《5》違うの

 登録していない番号からかかってきた電話に、出るべきかどうか迷った。

 不安を拭いきれないままおそるおそる通話ボタンを押して、そして電話越しに聞こえてきたのは、焦ったような、それでいてどこまでも優しい声だった。


 これっぽっちも消えてくれなかった恐怖が、一瞬で霧散した。


 一ヶ月間、ずっと会いたいと思っていた。会いたくて仕方なくて、けれど連絡先が分からない以上どうしようもなくて、躍起になって気持ちをごまかし続けて、ただただ息苦しかった。

 蓄積したその思いは、自分が思っているよりも遥かに大きく膨らんでいたらしい。初めて名前を呼ばれて、そのせいで急速に期待が込み上げてきて、怖くなる。


『なにがあったか俺に教えてくれる?』

『今からそっちに行ってもいいかな』

『放っておけない』


 どうして、こんなときに電話をかけてくるの。どうして、そんなに優しそうな声で泣いている理由を訊くの。どうして、放っておけないなんて、言ってしまうの。

 そういうふうに言われて、今の私に断れるはずがない。迷惑もかえりみず、なりふり構わず縋りついてしまいたくなる。


 いつの間にか、私の涙の理由は、当初のそれとは別のものにすり替わっていた。

 会いに来てほしい。もう一度、あの日みたいに抱き締めてほしい。知らない人に触られて汚らしいものにしか見えなくなった右手も、乱れきった心の中身も、なにもかも、全部塗り変えてほしい。そればかりだ。


 そんなわがままを言う権利が、私にあるわけはないのに。


『着いたよ』


 電話越しに聞こえた声に、この期に及んで躊躇しそうになりながら、震える指で鍵を開けた。強く引かれたドアノブに気を取られた次の瞬間には、身体ごと、彼の両腕に閉じ込められてしまった。


 痛いくらいに抱き締められているのに、ちっとも不快には思わなかった。それどころか、もっともっとと欲が前に出そうになる。自分が自分ではないものになってしまったみたいで、不意に心許なくなった。

 背中に回した腕が震える。それをごまかすために、指先が触れていた彼のワイシャツをぎゅっと握り締めた。その所作に呼応するように、抱擁がますます力強いものになる。伝えるべきことがどろどろに溶けてなくなってしまいそうな頭を、半ば強引に現実に引き戻し、私は必死に口を開いた。


「……っ、あの、ごめんなさい……」

「ん?」

「こんなことくらいで、都築さん、忙しいのに……私」


 ……知っている。

 このひと月、彼がどれほど忙しく仕事と向き合っていたのか。


 ブライダルシーズンがひと段落し、このところはバイトの出勤要請自体が減ってきていた。さらにここ二週間は試験期間だったこともあり、バイトをお休みさせてもらうことが多かった。

 郁さんのマンションを初めて訪ねて以来、彼の姿を目撃したのは、ちょうど前回のバイトでのことだ。顔を合わせることがありませんようにと願ってばかりだったのに、いつを境にしてか、私の中では会いたい気持ちのほうが遥かに強くなっていた。そんな浮わついた気持ちで仕事をしていたときだった。


 勤務中、たまたま立ち寄った事務所内で彼を見かけ、背筋の凍る思いがした。

 私、どれだけ身勝手に浮かれてしまっているんだ。都築さんは社会人で、私は学生。その事実を、私は本当の意味では理解していなかったのかもしれなかった。


 あれほど余裕を欠いた都築さんの顔を、私はそれまでに一度も見たことがなかった。


 遠目にも分かる、デスクに積まれた膨大な書類。その山に埋もれるようにしてひたすらペンを動かし続ける手元、派手な音を立てて鳴る内線電話へ伸びていく指。ペンを走らせる所作はそのままに、耳と肩の間に挟んだ受話器に向かってなにかを口にして、それをガチャリと元の位置に戻して、そして溜息とともに浮かんだ焦りの表情。

 そんな状態の彼が、離れた場所から視線を送るしかできずにいる私に気づくはずもない。無理やり視線を逸らし、振りきるようにその場を後にしたのだ。


 あれからまだ三日しか経っていない。

 これ以上、彼の負担を増やしてはならない。邪魔してはならない。


 そう、心に誓った矢先だというのに。


「なんで謝るの。どんなことで傷つくかなんて人それぞれでしょ。真由ちゃんはそれが嫌で、傷ついて、つらい思いをしたんでしょ? ならそれは全然『こんなこと』なんかじゃないよ」

「っ、でも」

「それにさっきも言っただろ。俺が会いたいと思ったから来た、だから迷惑なんかじゃない」


 ひくひくと続く嗚咽は止められそうになかった。騙されて向かった飲み会で起きたできごとなんて、もはやどうでも良かった。

 これ以上優しくしないでほしいと、心から思う。このままでは、大事な人が大変な思いをしているときに新しい負担をかけてしまうことを、嫌だと思えなくなる。


 それだけは、避けたいのに。


「……また余計なこと考えてる」

「っ、あ……」

「真由ちゃんは人に頼るのがヘタクソだって、郁が言ってた。俺もそう思う」


 抱き寄せられた身体が震える。

 まだ現実味がない。なにもかもが嘘みたいで、我に返ったら目の前のすべてが消え失せてしまいそうで、縋る腕に思わず力がこもる。


「前は周りの誰でもいいから頼ってくれって思ってたんだけど、気が変わった」

「……え?」

「できれば他の奴じゃなくて、俺にしてほしい」


 声が震えて聞こえた気がして、ふと怖くなる。

 すべてが夢うつつのような現実の中で、触れ合う肌が連れてくるぬくもりだけは唯一確かなものだ。互いの顔が見えないのをいいことに、私は広い背中に回した腕に力を込めた。


「人に甘えるのは嫌い?」

「……好きではない、です」

「そう。俺は頼ってもらえないほうがキツくなってきてるけど……そんなに頼りないかなぁ俺って」


 ……違う。

 与えられることに慣れるのが怖いだけ。ズルズルと縋りついてしまいそうになる自分が、嫌なだけだ。


 身体を締めつける腕の力が微かに緩む。反射的に顔を上げて、そのまま息が止まった。

 リビングの灯りが扉越しに薄く届くだけの、照明も点けていない暗い玄関で、どうしてかそれは妙にはっきりと私の目に映った。傷ついたような目をしている都築さんは、普段とはまるで別人だ。ぎくりと胸の奥が軋んで、息が詰まる。


 もしかして、私はとんでもない思い違いをしているのでは。

 足が竦んで息がうまくできなくて、そんな状態なのに、彼を見上げる目を逸らすことも閉じることもできない。


「おかしいよな、頼られないほうがつらいとか。けどそれしか考えらんなくてさ。ここ一ヶ月、頭ん中ずっと真由ちゃんのことばっか」

「……都築さん」

「そんな頭で働き続けてるからだろうけど、仕事、なんかうまくいかなくて。自分のこと追い詰めるみたいなやり方しかできなくなってて、結局予定通りこなせなくて、自分が悪い癖に周りに八つ当たりして」


 緩く触れていた両腕が力なく落ちる。

 背後のドアにもたれるように倒れ込んだ都築さんが、一瞬、誰なのか分からなくなりそうだった。


 まるで迷子の子供だ。怯えているみたいな。不安そうな。

 その顔を見て、私こそが言いようのない不安を覚えた。急に足元の地面が抜け落ちてしまったような錯覚の中、心臓だけがばくばくと激しく脈打っている。


 神様だと思っていたこの人は、もしかして神様なんかじゃないんじゃないか。

 私と同じで、悩んだり苦しんだりしながら必死に日々を藻掻いて生きている、普通の人なんじゃないのか。


「ごめん。これじゃ自分が愚痴りたくてここに来たみたいだな、カッコ悪……」


 ……格好悪い、だろうか。

 私はそうは思わない。そういうふうに思ったことも、一度だってない。


 それだけは、どうあっても伝えたかった。


「っ、違う……!」


 思った以上に感情的な声になってしまった。耳慣れなかったのか、都築さんは少し驚いた顔をして、額を押さえていた手を外して呆然と私を見つめている。

 自分のことを、そんなふうに貶めてほしくなかった。首を横に振りたくりながら、ほとんど叫ぶようにして声を繋ぐ。


「そんなことない。私、都築さんのこと、そんなふうに思ったことなんか一度もない」

「……真由ちゃん」

「私、都築さんのこと、神様みたいな人だって思ってました。初めてバイトに行った日、助けてもらってから、自分も社会人になったらこうなりたいって憧れて」


 なにを口走っているのか、自分でももうよく分からない。

 しかし口は勝手に動く。自分の口なのに自分のものではない感じがして、こんな状況なのに、場違いにもそれを不思議に思う。


「でも違いました。都築さんも、悩んだりつらい思いしたり、私と一緒で。そのほうが、神様だって思ってたときより、私はずっと嬉しい」

「……あ……」

「格好悪くなんかないです。都築さんは、私が知ってる誰よりもいちばん格好いいです、だから……っ」


 後方から届く弱々しい明かりが、都築さんの顔を微かに照らす。

 驚いて固まったきりの顔を見ていたら、なんだか泣けてきた。涙腺が緩み、思わず鼻を啜ったそのとき、不意に手を掴まれて息が震える。


「本当……嫌んなる」


 低い呟きが、静かに鼓膜を揺らす。

 拒絶の言葉じみて聞こえて、心が打ち砕かれそうになって、けれど次いで頬にあたたかな指が伸ばされてきて、わけが分からなくなる。


「……俺、真由ちゃんいないともう生きてけなそう」


 泣きそうな声だった。

 頬をなぞる指が唇に動いたことに気を取られ、言葉の意味が頭に届くまで、やたらと時間がかかる。


 考えているうちに両手で頬を挟まれ、私の唇はそのまま、彼のそれに奪われてしまっていた。

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