《6》ほしかったもの
友人も滅多に招いたことがない自室に男の人がいるということが、いまだに信じられなかった。しかも相手は、ここ一年密かに憧れ続けてきた人だ。気を抜くとすぐに挙動不審に陥りそうになる。
大学に入学した当初から住んでいるアパートは、ワンルームタイプの、いかにも学生のひとり暮らし用という感じの部屋だ。
室内にはローテーブルとベッド、それから部屋の奥側に配置した勉強机くらいしかない。机の上にはノートパソコンが一台置かれているだけで、テレビも設置されていない室内は、改めて見ると我ながら殺風景なものに映った。女子大生の部屋らしい要素などひとつも見当たらない。
こんな部屋を見せられて、都築さんはがっかりしているかもしれない。
焦燥に駆られたものの、当の本人を眺めてみると、まったく動じた様子がなかった。さっき手渡したグラスに入ったアイスコーヒーをぐびぐびと一気飲みしている姿を見て、思わず噴き出してしまいそうになった。
来てくれたとき、息が上がっていたことを思い出す。車を停める場所がないと伝えたら、歩いて行くと答えてくれたことも。
急いで来てくれたのだろうか。喉をカラカラにしてまで急いで駆けつけなければならないほど、私が心配だったのかもしれない。
素直に嬉しいと思う。でも。
本当に甘えてもいいだろうか。頼って大丈夫なんだろうか。まるごと全部信じていいものかどうか、ためらいは完全には抜けていない。
『そんなに頼りないかなぁ俺って』
頼りなくなんかない。むしろ、誰かを頼るのなら都築さんが良かった。ずっとそう思っていた。
なら、今の私に必要なものは、この人を信じようと思う気持ちではないのか。
泣く私に、都築さんは何度も『迷惑じゃない』と言ってくれた。その言葉をいつまでも疑い続けるほうが、きっと失礼だ。最悪、そのせいで傷つけてしまうかもしれない。
ようやく気持ちが落ち着いてくる。ひとりきりで抱え込んできたものを誰かに明け渡せるという安堵は、想像していたよりも遥かにあたたかなものだった。郁さんに初めて話を聞いてもらったときも、今と同じ安堵を噛み締めていた気がする。
今ここにいてくれる人が、都築さんで良かった。
*
『順番が逆になっちゃったけど、今度は真由ちゃんの話、聞かせて』
ぽつぽつと話し始めた私を、彼は一度も遮らなかった。
イメージチェンジしてもらった日の郁さんと同じように、最低限の相槌を挟むだけだった。
溜まった
誰も本当の私なんて見ていない癖に、どうして私と話したがるのかということ。昨日まで私には見向きもしなかった人が今日には笑顔で話しかけてくる、その理由を考えるたびに気分が塞いでしまうこと。
見覚えのない人に馴れ馴れしく名前を呼び捨てにされ、不快に思ったこと。不躾に他人に握られた右手が、汚らしいものに見えて仕方なかったこと。
取り留めのない話だったと思う。脈絡なく話があちこちに飛ぶこともあったと思う。それでも、都築さんは静かに聞いてくれていた。休憩室でひとり泣いていた日、そうしてくれていたように。
「私、今まで通りでいいんです。外見なんて関係なく仲良くしてくれる人だけいてくれれば、それでいいのに」
「うん」
右手が小さく震える。
膝の上に置いたそれに、都築さんの指が触れた。隣に座る彼の体温を直に感じられた気がして、場違いにも嬉しくなる。
「全然、違ったんです」
「……ん?」
「手、握られたとき。前に都築さんに触られたときと、全然違うって思って」
視線を感じたものの、直視はできなかった。
今を逃せば、尋ねる機会は永遠に失われてしまうだろう。その直感に逆らうことなく、私はとうとう、ここひと月ずっと燻らせ続けていた質問を口に乗せた。
「都築さんも、同じですか?」
「え?」
「私の外見が変わったから、あの日、私を抱き締めてくれたんですか?」
微かながらも、確かに息を呑む音がした。
ついに言ってしまったとぼんやり思う。一度口をついて出た言葉は、二度と取り返すことができない。
それこそが、私の心にべっとりと張りついた澱だった。郁さんにさえ相談できなかった、私が抱える真の不安。
答えを知りたいと思うし、知らないままでいいのではとも思う。どちらも本心で、それなのに私は今、自分からそこに踏み込んでしまった。この先ずっとこのままだなんて、これ以上はやはり耐えられそうになかった。
不意に手を握られ、思わず隣を見上げた。視線がぶつかり、絡み合う。目を逸らすことはできなかった。肩を抱き寄せられ、私の身体は簡単に彼の胸元に傾ぐ。
あの日と同じ。それから、さっきまでとも同じ。鼻を掠める大人の男の人の匂いに、すぐさま息が上がりそうになる。
「……そう思われても仕方ないか。あんなタイミングだもんな」
呟くような声でぽつりと零した直後、彼は私の頭を胸元に抱え込んだ。
視界が突如遮られた驚きと、抱きかかえられているという恥ずかしさとで、頭が真っ白になってしまう。
「違うよ」
「……あ」
「信じてもらえないかもしれないけど、俺、前から真由ちゃんのこと見てた」
閉ざされた真っ暗な視界には、映るものがなにもない。
そんな中で、低く穏やかな彼の声だけが、ゆっくりと鼓膜から脳へ伝わり心を満たしていく。
「たまに手伝いで呼ばれて現場に行くと、いっつも心細そうにしてた。その顔見るたび、この子なに抱えてんだろって心配だった」
「……都築さん」
「休憩室で泣いてるところ見つけて、ひとりでいさせたくなくなった。だから無理やり誘った」
「……あ……」
「自分でもよく分かってなかったけど、多分俺、前から真由ちゃんが好きだったんだと思う。じゃなきゃ、あんな突拍子もない誘いなんか切り出せてない。面識だってほとんどなかったのに」
話している間、彼は抱え込んだ私の頭を離そうとしなかった。
少し息苦しい。けれど、無理に抜け出そうとは思わなかった。顔を見られたくないからこうしているのかもしれないと思ったから。
『そこまで真っ赤にならんでもいい!』
いつかの郁さんの声が脳裏を過ぎる。
もしかしたらこの人は今、私に見られては困るほどに真っ赤な顔をしているのかもしれない。そう思ったら、どうしてか無性に泣きたくなった。
「……いっそイメチェンなんかさせなきゃ良かったかな」
「え?」
「イメチェン勧めなかったら、真由ちゃん、こんなにつらい思いなんてしなくて済んだかもって思って。余計なことしちゃったなぁ」
頭の圧迫がふっと緩められる。
ゆっくり目を開くと、申し訳なさそうに笑う都築さんと目が合った。触れていた手が力なく落ち、途端に体温が下がった気にさせられる。
離れていった彼の手を、自分から掴んだ。
違った。この人は、私の外見が変わったから私に触れたのでは、なかった。
私はいつから、仕事中にそんな顔を晒してしまっていたのか。自分さえ気づけていなかったことを、この人は察してくれていた。忙しい中にあっても気に懸けてくれていたのだ。
陰口を叩かれてひとりで泣いていたあの日よりも、もっと前から。
怖くなってくるくらいに嬉しい。私は、この人のことが心の底から好きだ。
手を握ったまま、驚いた顔で目を瞠る都築さんを真正面から見つめる。どうしても、これだけは伝えたかった。分かってほしかった。
「そんなことないです」
「……え?」
「綺麗にしてもらえたこと、本当に嬉しかったんです。けど、郁さんが私の話を聞いてくれて、ひとりで抱えてたことを全部引っ張り出してくれたことが、もっと嬉しかった。あの日あんなに遅くなっちゃったのは、私、嬉しくてずっと泣いてたからなんです」
「……真由ちゃん」
「郁さんだけじゃなくて、都築さんも、なんでもすぐごまかそうとする私のこと、ちゃんと分かってくれた。都築さんに可愛いって言ってもらえて、私、馬鹿みたいに舞い上がって、陰口言ってた子たちなんか一瞬でどうでも良くなった。だからあの日都築さんが誘ってくれたのは、余計なことなんかじゃないんです」
――私がほしかったもの、都築さんが全部、くれたから。
声が震える。気を抜けば涙が滲んでしまいそうで、慌てて口角を上げた。
きちんと笑えているだろうか。私は今、この人への思いを正しく伝えることができているだろうか。
すべてでなくてもいい。十分の一でも百分の一でもいいから伝えたい。伝わってほしい。都築さんだけが私の特別なのだと、どうしても分かってほしかった。
握った手が震えそうになる。
慌てて引っ込めようとして、けれどそれはできなかった。
「……あんまり可愛いことばっかり言わないで……」
掠れた声が、すぐ傍から心地好く鼓膜を揺らす。瞬く間に指を絡められ、もう片方の手を後頭部に添えられ、そのまま唇が重なった。
唇と唇が触れ合うだけのキスは、心まで溶かされそうなほど熱い。うっすら瞼を開くと、私と同じように熱に浮かされた色をした彼の瞳が覗いた。
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