《2》火傷しそうな

 長かった夏休みも、終盤だ。


 バイトは、九月の第一週から順調に出勤要請が入っていた。新人も何人か入ってきて、逆に何人かは辞めていった。結果的にプラマイゼロといったところか。

 ……いや、新人には一から仕事を覚えてもらわなければならないから、しばらくは私たちに負担が回ってくる。いわれてみれば、去年の今頃も、夏休みを境に職場環境が変化していた気がする。


 それはさておき、この九月から、私は新しい業務に就くことになった。

 チャペル挙式のアテンダント係だ。バンケットマネージャーの久慈くじさんに、秋からこの仕事のサブ業務に就いてもらいたいと頼まれていたのだ。


 セント・アンジェリエでは、チャペル挙式が人気だ。独立型の大聖堂は、年齢を問わず多くのカップルに支持されている。わざわざ隣県から見学に訪れたり、挙式予約をしたりする人も少なくないという。

 以前本屋に立ち寄ったとき、平積みされた結婚情報誌を手に取ったことがあった。自分が勤める式場の名前を目次で探し、そのページをめくり、見開きに掲載されていた写真を見て驚いた。セント・アンジェリエのチャペルの写真が、見開きの片側ページまるまる一枚のスペースいっぱいに載っていたからだ。

 この手の雑誌を参考にして、どこで挙式するかを決めるカップルは多いだろう。その記事を見れば、セント・アンジェリエがいかにチャペル挙式に力を入れているのか、私のようなバイトスタッフにもすぐに理解できた。


 久慈マネージャーの話では、初夏に行われた会議で、挙式のアテンダント業務にアルバイトを採用してはどうかという意見が出たのだそうだ。

 バイトスタッフは、挙式に関わる業務とは基本的に無縁だ。私が実際にチャペルの中に足を踏み入れたのも、新人研修のときくらいだった。


 セント・アンジェリエには専属の挙式アテンダントスタッフはおらず、ウエディングプランナーが当番制で行っている。

 新郎新婦、特に新婦に直接触れる機会が多いこの業務は、男性スタッフには不向きだ。そのため、必然的に女性に任されることになる。けれど、どのウエディングプランナーも自身の担当業務で手一杯。ただでさえ忙しい週末にアテンダント業務を行わなければならない現状は、彼女たちにとって相当な負担なのだという。

 二名体制で行うアテンダント業務は、うち一名がサブポジション。今後はウエディングプランナーがメイン業務を、アルバイトがサブ業務を……という案が出ているとのことだった。

 まだ試験段階らしく、専任のアルバイトを採用する前に、ある程度バイト歴が長くなった私の名前が出たそうだ。もし私が問題なく業務をこなせるなら、そのまま私を専任にしても良いのでは、という話になっているみたいだ。


 七月末には、ウエディングプランナーの仁藤さんが簡単な研修をしてくれた。

 改めて足を踏み入れたチャペルは、なにも分からず案内されたバイト研修当時とは、まるで違って見えた。


 こつこつと、靴が床を鳴らす音が反響する屋内。見上げれば足が竦むほどに高い吹き抜けの天井。正面の祭壇までまっすぐ伸びる、大理石製のバージンロード。

 極めつけは、祭壇の後方に据えられた五枚のステンドグラスだ。荘厳な雰囲気を湛えるそれに比べると大きさこそ劣るものの、側面にも、ドーム型の天井を囲うようにして同じ趣向のステンドグラスがずらり並んでいる。


 ……こんなにすごい場所だったっけ、ここ。

 つい呆けたように立ち尽くしてしまったことを、はっきりと覚えている。


 式の進行やアテンダントの動きについて、仁藤さんは丁寧に教えてくれた。チャペルの名称は、式場名と同じ『セント・アンジェリエ』。聖なる天使が舞い降りる教会、という意味だそうで、そんなことも知らずにこれまで仕事にあたってきたのかと思うと恥ずかしくなる。

 チャペル挙式は、通常であれば三十分前後で終了するとのことだった。ごく稀に変更したいというカップルもいるそうだが、基本的には進行内容がコロコロ変わることはなく、イレギュラーなケースはあくまでも少数だという。


『そういう意味では、披露宴のサービス業務より楽かもしれないね』

『難しく考えることないからね、私たち社員も必ずひとりつくから』


 緊張が顔に出てしまっていたのか、仁藤さんはにこやかにフォローの言葉を挟みながら説明してくれた。

 入社二年目の仁藤さんは、他のプランナーに比べて担当数が若干少ないらしい。歴の浅い彼女への配慮なのだろうが、時間に余裕が出る反面、アテンダント業務が多めに回ってくるそうだ。

 結局のところ、楽をしているスタッフなどひとりもいない。誰もが仕事に忙殺されている状態なのだと容易に想像がついた。


 今後の予定としては、九月から実際の挙式とアテンダント業務を見学し、少しずつ動きの練習を重ねていく。そして、十月上旬をめどに本番デビューを目指すとのことだった。


『しばらくは私と組むことが多くなると思うから、よろしくね』


 新しい仕事に対する不安が半分、期待が半分。

 笑顔で手を差し伸べてきた仁藤さんと握手しつつ、私もつい、釣られて笑ってしまった。



     *



 九月以降は、料飲サービスの業務から外されることが多くなった。

 十月の本番デビューに向け、チャペルアテンダントの業務見学や練習を行う機会が増えたためだ。


 アテンダントの制服は、通常のバイト用のものとは大きく異なる。動きやすさに特化したベストと膝丈タイトスカート、臙脂色のタイ――この一年ですっかり着慣れた制服とは打って変わって、アテンダントの制服は清楚な雰囲気のあるワンピースだ。全体的にゆったりとしたシルエットの、紺色のロングワンピース。長袖のそれを、季節を問わず身に着けるという。

 首元には、同じく紺色のリボンタイが結ばれる。白の細いボーダーが数本入ったタイは、リボンの形に整えると一層上品さが滲む。後は布製の白手袋を嵌めて、チャペルアテンダントの支度は完成だ。


 実際に執り行われる挙式を、後方の目立たない場所で見学し、アテンダントの動きを目に焼きつけるという日々がしばらく続いた。

 挙式シーズンも相まって、多いときには五件以上の挙式が連続で執り行われる日もあった。その都度、椅子の乱れを直したり、バージンロードに散ったフラワーシャワーを片づけたりしながら、このときはこうやって動く、ここで花嫁に手袋を渡す、など、小さなメモ帳にぎっしりとポイントを書き込んでいく。

 今日も、合計六件のチャペル挙式に立ち会った。通常よりもややタイトに組まれた挙式開始時間に間に合わせられるよう、片づけや準備を手伝いつつ、私はすべての挙式を見守り続けたのだった。


 時刻は、すでに午後四時を回っている。

 ステンドグラスを通して入り込んでくる陽射しも、徐々に弱まり始めていた。


 最後の挙式は、予定の時間をわずかにオーバーして終了した。サブについていたプランナーさんが、「ごめん、私もう戻らないと」と、少々慌てた様子でチャペルを後にしていく。

 メインについていた仁藤さんも、腕時計を確認して「ヤバい」と呟き、ためらうような顔を見せた。私に向き直った仁藤さんは、申し訳なさそうに胸の前で両手を合わせた。


「ごめんね海老原さん、私もこれからすぐ打ち合わせが入ってて。今日はもう挙式ないし、ゆっくりでいいから、後片づけ任せちゃっても大丈夫?」

「はい、大丈夫です。終わったら今日はサービスに戻りますね。最後の披露宴、裏の手伝いに入ってたみたいなので」

「あ、そうなんだ? 超大変だね海老原さん、エラすぎだし! ちょっと休んでから現場に戻ってね?」

「ありがとうございます。仁藤さんも打ち合わせ、頑張ってください」

「ありがとー! ごめん、じゃあ後はよろしくね!」


 笑顔を浮かべる仁藤さんは、とても可愛らしい。

 着替えもあるから、とすさまじいスピードで裏の階段を駆け上っていく姿が、普段のガーリーな印象から懸け離れていて、そのギャップがまた可愛い。結局、どんな姿でも仁藤さんは可愛い。ひとりで納得してしまう。


 走り去る仁藤さんの姿が見えなくなった頃、ひとりきりになったチャペルを見渡した。


 ついさっきまで重厚なパイプオルガンの音が鳴り響き、新郎新婦の退場の際には色とりどりのフラワーシャワーが宙を舞い、参列客の歓声で溢れていたこの場所。

 同じ場所とは思えないくらいにしんと静まり返った中に、今は私だけ、たったひとりだ。ふと現実から切り離されてしまったみたいな気分になる。


 弱まった陽射しが、外側から緩くステンドグラスを貫いて、柔らかな光を生み出している。大理石のバージンロードの上に、反射したステンドグラスの色が揺れる。息を呑むほどの美しさに、思わず見惚れてしまう。

 ……いや、ぼんやりしている場合ではない。今日の仕事をすべてやり終えた気分になっていたものの、まだまだ仕事は山積みだ。これからこの場所を片づけ、いつもの制服に着替え直し、その後は地味にハードな裏方業務が私を待っている。


 まずは照明を下げようと、照明操作台に向かう。

 最小限の明かりがあれば十分だ。先日教えてもらったばかりの操作方法を反芻し、並んだキーに指を伸ばそうとした、そのときだった。


「お疲れさま、海老原さん」


 突如背後から声がかかり、びくっと震えてしまう。

 弾かれたように振り返った先には、にっこりと微笑んだ都築さんが、ひらひらと手を振りながら立っていた。


「仁藤さんに頼まれたんだ。俺、後は六時前に短い打ち合わせが入ってるだけだから、ここの片づけの手伝い、立候補してきちゃった」

「あ……ありがとう、ございます」

「ちょっと暗くない? 照明もっと上げたら?」

「あ、いえ。後は片づけしかないし、いいかなって思って」

「そう?」


 それぞれの声が、周囲の壁に反響して無駄によく響く。

 ……今日会えるとは思っていなかった。思わぬ事態を前にして、動揺と一緒に嬉しさが芽生えて、いけない、と思う。


 今は仕事中だ。浮わついた気分になってどうする、まだ仕事も残っているのに。甘く溶けかけた気持ちを無理やり正し、床に散らばるフラワーシャワーを集めなければと思考を切り替える。

 裏からほうきを持ってきたところで、都築さんが口を開いた。


「仕事、今日はもう終わり?」

「いえ。着替えたら五階に戻って裏方に入ります」

「うわーハードだなぁ、休憩はちゃんと取った?」

「はい。むしろそういうのは、サービスに入ってるときより楽ですよ。都築さんは、今日は担当は?」

「午前中に終わったよ。今日は一件だけ」


 持ってきたほうきでふたり床を掃きながら、なにげない会話を交わす。

 会えないと思っていた分、気をつけていないとすぐにも浮かれてしまいそうで、そういう自分を諌めたいのかどうかも曖昧になって、得体の知れない不安がふっと頭を過ぎる。

 すっかり参っている自覚はあった。けれど、仕事とプライベートを混同するのは避けたい。バイトだから、なんて理由にならない。私自身がそんな自分は嫌なのだ。それなのに。


 ひとりで続けていたらまだ半分も済んでいなかっただろう後片づけは、あっという間に終わってしまった。


「ありがとうございました。助かりました」


 ぺこりと頭を下げると、にっこりと微笑まれた。

 付き合い始めてから、何度も見てきた笑顔だ。目が合うだけでドキドキしてしまう。仕事中だから、なおさらそうなるのかもしれない。


 これ以上目を合わせていたら、また顔色がおかしなことになりそうだ。まだ仕事が残っているのに、それは困る。ついと視線を外し、手にしたほうきを元の場所に戻そうと裏に向かいかけた、そのときだった。

 不意に手を握られ、全身がびくりと震えた。


「……都築さん?」

「一緒に戻しに行こう。これ、裏のだよね」

「っ、は、はい……」


 耳元で囁かれ、返事の声が掠れた。カラカラに張りついた喉を、ぴりりとした痛みが微かに走る。

 引かれた手が熱い。裏まで続く回廊を歩く間、都築さんは手の力を少しも緩めなかった。歩くスピードを速めた彼に置いていかれそうで、私も慌てて歩幅を広げる。


 妙に長く感じられた回廊の先、裏の通路に続く扉を開けた都築さんは、私の手を引いたままその先に進んだ。扉が閉じるさまを見届けるや否や、彼は私の身体をくるりと回して扉側に押しつけた。


 頭が真っ白になる。混乱が過ぎて、逆に目を逸らせなくなってしまう。

 さっきよりも暗い場所だというのに、はっきりそうと分かるほど、都築さんの視線はひどい熱を宿して私を射抜いていた。


「ごめんね。その格好の真由、可愛くて、自制利かなくなった」


 長い指が首元のリボンをするんとなぞり、直接首筋を撫でられているかのような錯覚に襲われる。

 耳に触れるくらい唇を寄せられて囁かれ、手にしていたほうきの柄がするりと手から離れた。ガタンと鈍い音を立てたそれに、けれど都築さんはわずかにも関心を示さなかった。


「……っ、あの、仕事中に、こういうことは」

「分かってる。でも」


 ――もうちょっとだけ。


 掠れた声が、私を陥落させようと牙を剥く。

 火傷しそうなほどの視線に射抜かれてしまったら最後、言い訳なんてできなくなる。なにも考えたくなくなる。


「……ん……っ」


 親指の腹でそっと撫でられた私の唇は、彼のそれに簡単に塞がれてしまった。



     *

    ***

     *



 嵐かという勢いで事務所に戻ってきた仁藤と、バチッと目が合った。

 ニヤニヤと視線を向けられ、なんか用かよと思いつつすぐに目を逸らしたが、すでに遅かった。


「あーあ、海老原さん、今チャペルでお掃除中なんですよねー。誰か手伝ってくれる人、いないかなぁ。私はこれから打ち合わせ入っちゃってるからなぁー……あれ、都築さんってもしかしてお暇ですかー?」


 ……なんなんだ、こいつは。

 別に隠すつもりはないが、公衆の面前でそういう話はやめてほしい。そもそもなにを勘づいているのかと思う。私知ってるんだから、と言わんばかりの得意げな顔が余計に俺の不安を煽る。


「はいはい、残念な子を見る目で見ないでくださーい。早く行かないと海老原さんの仕事、終わっちゃいますよ!」

「……なんで俺なの」

「私は爽やかイケメンと美女の組み合わせが見たいだけです! ほらほら、早く行ってくださいよ!」

「知らねえよ、なんだよその理由!? つうかこれから打ち合わせ入ってんだろ、どのみちお前は見れねえだろうが!」

「本当にそればかりが悔やまれますよね~、っていうかちゃんと〝自分から率先して手伝いに来た〟って言ってくださいよ? くれぐれも〝押しつけられて嫌々来ました〟みたいな顔はしないでくださいね、あっちょっと都築さん聞いてますー!?」


 話は途中で打ち切った。

 いくらなんでも不毛が過ぎると思ったからだ。


 向かった先、抑えられた照明の中で、ぼんやりと正面のステンドグラスを眺めている真由を見つけた。

 バージンロードに反射したステンドグラスの色が、脳裏にくっきりと焼きついて離れなくなる。見慣れたはずの光景を前に、なぜか全身が強張った。それは、郁のマンションで変身を遂げた真由を初めて目にしたときとよく似た感覚だった。


 ……そこだけ切り抜かれた写真のようだった。

 夢、憧れ、その手の気持ちを一度も抱いたことがない、単なる仕事場の一角。その程度の認識しかない場所なのに、そこに彼女が佇んでいるというだけで、こうも色を変えてしまうものなのか。


 おかしい。仕事中だ、真由も俺も。

 それなのに、手に負えないほど肥大化したこんな感情を抱いて、俺は一体どこに向かえばいい。


 平静を装って片づけを手伝い、けれどそれは信じられないくらい簡単に終わってしまった。手にしたほうきを片づけるために、真由は俺に背を向けて、その瞬間に謎の焦燥が全身を焼いた。

 このまま置いていかれるのでは。わけの分からない不安に駆られ、気づけば真由の手を引いていた。隠れるように扉の奥に滑り込み、華奢な身体を抱き寄せて、そして。


『仕事中に、こういうことは』


 分かってる、でも駄目なんだ。触れたい。君が俺のものだという実感が、今すぐにほしい。

 自分の中に、ここまで強引で傲慢な感情が育っていたことを、このとき初めて自覚した。あっけなく箍を外して暴走する心は、すでに自分でコントロールできる範疇を超えてしまっている。


 こんなのはおかしいと、分かっている。


 さっきの場所でこうしなかったのは、チャペル内部の数ヶ所に防犯用カメラが設置されていることを思い出せていたからだ。

 だが、きっと逆効果だった。カメラから――人目から遠ざけるみたいにして真由を連れ込んだそこは、ついさっきまで厳粛な挙式が執り行われていた教会のすぐ裏だ。まるで神様の目から隠すようにして逃げ込んだ場所で真由を抱き寄せた途端、眩暈がするほどの背徳感が心地好く全身を覆い尽くしてしまった。


 こんなところにカミサマなんかいやしねえよ。

 そんなことぐらい、はなから分かっていて、それなのに。


 不謹慎にもほどがある自分の言動を、果たして真由は受け入れてくれるのか。こんな人だったなんてと失望させるだけではないのか。他のなにより、それが恐ろしくてならなかった。

 有無を言わせず塞いだ唇は、微かに震えていた。俺のせいだと分かっていながら、それでもやめることはできなかった。

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