《3》能面じみた

『もう別れよう?』

『陽介ってさ、私のこと特に大事には思ってないでしょ。仕事仕事ってそればっかりなんだもん』


 就職二年目、ようやく仕事にも慣れ、諸々に余裕が出始めてきた頃だった。

 唐突に別れ話を切り出された。相手は縋りついてくるでも涙を流すでもなく、ただ疲れた顔をして、淡々と別れの言葉を口にした。


 あれ以来、誰とも付き合ってこなかった。


 どうせすぐ駄目になる。傷つけるか、疲れ果てさせてしまうか。どちらかだ。

 最初からそうなると分かっていて、わざわざそんな思いを相手に味わわせてやることもない。曲がりなりにも好き好んで付き合っているのに、悪戯に相手を苦しめるのは俺だって本意ではない。


 当然、こっちにも言い分はある。

 仕方がないだろ、本当に仕事が忙しいんだから。最初からそうだと伝えてあって、それでもいいと言うから付き合う決心をしたのに。できる範囲内で必死に時間を作って、まともに取ることも困難な休憩時間には合間を縫ってメッセージを送って、それであんたはなにが不満だったっていうんだ。


 それとも無職の男のほうが良かったか。あれ買って、これ買って、その手のわがままも碌に聞いてやれなくなる男のほうが良かったわけか。……違うだろ。そうなったらなったで、声を荒らげて非難したんだろ。

 なにが正解だったの。あんたにとって、俺はどうするのが正しかったの。そこまで疲れきった顔を晒すくらいなら、どうしてもっと早く本音を教えてくれなかった。こじれにこじれて修正が利かなくなった最後の最後になってから、やっと口を開いた理由はなんなんだ。


 俺のこと、傷つけたかったんだろ? 自分のことを傷つけた俺にも、似たような痛みを味わわせてやりたかったんだろ?

 そういうのが嫌なんだ。どのみち仕事は続けていかなければならない。なら、最初から仕事にだけのめり込んでいるほうが遥かに気楽だ。


 ここ三年ほど、その考えはまったく変わらなかった。

 大学時代の友人から紹介されて知り合った子に、担当した披露宴のゲスト客に、あとはたまたま地元で再会した昔の同級生。無駄に出会いは多い。それでも俺は、知り合ったどの子とも、一定の距離を保つことにしていた。


 立ち入りすぎず、立ち入らせすぎず。そうしていれば、大抵の子は脈なしだと判断し、離れていく。

 それでいい。わざわざ傷つきに来るな。こんな碌でもない男、無理に選ぼうとしなくていいんだ。

 顔の表面にべっとりと貼りつけただけの薄っぺらの笑顔に、ヘラヘラ笑ってごまかし続ける能面みたいな本性。それを暴こうとする人間なんか、俺は望んでいない。


 ……望んでなんて、いなかったのに。


 全部、覆されていく。

 六つも齢の離れたその子は、おそらくはほとんど無自覚のまま、俺が何年もかけて積み上げてきた壁をいとも簡単にぶち壊してしまう。


『都築さんは、私が知ってる誰よりもいちばん格好いいです』

『私がほしかったもの、都築さんが全部、くれたから』


 ……違う。

 俺はそんな大層な人間じゃない。それなのに、どうしてそうやって俺に笑いかけてしまうんだ。


 壊れた壁の隙間は脆く、君の侵入はもう防げそうにない。

 そして、一度壊れた壁は修復不可能だ。つまらない壁などこれ以上積み上げたくない、本当の俺はそう思っている。他の誰よりも強く。


 君は、仕事の愚痴や不満をほとんど口にしない。

 職場の人間、招待客、親、学校の友人――誰に対しても、この人が嫌だとか苦手だとか、そういうことは一切喋らない。学費やら生活費やら、他人より遥かに大変な目に遭っているはずなのに、その手の愚痴も滅多に零さない。


 そのことに、純粋な尊敬を抱く。


 年下だとか学生だとか、そんなことは関係ない。自分に与えられた仕事にも、降りかかった災難にも、なにに対しても正面からまっすぐに向き合って受け入れて、君はいつだって前に進もうとしている。

 それを実行に移せる人間が、これほど広い世の中にあっても、果たしてどれくらいいるのか。そう思えば、学生だからとかまだ若いからとか、その手の理由は取るに足らないものに成り下がる。


 だから、怖い。


 そんな人の隣を歩くには、自分は到底ふさわしくないのではと思う。頼むから置いていかないでほしい。俺のつまらない本性を知っても、どうか受け入れ続けてほしい。

 付き合い始めて二ヶ月が経つというのに、焦燥は小さくなるどころか逆だ。むしろ以前よりもずっと、もはや危険なまでに肥大化してしまっている。



     *

    ***

     *



 仕事中、人目につかない場所に腕を引かれ、強引に唇を奪われた。

 いつも交わしているキスとは、なにかが違う気がした。多分その理由は、暗がりの中で微かに揺れた都築さんの目に、普段とは異なる気配を見出してしまったからだ。


 そんなことをされるなんて、夢にも思っていなかった。それでもあれ以上は拒めなかった。私を抱き寄せる都築さんの腕が、小刻みに震えていたから。

 見ている私のほうこそ心細くなってくるような抱擁を前に、なにかあったのだろうかと急に心配になった。私の部屋に駆けつけてくれたあの日に垣間見えた繊細な内面が、再び覗いた気がしていた。


 頼ってほしい、打ち明けてほしい。都築さんはいつだって、そう口にしては私が抱える不安や悩みを優しく引き出してくれる。けれど、都築さんは教えてくれない。私には頼ってほしいと言う癖に、自分は私を頼ろうとしない。

 いくつも年下の私に、頼りたいとは思えないのかな。分からないではない。だとしても、都築さんがつらいときには、私も傍で支えたいと思う。


 それを許されていない気分にさせられて、悲しくなる。


 ねえ、都築さん。

 都築さんは今、なにを抱えているの。そんなにも心細そうな顔をして私にキスした理由を、どうして私には教えてくれないの。


 どうしても尋ねられない不安の根源は、結局、質量を増していく。

 都築さんが頑なに私に見せようとしない内面と混ざり合って、どんどん重くなっていくだけ。


 ただ、それだけ。

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