第4章 平穏と、綻びと
《1》新たな溜息
少しずつ変わっていくこと。少しも変わらないこと。それらは互いに絡み合いながら、私を新しい場所に連れていく。
以前の私と今の私も、混ぜ込まれて新しい私になる。新しい私もまた別の私と混ぜ合わされて、もっと他の私になっていく。その感覚が、前ほど嫌いではなくなった。
飲み会から逃げ出した次の日、彩香から電話が入った。
『あんなふうに傷つけちゃうなんて思ってなかった。真由、最近本当に可愛くなったから、勝手に自慢したくなってたみたい』
塞ぎ込んだ声で、彩香はそう口にした。私のほうこそ申し訳なくなってしまい、気にしないでほしいと伝えた。
どちらかといえば、あの場に残された彩香のほうが、逃げた私よりもずっと針の筵だったのではと思う。それを尋ねると、彩香は電話の向こうで苦笑いしていた。
『それだって、私が真由に嘘なんかつかなかったら起こらなかったことだもん。ホントにごめん、これからも仲良くしてね』
そう聞いて、ほっとした。
彩香は素直だ。私はあの子のそういう性格が好きだし、また羨ましくも思ってきた。
彩香は、一年生の頃から親しくしてきた女の子だ。
私と同じく会計士になるという目標を持って大学に入学してきた彩香とは、入学後の説明会でたまたま席が隣になったことがきっかけで親しくなった。二年次に選択したコースも一緒、今年度から選択しているゼミも一緒だ。
都築さんから郁さんのマンションに誘われた前日、チェストの奥から引っ張り出したワンピース――虫に食われてとても着られない状態になってしまっていたあれも、昨年、彩香がくれたものだった。
明るく社交的な彩香に、人付き合いがあまり得意でない私は、これまでに何度助けられたか分からない。だからこそ、飲み会の誘いが嘘だと知ったときに傷ついた。
つらい思いをしたのは事実でも、これからも彩香とは友達でいたい。私だってそう思っていたから、彩香からの謝罪には救われた思いがした。
『もしかしてって思ってたんだけど、彼氏でもできたの?』
不意にそう問われ、しどろもどろになりつつもごまかした。
夏休み明けに詳しく話すと告げ、私は慌てて通話を終わらせたのだった。
*
八月は一度もバイトがなく、ほとんどを実家で過ごした。
その間も、月払いの学費は支払い続けなければならない。帰省しているだけだから、アパートの家賃だってかかる。とはいえ、どちらの出費も見越して六月までに稼いでおいたから、一ヶ月程度ならバイトの収入がなくてもなんとかなるはずだった。
冬に行われる公認会計士の資格試験に向け、そろそろ本腰を入れて勉強を始めたかった。
難易度の高い資格試験だ。私自身、就職後に仕事をしながら合格を目指せるほど器用なタイプではない。十分な勉強時間を確保して試験対策を講じられるのは、やはり在学中のみだろうと思ってしまう。
試験本番まで時間の余裕はあるが、まとまった休暇は今の夏休みくらいしかない。秋になればバイトもまた忙しくなるだろうし、できるだけ今のうちにという気持ちは強かった。
隣県にある実家は、住んでいるアパートから車で一時間半程度の場所にある。私は車を持っていないから、帰るとなるとその都度電車を使うことになる。実家がある町はかなりの田舎で、特急も通っていない。鈍行を乗り継いで帰るしか手段がなかった。
荷物が多いと、この電車旅はなかなかに骨が折れる。ただ、最寄りの駅から実家までは大して距離が開いておらず、多少大きめの荷物を抱えていても、駅に着いてさえしまえば後はそれほど苦ではなかった。
外見が変わった私を見て、両親は揃って驚いた顔をした。
二ヶ月前に退院した父に『彼氏でもできたのか』と茶化され、顔が赤くなった自覚はあった。否定はしなかったから、父も母も、そういうことだと解釈したのだと思う。
あれから、私は都築さんと正式にお付き合いをすることになった。
八月はバイトこそ休み続きの季節ではあるものの、都築さんを含めたウエディングプランナーさんたちは、次のブライダルシーズンに向けて忙しい日々を送っているそうだ。
それでも、都築さんはまめに時間を作っては電話をかけてくれたり、会いたいと言ってくれたりした。帰省している間も、何度か彼の休暇に合わせて向こうに戻って一緒に過ごした。
実家まで迎えに来てくれたり、帰りに送ってもらったりすることも増えた。
そんなことを繰り返しているうちに、知らないところでうちの母とすっかり仲良くなっていたのには驚いた。迎えの連絡が来ないなと思って、なんの気なしに茶の間に足を運び、そこで母と和やかにお茶をしている都築さんを見たときは、さすがに衝撃を受けた。
『仕事でも、本人たちより両家両親にウケが良かったりするんだよね』
車での移動中にそう言いながら笑っていたけれど、うちの母と短期間で打ち解けてしまったのも、その特殊能力ゆえなのか。なかなかに驚きだ。
大学に入ってから、基本的に学校とバイト先と自宅アパートの行き来しかしてこなかった私は、都築さんと付き合い始めて行動範囲がぐんと広がった。行ったことのなかった場所に足を運び、知らなかった景色を目にする、そんな機会も随分と増えた。
何年も住んでいる町なのに、初めて見る風景がたくさんあって、ただただ新鮮だった。この人と付き合っていなかったら、この景色を目にすることは一生なかったかもしれない……なんて、大袈裟なことまで考えてしまうこともある。
都築さんの地元は、この町から車で一時間ほど先にある町だと聞いた。高校時代には頻繁にこの辺りまで遊びに来てたから、と教えられ、だから地元の人しか知らないような場所を知っているのかと納得した。
あとは、中学時代は柔道部だったとか、大学は都心の私大に行っていたとか。なにげない話を重ねながら、知らなかった都築さんを知っていく。それは私にとって、この上なく楽しいことだった。
学費や生活費、両親のことなど、郁さんにいつか伝えたこと――胸の内に長く抱え込んでいたことは、彼にもすべて打ち明けた。少し驚いた顔をしていたけれど、お金の話に関しては、都築さんは意外そうな顔はしなかった。
『いつも出勤してて相当稼いでるはずなのに、自分のためにお金を使ってる感じがしないから、なんとなく予想はしてた』
話が終わった後、彼はそう口にした。
本当に随分前から気に懸けてくれていたのだと、改めて思う。
加えて、私の心境にもある変化があらわれた。以前よりも、自分の外見についてきちんと気を遣えるようになったことだ。
考えてみれば、郁さんにイメージチェンジをしてもらって以降、私が自ら取った行動といえばコンタクトレンズを作ったことだけだ。それでも周囲の反応は嘘みたいに変わって、そのせいで困惑したり傷ついたりもした。けれど、メイクにも服装にも特にお金をかけることはなかったなと、やっと思い至った。
それ以来、以前ならバイトのときにささっと施す程度だったメイクを、なるべく毎日するようになった。無理のない範囲でという制約はあるものの、手持ちの服も少しずつ数が増えてきている。
特に都築さんと会う日は、自分でも異常だと思うくらいに神経を遣った。私の隣を歩く都築さんが、万が一にも恥ずかしい思いをしてしまわないようにと、私なりに必死だ。普段より念入りにメイクをして、髪にもいろいろ手を加えて、服のコーティネートにも気を配って……当然、可愛いと思ってほしいという気持ちもあったけど。
意識的に外見に気をつけていく中で、理解できたことがあった。お金をかけなくても、できるおしゃれはたくさんあるということだ。
夏休みが始まってすぐの頃、郁さんと顔を合わせたときにも言われていたことなのに、実感したのはつい最近になってからだ。ブランド品でなくても、値が張る物でなくても、可愛い服や魅力的なアクセサリー、素敵な靴はたくさんある。
肌と髪の手軽なお手入れ方法も、いくつか郁さんに教えてもらった。
バイトのとき、束ねた長い髪をコンコルドクリップで無造作に留めるだけだったヘアスタイルも、ネットを使ってシニヨンを作るようにした。同じ場所で留めてばかりいると髪が傷むかも、と教えてもらったからだ。そのネットだって決して高価な物ではない。百円ショップで購入したものだ。
今までの余裕のなさが嘘みたいだ。
お金がない、時間がもったいない。そう考えては、自分が可愛くなれないのはそのせいだと言い訳を重ねてきた。自分の考え方がどれほど卑屈だったか、今なら身に沁みて分かる。
大切なのは自分の気持ちだ。可愛くなろう、可愛くありたい、そう思う気持ちなのだとようやく気づいた。
元を辿れば、そのすべてが都築さんとの出会いに繋がっている。そんな人と気持ちを通じ合わせられたこと自体が奇跡に等しいのではないかと、不安になってくることもある。
それでも、一気に色鮮やかに変化を遂げた日常を、私は今日も楽しみながら歩み続けている。
*
とはいえ、不安がひとつもないわけではなかった。
彼は大人で、私は子供。責任ある立場の社会人と、単なる学生。どうしたところで自分の力では解決できない類のことは、その最たるものだ。
夏休み中、実家から戻ってデートしたとき、彼の部屋にお邪魔してそういう雰囲気になったことがあった。男の人と付き合っている以上、いつかはそんな日が来ると分かっていたつもりだった。が、いくら頭で理解できていても、いざその場面に直面すれば緊張せずに済むわけはなかった。
終始強張りっぱなしの身体に、失神しそうな激しい痛み。多分、初めてだったからだ。けれど、涙を流して苦痛に耐える私を見て、都築さんは途中でそれをやめてしまった。つらい思いをさせてまですることじゃないから、と。
それ以来、彼は私にそういう触れ方をしなくなった。
抱き合うことはあるし、キスをすることもある。なのに、それ以上を求めてくることは一切なくなってしまった。
それはきっと、都築さんの優しさだ。私を気遣ってくれているからこその判断なのだときちんと理解できていて、それでもふと思い出してしまう。
首を掠めた熱っぽい吐息、浮かされたような視線、肌に伸びてくる指先、心の一番深い場所に焼きついたそれらの記憶が私をおかしくする。身も心も溶かされそうになるほどの抱擁を、どうかもう一度与えてほしいと思ってしまう。
最後までできなかったことに失望されたかもしれない。呆れられたかもしれない、結局は子供だと思われているのかもしれない。
そんな気持ちを払拭しきれず、かといって私から〝またしてほしい〟なんて言えるわけもなかった。身勝手だと分かっていても、傷ついた気分になる。
いつまで経っても、自分は子供のままなのでは。都築さんの隣を歩くにふさわしい女性になれる日など、永遠に来ないのでは。
そう思ってしまう自分を、嫌いになりそうだ。
*
***
*
もっと頼ってほしいという俺の頼みを、真由は従順に守ってくれた。
学費や生活費のこと、家族のこと。将来の夢のことも話して聞かせてくれた。郁にはすでに話してあるというそれらの事実に、俺は半分は納得し、半分は驚きを覚えた。
自分の学生時代を振り返り、穴があったら入りたい気分に陥った。学費は親任せ、生活費にはそれなりの仕送りをもらい、特に切り詰めたりバイトして生活をしのいだりといった記憶は皆無だ。
在学中に取得した資格は運転免許だけ、成績はほぼ〝可〟……寒々しい。数年越しの自己嫌悪に溺れ、眩暈がした。いくらなんでも過去の自分は怠惰が過ぎた。
ここ最近、真由は以前よりも服装やメイクに気を配っている。
いちいち可愛い。会うたび目のやり場に困る。ただでさえ可愛らしい顔立ちをしているのに、そうやっておしゃれ心に目覚められてしまっては、心配すぎて夜もおちおち寝ていられない。
例の飲み会で、嘘をついて真由を誘ったという友人から謝罪の電話があった、と聞いたときにも似た気持ちになった。
『大切な友達だから、仲直りできて良かった』
嬉しそうに笑う真由に、良かったな、と言った。だが、あのとき俺が感じていたのは灼けつくような焦燥だけだ。
その友人がどんな人間なのか、俺は詳細を知ることができない。だからひねくれた考え方になる。また騙されるのでは、傷つけられるのではと、つい警戒してしまう。
束縛したいわけではない。むしろそんな真似はしたくない。その癖、なりふり構わず縛りつけてしまえばいいと思っている自分も確かにいて、自己嫌悪は強まっていく一方だ。
頑張り屋で優秀な真由とこんな自分は、あまりに不釣り合いなのでは。頭を掻き回す焦りに気づかないふりを続けて、かれこれ二ヶ月が経過しようとしている。
付き合って一ヶ月が経った頃、初めて身体を重ねたときに犯した失態も、その気持ちに拍車をかけてくる。ぼろぼろ泣く真由を見て、これ以上は自分のほうが耐えられないと思った。だから途中でやめた。
初めてだろうと予想はしていた。キスだけで顔を赤くして息を上げる真由が、それ以上の経験を済ませているとは到底思えなかった。
それなのに、余裕は一瞬で消え失せた。服の隙間から覗いた白い肌を見ただけで、あっけなく理性は壊れた。ケダモノのようにがっついた自分を、できることならあの日に戻って蹴り飛ばしてやりたいと思う。
あれ以来、そういうつもりで真由に触れることはなくなった。また泣かせてしまうかもしれないと思うと怖かった。それに、どれほど頑強に自分を戒めていても、再び同じ状況になったときに今度は理性を保てるのかと問われれば、自信なんかこれっぽっちもない。
それならいっそ抱かなくていい。また失敗してつらい思いをさせたりしたりというのは、もうたくさんだった。一緒に過ごせるだけで、十分に幸せだ。そうやって自分の本心をごまかして日々を送り続けている。無論、今日も。
九月に入って、再度ブライダルシーズンが到来した。
秋の暮れまで続くそれに、またも互いに忙しない日々を送ることになるのだろう。現場も慌ただしくなってきていて、真由も毎週出勤しては忙しく仕事に励んでいるみたいだ。
『バイトで疲れるから、三年になってからは月曜に授業、入れてなくて』
教えてくれた彼女に合わせる形で、月曜に休暇を取ることが増えた。少しでも傍にいたいからだ。真由のためではなく、自分のために。
自分があの子の隣に立つにふさわしい人間だと、どうしても思えない。自信がないから不安になる。真由の姿が視界から外れると、それだけで足が震えそうになる。いても立ってもいられなくなる。
これではどちらが大人か分からない。
意思とは裏腹に、臓腑の底から絞り出したような重い溜息が零れた。
*
暑さのせいか、こびりつくような気怠さが全身を包んでいる。
帰宅後、食事を取る気にもなれずにぼんやり天井を眺めていた、そのときだった。
不意に携帯電話が震え、ちらりとテーブルを見やる。画面に表示された名前を見て、ますます気が滅入っていく。
……このところ、あからさまに連絡が増えている。はっきり言って迷惑だ。着信履歴に残っている名前は、すでに真由よりもこの人のほうが多い。
先日は、真由と会っているときにかかってきた。ごめん、と謝りながら電話に出た俺を、真由は見るからに困惑した顔で見つめていた。
誤解を招く行動は避けたい。だが、職場の人間を相手に無下な対応を取るのは、さすがにためらわれてしまう。
時刻は午後十時を過ぎている。
うんざりしつつも、携帯の通話ボタンをぽちりと押した。
「……お疲れ様です。どうしたんスか、新崎さん?」
電話越しに、職場の先輩は浮かれた声で喋り始めた。
適当に相槌を入れながら、さっさとこの電話が終わってくれればいいと思った瞬間、どっと疲れが噴き出した。
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