通りのやり取りの中、電話の向こうの郁の声がわずかに陰りを帯びた。
なんとなく既視感を覚えた。そのまま、壁にかかったカレンダーにゆっくりと視線を移していく。
ああ、そういうことか。
『来週、命日でしょ』
「……そうね」
『お墓参り、行こうかなって思ってて。アンタも一緒にどうかなって。去年も仕事が忙しいとかなんとか理由つけて行ってないでしょ、アンタ』
「いや、俺は今年もパス。俺の分もよろしく頼むわ」
『……そ。じゃあ後で花代、請求するからよろしく』
「えー、お前金持ってんだからそのくらい……ってそういう問題じゃねえな、了解」
『はいはい。じゃ、またね』
勢いが削がれた姉の声は、なんだか別人じみていた。
カレンダーを見つめ、ぼんやりと記憶を巡らせる。去年も、その日のことをすっかり忘れていた俺に、郁は同じような声で電話をかけてきた。
――丸三年、か。
特段、感慨に耽る気はない。
自分がいかに薄情な人間なのかを思い知らされるのは、こういうときだ。
父親が急病で他界したのは、三年前の十月。大学を卒業して今の会社に入社して、一年半ほどが経過した頃だった。
親孝行も碌にしてやれないまま、父はあっという間にいなくなった。当時から実家を離れて生活していたからか、いまだに実感が薄い。地元に戻れば昔暮らしていた家がまだあって、ひとり暮らしの父が〝おかえり〟と言いながら玄関からひょっこり出てきそうな、そんな気がしてしまう。もう父はいないし、家だって残ってはいないのに。
実家は、葬儀後に処分した。
郁は結婚して実家を離れていたし、特別親しくしていた親戚もいない。遺族は俺と郁のふたりだけだ。俺たちだけで決断しても、文句を言う人間は誰もいなかった。
余計な感傷に浸って、誰も住まない家を残していても仕方がない。そう思った時点で薄情なのだと、自分でも思う。
郁は俺とは違い、ためらうような素振りを見せた。だが結局、最後には姉なりに納得した様子で俺の意見を聞き入れた。
母親は、五歳のときに、事故で。父親は、二十三歳のときに、急病で。
大して珍しいことではないと思うのは、俺だけか。不幸だと嘆くほどの話ではないと思ってしまうのは、俺の内面が薄っぺらだからなんだろうか。
ふたり同時に亡くしたり、在学中のうちに同じ状況になっていたのなら、話はまた違っていたのかもしれない。だが、父が亡くなったときには俺はもう独り立ちしていたし、郁だって曲がりなりにも結婚して家庭を持っていた。だから、自分たちが特に不幸だとはやはり感じない。
誰かに訊かれれば普通に話せる。傷ついたり不快に思ったりすることもなく、淡々と。むしろ聞かされた相手のほうこそ動揺するだろうと考えて、わざと濁すことが多い。
真由に対しても同じだ。彼女は今、病に伏した父親と、父親を支える母親を、実際に目の当たりにしている。そんなときに俺の両親が他界しているなどという話は、いくらなんでも切り出しにくすぎる。
縁起でもない想像を、いたずらに促しかねない。真由は繊細だ。そういう事態は十分にあり得た。
いつかきちんと明かそう。
別に今でなくてもいい。なにもわざわざ、大変な今の時期に余計な話を聞かせる必要はない。
そうやって安易に考えてさえしまわなければ……なんて。
この時点での俺には、そんなこと、分かるはずもなかった。
*
『都築さんって、ひとり暮らしなんですか?』
付き合い始めてまだ間もない頃だったと思う。おずおずとそう質問してきた真由の顔は、少々緊張気味だった。
相手の事情をほとんど知らずに付き合い始めた俺たちは、しばらく互いにその手のやり取りを繰り返していた気がする。
真由は、自分の身の上について、たくさん話して聞かせてくれた。頼ってほしいと願った俺の言葉を、きっとあの子は、俺が思う以上に大切に捉えてくれている。
学校のこと、家族のこと、バイトのこと、友達のこと、将来の夢のこと。それまでは知らなかった一面を知ることは楽しく、また嬉しくもあった。話してくれた内容のうちいくつかは、親しくしている友人にも話していないのだろうと思えば、ちょっとした優越感に浸ることもできた。
それでも、俺にはどうしても逆のことができなかった。
自分のことを真由に打ち明ける。それがこの上なく難しいことのように思えてしまって、どうにも身動きが取れなかった。
真由が持ち寄ってくれたものばかり受け取って、自分からはなにも渡さない。それではフェアではない。
だから言い訳をした。真由の負担になることを話して、余計な心配をかけたくないから。今はまだそんなことをしたくないから。そうやって、自分の選択は正しいのだと自分に言い聞かせて、それをひたすら繰り返し続けた。
自分が、なにを不安に思っていたのか。今ならその理由が分かる。
俺は、もし真由にありのままの自分を受け入れてもらえなかったらと、怖がっていただけだ。
両親の不在も、仕事や生活に対して抱いているどこか乾いた感情も、薄っぺらな内面も、顔に貼りつけた仮面じみた笑顔の内側も、自分からは頑なに明かさなかった。
俺がどんな人間か詳細を話して、もしそのせいで真由が俺に失望してしまったら――それがこの上なく恐ろしかった。
月日が経つにつれ、真由はときおり寂しそうに目を伏せるようになった。それは大概、俺が自分の話をやんわりと濁したときだ。
頼ってほしいと何度も真由に伝えながら、自分は一切頼ろうとしない。俺の言動が、他人の感情や思惑に敏感な真由をどれほど困惑させているのか。そんなことくらい、少し考えれば分かるはずだったのに。
年上だから。年下だから。社会人だから。学生だから。
どれもが、人を見るときの判断を鈍らせるつまらない鎖でしかない。確かにそう思っているのに、他の誰よりもその鎖に縛られているのは俺自身だ。
付き合い始めた当初から、歪みはすでにじわじわと進行していた。そしてそれは徐々に範囲を広げ、ついに修正が困難なレベルの巨大な溝を生み出してしまった。
俺がそれに気づいたのは、想定外の横槍に、真由が手ひどく傷つけられた後のこと。
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