《4》自嘲と細腕

『随分取り乱してるみたいだったの』


 郁の話を反芻しつつ、通話後に送られてきた電話番号を表示させる。


『陽介。アンタ、真由ちゃんの事情ってどこまで聞いてる?』


 ……なにも聞いてねえよ。俺よりもお前のほうがよっぽど頼られてるだろ。

 八つ当たりじみた苛立ちが声に乗ってしまったが、隠す気にもなれなかった。郁がそれに気づかなかったとは思えない。わずかな沈黙の後、姉は意を決したように再度口を開いた。


『真由ちゃんってね、人に頼るのが壊滅的に苦手なの。迷惑がかかるから、困らせちゃうから……そういう考えに簡単に自分の本心を隠しちゃう癖があるんだよ。アンタも薄々気づいてるんじゃない?』


 知ってる。だからあの日、強引にでもと連れ出した。

 膝を抱えて目を真っ赤にして泣いて、あんな状態のままひとりぼっちでなんて、いさせたくなかった。


『泣いてたの、電話中ずっと。なにがあったのって訊いて、すごく動揺してたからなかなかうまく聞き取れなくて……けどはっきり、男の人に触られたって』


 呼び出し音は、何度繰り返しても途切れなかった。当然だ。郁の言っていたことが本当なら、その状況で知らない番号からの電話に出るわけがない。

 どうして、そんな状態になってしまうまで誰かに頼ろうとしないんだ。もっと早く郁に相談すれば良かったじゃないか。俺でなくても、君には頼れる人間がちゃんといるはずで。


 ――俺で、なくても?


 思わず目頭を押さえた。

 違う。そんなのは詭弁だ。俺は頼られたいんだ。俺自身があの子に頼ってほしいと思っている、それだけの話。


 ノイズめいた耳障りなコール音には、一向に変化は訪れない。

 だが、間もなく駐車場に停めた自分の車に到着するという頃、不意にそれが途切れた。


「っ、真由……ちゃん?」


 ……つい、名前を呼んでしまった。



     *



 ――間違えた。


 頭と一緒に足も固まった。

 動力の切れた機械のように駐車場に立ち尽くしている俺は、傍目から見たらさぞ不審だっただろう。真っ白になった頭を無理に回転させ、なんとか続く言葉をひねり出す。


『……あ……都築さん?』

「う、うん。郁から連絡、あって。今、電話大丈夫?」

『あ、は、はい』


 鼻を啜る音が微かに聞こえた。それから、呼吸が少しだけ上がっている。

 直前の自分の失態が、一瞬でどうでも良くなった。


「……泣いてるみたいだって、郁、すごく心配してたよ。なにがあったか俺に教えてくれる?」


 誰だ。君をそんな目に遭わせたのは。

 他の誰にでもなく、俺に打ち明けてほしかった。駐車場の入口で足を止めたきり、じっと返答を待つ。


『……きょう』

「ん?」

『今日、ゼミの飲み会だって、言われて』

「うん」

『行ったら……嘘で。知らない人ばっかりで』

「うん」

『見たことない人、知らないのに……みんなに、名前を呼ばれて』

「うん」

『……手を、掴まれて』

「うん」

『……気持ち、悪くて……』

「……うん」


 最小限の相槌を挟むに留める。

 遮りたくなかった。自分のためだ。余計なことを口にすれば、必ず荒ぶった感情が声に滲んでしまうに決まっていたから。


 嘘をついて騙した奴も、馴れ馴れしく名前を呼んだ奴も、手を掴んだ奴も、全員まとめて死ねばいいのに。

 相槌を打ちながら物騒な思考を巡らせていたことを、もしこの子が知ったらどう思うだろう。俺に幻滅してしまうだろうか。だが、これが本心だ。


 これ以上は耐えきれそうになかった。


「真由ちゃんって今、自分ち?」

『え……は、はい』

「今からそっちに行ってもいいかな」


 ……唐突にもほどがあるという自覚はあった。

 返事はなく、息を詰めたみたいな音だけが聞こえて、困らせているとはっきり分かって、だとしても撤回する気にはなれなかった。


「嫌がるようなことは絶対しないから。駄目かな」

『で、でも。迷惑では』

「会いたい。放っておけない」


 相手の声を遮る形で、うっかり本音が零れた。

 あ、と掠れた声が電話越しに聞こえ、それが妙に遠く聞こえる。もどかしい。だからといって自分になにができるわけでもない。子供じみた苛立ちに呑み込まれそうになった、そのときだった。


『……本当に、いいんですか。その、本当は、ひとりでいるの、怖くて』


 まとわりついてくるもどかしさの正体が、うっすらと見えた気がした。


「うん。今から行く……あ、車停める場所ってある?」

『あ。ない、です』

「分かった。なら歩いていくよ。その間ずっとこのまま電話してようか」

『……でも』

「ひとり、怖いんだろ?」

『……はい……』


 返事を聞きながら、自分の車から視線を外す。

 来た道を戻るように、俺は足早に歩き始めたのだった。



     *



 意識するよりも先に、歩く速度が勝手に速まっていく。

 以前車で送っているから、おおまかな場所は把握していた。あの辺りなら急げば二十分もかからないはずだと、歩きつつ目測を立てる。

 繋がったままの通話で、怪我はしていないかとか、アパートの鍵は自分が着くまで開けないでとか、お前はあの子の親かよと思わず自分にツッコみたくなるようなことばかり口にしていた気がする。


 ついさっきまで感じていた強烈なストレスが、まるで遠い過去のものみたいに思えていた。頭が割れてしまいそうなほど苛立っていたのに。挙句の果てに謹慎などというペナルティまで喰らって、これ以上ないくらいに沈んでいたのに。

 本来の目的こそ違えど、早々に残業を切り上げさせてもらえたことを心底感謝した。まさか支配人がこの状況を察知していたわけではないだろうが、あのまま自席に張りついていたなら、郁からの電話にもきっと出なかった。


 涙交じりに途切れ途切れに喋る彼女は、陰口を叩かれて泣いていたあの日よりもずっと痛々しかった。

 途中からは、走っているのと変わらない速度で歩いていた。何度か道を尋ねながら、ようやく見覚えのある道に出る。到着したアパートの階段を駆け上り、教えてもらった部屋に向かう。


「着いたよ」


 呼吸が上擦りっぱなしなのは、急いでここに辿り着いたからという理由によるものだけではなかった。

 おそるおそる開いたドアの隙間から細い指が見えた瞬間、ドアノブを強く引く。隙間から玄関に滑り込み、伸ばされていた腕ごと華奢な身体を抱き寄せた。


 ……なにが〝嫌がるようなことは絶対しない〟だ。

 いきなり電話して部屋に行きたいなんて言い出して、こうやって無理やり部屋に押し入って――俺も大概、この子を傷つけた連中と同類だ。


 ふと鼻孔を掠めた髪の匂いが、自嘲をますます深めていく。

 背中に回った両腕にほんの少し力がこもった気がして、それが気のせいではなかったらいいと、心の底から思った。

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