《3》不真面目なふり
「座りなさい」
「……はい」
ひどい仏頂面を晒している自覚はあったが、そんな俺とは対照的に、支配人は顔色ひとつ変えない。
扉の奥から「失礼します」と声が聞こえ、南さんがコーヒーの乗ったトレイを手に室内に入ってきた。湯気を立てたコーヒーが、支配人、俺の順にそっとテーブルに置かれるさまを、投げやりな気分で見つめる。
南さんが退室し、たっぷり十秒が経過した頃、ようやく支配人が口を開いた。
「珍しいなぁ、都築。余裕スッカラカンじゃねぇか」
……予測はしていたが、普段よりも数倍砕けた口調だ。
微かに視線を向けると、緩んだ口元が目に映った。薄ら笑いを浮かべているとすぐに分かり、あえてそれ以上は視線を上げないことにする。
驚いた、なんてものではなかった。入社当時は。
自分が配属された式場のトップに位置する支配人が、高校と大学時代の先輩の父親だなどとは、思いもよらなかった。
おかしい。世の中狭すぎるだろ、勘弁してくれ。この式場に配属が決まった時点で、密かに転職を考えたほどだ。
それなりに遊んだ高校時代とかなり遊び込んでしまった大学時代、そのどちらもを知り尽くした面識ある相手が上司になるとは――なんの冗談だと眩暈がしたものだ。
他のスタッフは、多分誰も知らない。学生時代によく見かけた砕けた態度を、支配人は今まで、業務時間内に一度も取ったことがなかった。それどころか、プライベートだろうとなんだろうと、人目のある場所ではこういう話し方は絶対にしなかった。
入社から四年強、こんな状況は今日が初めてだ。
「新崎には……っつうかバンケットには、かな。今後個人的なヘルプ要請はしないように伝えておく。お互いのマネージャーを通せって次の会議にかけてやるからな。今までは暗黙の了解ってのに頼ってたんだが、これ以上は規則作んねえと防げねえっぽいし」
「……はい」
「今のまんまだとお前の負担が増えるばっかりだしなぁ。お前以外にヘルプ要請してんの見たことねえし、お前だって毎回長々とくっちゃべられて時間潰されんのも癪だろ。けどお前、そこまで余裕ねえのはそれだけが理由じゃねえな?」
質問には無言を返すに留める。
支配人はそんな俺を一瞥した後、大仰に溜息を漏らした。
「今日はもう帰れ。残業禁止。いいな」
「……それでは仕事が終わりません」
さすがに沈黙を守る気になれず、不満じみた声を零した。だが。
「いいよ、別に。代わりなんかいくらでもいるだろ、他の奴に回せば済む話だ。それからお前、明日と明後日も休め」
「は?」
「都築。お前、自分が今どんなツラしてんのか分かるか」
膝に乗せた拳がぴくりと動いてしまう。
そんな些細な仕種など、目の前の上司には見えていないはずなのに、どうしてかすべて見抜かれている気にさせられる。
「一ヶ月になるなぁ。お前がそのツラするようになってから」
視線を上げることは、かろうじて堪えた。
どうしてバレている。いくら余裕がないとはいっても、人前で隙を見せた覚えはなかった。そもそもこのひと月、特に支配人とは一緒に仕事をしていない。
「今日が水曜で……木、金。二日もあれば十分だろう。週末までに、抱えている問題を解決してきなさい」
口調を改め、畳みかけるように続いた指示に、今度こそ顔を上げた。
たった二日間で抱えている問題を解決しろ、だと? いや、それ以前の問題だ。休んでいる暇なんか、俺には一分たりともない。
連休。直近でいつ取ったのかさえ、すでに記憶になかった。
どのみち、こんなものは普通の休暇ではない。命令によってねじ込まれた代物に、喜びを見出せるはずもなかった。
「……謹慎って意味ですよね?」
「否定はしないが、それを有効に使うも無駄に過ごすも君次第だ。違うか?」
謹慎。自分の身には関係ないと信じて疑わなかった事態に、軽く眩暈がした。
その決定、なんでもするから取り消してくれ、と心底思う。休んでいる場合ではない。その間にも、仕事がどんどん積もっていくだけだ。これ以上積み重なろうものなら、その重みで圧死できる自信があった。
「明日も明後日も打ち合わせ入ってるんで、ちょっと無理なんですが」
「いいよ、私が代わる。あとで予約リストと資料を寄越してくれ。都築は熱を出して病欠、不在の理由なんてそれで十分だ」
零れかけた溜息を、無理やり噛み殺した。本音をぶちまけてしまいたい衝動をいなしながら冷静に言葉を選んだつもりだったが、言い訳を重ねたところで決定は覆されないらしい。
……しかも〝熱を出して病欠とは。万が一、外出中にたまたま客と鉢合わせてしまったら、そのとき俺はどんな顔をすればいい。熱を出して病院に行く途中なんです、とでも言えばいいのか。
それとももしかして、外出自体がアウトなのか。その場合は、問題の解決など百二十パーセント不可能になるが。
疑問と皮肉が矢継ぎ早に脳裏を巡ったものの、結局、喉を通過できたのは間の抜けたひと言のみだった。
「……せめて花粉症とかに」
「アホか、飛んでねーよ花粉なんか。今が夏だって気づいてねえんなら、お前相当重症だぞ? どうせ大して外なんか出ねえだろうが」
「エッ、それだと問題の解決とか無理……」
「あ、そうなの? じゃあお前の言う通り花粉症ってことにしとくわ」
「やめてください……今もう飛んでないんでしょ、花粉……」
「はは、じゃあ予定通り仮病だな。他の連中にも余計なことは言うなよ? いいな、二日間は絶対会社に来んなよ」
「はい……」
「それから、私服での休日出勤も今後一切禁止だ。お前最近そればっかりやってんだろ。あれは駄目だ、個々の業務の負担がさっぱり見えなくなる」
「……はい……」
日頃こっそり行っているグレーゾーンじみた行動を指摘され、息が詰まった。仕事が追いつかず、シフト上では休みになっている日にこっそり会社に来ていたことがしっかりバレている。笑う気にもなれなかった。
そういうことをやっているプランナーは、俺以外にも何人かいた。皆、上司にはバレないようにと神経を張り巡らせながらそんなことをしているわけだが、マネージャーどころかさらにその上の支配人に筒抜けだったなど、もはや溜息も出そうにない。
今の口ぶりから考えると、俺以外のスタッフの休日出勤についても、きっとすでにお見通しなのだ。見ていないようでよく見ているものだと、うっかり感心しそうになる。
……なにはともあれ、だ。
明日と明後日の二日間、病欠という名の謹慎を課せられてしまった。
『それを有効に使うも無駄に過ごすも君次第だ』
おかしい。
時間ができたらできたで、なにをすればいいのかすぐには分からない。あれほど時間をほしがっていたはずなのに、あまりにも突然に投げつけられたからか、思考がまったく追いつかなかった。
多分、それが顔に出た。
顔を俯けた俺を正面から見据え、支配人はこれ見よがしに溜息をついた。
「ったく、変なところで真面目すぎるんだよお前は。皆にいい顔しようとしやがって」
「いや、そんなつもりは……」
「余計なことは考えなくていい。挙句の果てに新崎みてえなのにつけ込まれてよ、いいように利用されて馬鹿みてえだろ。今回の休みも落ち込むんじゃねえぞ、ただの休暇だと思って好きにやってこい」
言い返したいのに、うまく言い返せそうになかった。
真面目なんかじゃない。そういうのは、学生時代の俺を知っているあんたが一番よく知ってるだろ。そう言いたくて仕方がないのに、口はパクパクと開いては閉じるばかりで、思い描いた言葉を投げつけてやることはできなかった。
この人は、俺が〝真面目なふりをした不真面目な人間〟ではないと察している。
自分が不真面目な性質だと思っているのは――そう思い込もうとしているのは俺自身だけなのだと、暗に示している。
……伊達に支配人などという役職を務めていないということか。妙な感心とある種の恐怖を抱きつつ視線を上げ、上司の顔を眺める。上司の顔をしているのかそうではないのか、そんなことが気に懸かっただけだったが、その表情を目の当たりにしてふと嫌な予感に襲われる。
ニヤニヤしているようにしか見えない。おかしいだろ、なんだその顔は。先ほどまでとは雰囲気が一変した上司の顔を前に、ぞわりと背筋が冷える。
「いやいや、なんていうかほら、可愛らしいお嬢さんだもんなぁ。うまいことやってくれ、私生活が充実してればお前だって仕事に身が入るだろ」
「は?」
話の矛先が唐突に変わり、芽生えていた予感はするすると育っていく。すでに嫌な予感しかしない。
可愛らしいお嬢さん、とは。この人は一体なんの心配をしているのか。心の中で燻り始めていた不穏な気配に、不安が掻き立てられていく。
無意識のまま、目の前のコーヒーカップに指をかける。
とっくにぬるくなっていたコーヒーは地味に不味かったが、そうと分かっていても喉に流し込まずにはいられなかった。
「まぁほら、相手は未来ある学生さんだからな。その、孕ませたとかそういうのはやめてくれ」
「んぐっ!?」
噴きかけたコーヒーは、なんとか口の中に留めた。
生ぬるい液体を無理やり喉に押し込み、それから派手にむせ込んだ俺を、支配人はやはりニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて眺めているだけだ。
学生とは。孕ませる、とは。あんたはなにをどこまで知っている。
俺は誰にも言っていない。バンケットの連中も知らないはずで、だからこの人が知っているわけがないのに、なんでだ。
「いやー、最近いきなり綺麗になったもんなぁあの子……海老原さんだったか? ちょうど一ヶ月前頃からだったかなぁ。ありゃ、そういや都築の様子がおかしくなってきたのも、ちょうど同じ頃からだよなぁ、んん? ……って思ってただけなんだが。やっぱ偶然じゃねえのかよ、分かりやすすぎるよお前」
「っ、な……」
顔が異様に熱い。むせた感覚が強めに残る今の喉では、まともな声を出すこともままならない。それらの原因が、コーヒーを噴き出しそうになったからというだけではないことは分かっていた。
すさまじい観察眼だ。そろそろ勘弁してほしい。先刻喰らったばかりのショックを、つい忘れそうになるレベルの衝撃だ。すぐにもこの場から走り去りたくて堪らなかった。
「大丈夫だ、俺以外は気づいてねえよ絶対。ホラホラ、コーヒー飲んだらさっさと帰れ。あ、ここから出ていくときは神妙な顔して行けよ」
「……そうですね……」
「それじゃあ都築くん、今日はお疲れさま。また土曜日にね。気をつけて帰りなさい」
最後だけ白々しく口調を戻した支配人は、俺の反応を明らかに楽しんでいる。
言い返しても無駄だと割りきり、だらりと椅子から立ち上がった。この脱力感が、事務所内に戻ったとき、いい具合に悲壮感を漂わせてくれるかもしれない。
「……支配人」
「ん?」
「正直、謹慎って話には死ぬほどメンタル削られたんですけど。……ありがとうございました」
なぜなのか、一周して気持ちが落ち着いた。
素直に口をついた感謝の言葉を前に、これっぽっちも掴みどころのない上司は、果たして今どんな表情を浮かべているのかと不意に思う。
笑いを堪えているのか、はたまた立ち直りを見せつつある俺の様子を眺めてまたもニヤついているのか。
……どちらにしても笑ってるだけじゃないかと気づいた瞬間、イラッとした。いかにも重厚そうな金色のドアノブに手をかけながら、つい眉根が寄る。
「どういたしまして。頼むから死なないでね。私もすぐ戻るから、明日以降の打ち合わせのリストと資料、よろしくね」
「はい。では、失礼します」
去り際、小さく振り返って頭を下げた。
そのときに見えた支配人の顔が、死んだ実父が生前よく浮かべていた温厚そうな笑顔に、どうしてか似て見えた。
*
いまだに青褪めたままの新崎さんに頭を下げ、残っていたプランナーたちに先に帰ることを告げる。例の現場に居合わせたふたりのプランナーがなにか言いたそうに俺を見つめてきたが、結局、彼女たちの言葉は待たずにデスクを離れた。
支配人が事務所内に戻ってきたのは、ちょうどその頃だった。手早く掻き集めた明日・明後日の打ち合わせ予約リストと、その客らの資料を彼に手渡し、タイムカードを切った。
すでに午後七時を回っているというのに、外はまだ真っ暗闇ではなかった。
そういえばもう七月か、と思う。カレンダーに書き込まれた予定を、毎日嫌というくらい睨みつけて生きているのに――もっと言えば、七月だから担当数が云々などと頻繁に考えているのに、今が夏なのだと実感を得たのは初めてだった。
支配人と花粉がどうこう話しているときも思ったが、どうやら俺は、人としての限界というか、相当まずいところまで来ていたらしい。
支配人はそんなこともお見通しだったのか。そら恐ろしい気はしたものの、今となっては先ほどの彼の対応に、純粋な感謝の念を覚える気もする。
……さて、急に投げて寄越された連休だ。
支配人に告げた〝メンタルが削られた〟という話は本音ではあるが、どれだけ疲れていようともゴロゴロ寝て過ごすわけにはいかなかった。
気は進まないが、頼れる相手はやはりひとりしかいなかった。郁だ。
電話に出ないこともあるから、早めにかけておいたほうがいいだろう。胸ポケットから携帯を取り出す。ところが、履歴を探ろうと指を動かし始めた途端、突如それがブルブルと振動を始めた。
手元が狂いそうになりつつ液晶画面を確認し、思わず目を見開いた。
このタイミングで、とは。画面に表示された姉の名前を呆然と眺め、こんなミラクルは別に要らないと内心毒づきながら通話ボタンを押す。
『あ、陽介?』
「……よぉ。久しぶり」
『なにその声。なんかあったの?』
「いや、今ちょうどお前にかけようと思ってて、かかってきたからびっくりしただけ」
『そんなの実の弟に言われても嬉しくない……』
「やかましいわ。で、用件は」
相変わらず口の減らない姉だ。
さっさと用件を切り出したい内心を抑え、ぶっきらぼうに尋ね……だが。
『あ、うん。陽介さ、今から真由ちゃんに電話、かけてあげられない?』
「……は?」
従業員用の駐車場に向かっていた足が、ひたりと動きを止める。
郁の声は、思い詰めたようなそれだった。話の内容を把握するよりも先に、間の抜けた声が零れた。
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