《2》いつになったら
『っ、失礼、します……ッ!』
動揺の滲んだ声と、真っ赤に染まった顔と、それと同じ色をした首元と。
あれから一ヶ月が経ったのに、そのどれもが鮮明に記憶に焼きついたまま、ちっとも薄まる気配を見せない。参ってしまう。
ふわふわ揺れるチュニックと膝丈のフレアスカートは、きっと元は郁のものだ。あいつのことだから、貸したのではなくあげたのだと思う。多分、最初からそのつもりで。
足元が履き慣らしたスニーカーだったことも、ふと記憶に蘇る。靴まではさすがに用意してやれなかったんだろうと思って、走り去っていく後ろ姿を呆然と見つめて、今思うとあのときの俺は相当に間抜けだったなと自嘲しそうになる。
あれから、彼女とは一度も顔を合わせていない。
七月に入り、披露宴の件数そのものは次第に落ち着きを見せ始めていた。とはいえ、それと仕事量が比例することはまずあり得ないのが現実だ。
現場は確かに落ち着いてくる頃だと思う。だが、九月以降に再び訪れるブライダルシーズンに向け、ウエディングプランナーはむしろ激務となる。
正式に挙式・披露宴の申し込みをしたカップルが、当日に向けて具体的に動き始めるのは、披露宴当日から逆算して三、四ヶ月ほど前からというのが主流だ。その時期から、打ち合わせの回数は徐々に増えていく。
この式場に在籍しているウエディングプランナーは、俺を含めて現在八名。うち二名は、主に新規で訪れたカップルの接客を行っている。他の式場との比較検討を行っているカップルに、うちの式場に決めてもらうこと。それが彼らの仕事であり、役割だ。
俺を含めた残り六名の仕事は、成約が済んだカップルと、挙式当日までの打ち合わせを行うことだ。最初に接客したスタッフから担当を引き継ぐ形で、詳細なプランや決定事項を詰めていく。
大半のウエディングプランナーは、シーズン中にほぼ毎週三、四件の担当を受け持っている。単純計算で、一ヶ月におよそ十五組から二十組。全体としては、日常的に三十件から四十件ほどの担当を抱えている計算になる。
担当カップルの挙式が無事に終了したとして、すぐにまた新しい成約客が割り当てられる。そのため、抱える担当数は基本的に変わらない。加えて、打ち合わせは一度で終わらないことばかりだ。何度も来館するカップルも多い。両家両親が一同に集まり、すり合わせをしながら話を進めていくケースもある。
中には、披露宴は行わず挙式のみを考えているというカップルや、披露宴という形式は取らず親族だけで食事会をと望むカップルもある。その場合は打ち合わせが少なくて済むが、そのようなケースはうちの式場に限っては少数だ。
シーズン直前には、次から次へと訪れる打ち合わせ客への対応に追われ、食事も碌に取れない日が続く。特に、土曜と日曜は打ち合わせの予約が殺到する上、担当している挙式・披露宴が当日を迎えるケースがほとんどだ。そちらにも神経を割かなければならない。
嬉しそうに成約客の話をするふたりの新規接客係に対し、頼むからもう成約を取らないでくれと、思わず不穏な本音が頭を過ぎることもしばしばだ。そういう状況で、現場のヘルプに向かう余裕がある人間なんて、ひとりとして存在しない。
……そんなことくらい、この式場に勤めている人間なら、誰だって分かっているはずなのに。
*
「お願い! どうしても次の土曜だけ厳しいの、なんとかヘルプ来てくれないかな都築くん……!!」
「いやホント、手伝いたいのは山々ですけど土曜は無理ッス……」
「そこをなんとか!!」
「本当すみません、他当たってもらえません? 他のプランナーは……
「駄目なの、やっぱり現場経験ある人間じゃないと効率悪いんだよー!」
苛々、苛々。
いい加減、この押し問答にもうんざりしてきた。
縋るような眼差しを送ってくる新崎さんは、入社したばかりの頃俺のOJTリーダーに就いてくれ、さまざまな業務を教えてくれた人だ。当時世話になった手前、無下に断るような真似はしたくないし、機嫌を損ねさせる発言も避けたかった。
だが、どうしてこちらの事情をこれっぽっちも考えようとしないのか。いい加減にしてくれと、つい声を荒らげそうになる。喉の手前まで差し迫ったそれを、すでに何度呑み込んだか分からなかった。
ああ、苛々、苛々。
こんな押し問答を繰り返している時間自体が、もったいなくて仕方ない。このリストを見て、絶対に無理なんだな、ということがどうして分からないのか。
午前九時半から、三十分あるいは一時間刻みで入り続けている打ち合わせ予約は、午後八時の線まで連なっている。合間には挙式当日を迎える担当が一件入っており、そのカップルと家族の性格を考慮すると、俺が席を外すことは難しい。その時間帯は、ほとんどチャペルと披露宴会場につきっきりになるだろう。
どの打ち合わせも三十分きっかりで終わるわけではない。一時間取ってある客がいるのは、一時間分の打ち合わせがあるからだ。しかも計七件のうち三件が、最も神経を使う初顔合わせ。こんな状況では、下手をすると休憩を取るどころかトイレに行く暇すらない。どうしてそれが分からない。
『やっぱり現場経験ある人間じゃないと効率悪いんだよ』
……極めつけはこれだ。
効率? あんたたちの効率なんか知ったことではない。
そもそも、人が足りないならどうして支配人なりマネージャーなりに申請して人員を増やしてもらおうとしないのか。具体的な手も打たず、最初から他部署の人間をあてにするなど話にならない。
どうせ手伝いに行ったところで、俺の仕事が減るわけでもなんでもない。そのしわ寄せは平日になった頃に出てくるが、そのときにバンケットの連中が俺を手伝ってくれるということもない。つまり、俺にとってなにひとつメリットがない。
自分たちの都合が悪いときだけ手伝ってくれなんて、どの口がそれを言う。
もううんざりだ。キンキンと至近距離から耳をつんざく新崎さんの声が、ついに俺の限界点を突き破ってしまった。
「……じゃあなに。俺がこれからこの七件の担当客全員に電話かけて、土曜の打ち合わせ全部断ればいいんスか?」
自分でも引くくらい、低い声が出た。
喉の奥に強く押し留めて我慢に我慢を重ねていた言葉は、堤防の決壊を前に、思った以上に流暢に流れ出ていく。あからさまな声音の変化に慄いたのか、新崎さんが露骨に顔を強張らせたさまが見えた。
「で? カップルそれぞれと両家両親、全員に電話かけながら頭下げて謝って、結局クレームになって怒られんのって俺? いい加減にしてもらえませんか」
場の空気が、一瞬にして凍りつく。
それまで雑談に興じていた連中も、俺たちのやり取りを面白おかしく傍観していた連中も、我関せずとばかりに担当カップルの資料を眺めていた数名のプランナーも、ひとり残らず即座に口を噤んだ。事務所内に不穏な静けさが落ちる。
「あ、都築。その、ごめん、私……」
「バンケットの効率を上げるために、なんで俺が身を削ってまで働かないといけないんですか? 分かってます? ヘルプに呼ばれるたび自分の仕事が全部後回しになって、平日にも夜中まで残ってるんですけど」
「ええと、あの」
「例えばそれ、バンケットの誰かが一度でも手伝ってくれたことってあります? 次の日に『昨日はありがとね~』って笑って終わりでしょ? 神経使って打ち合わせしてるだけで頭パンクしそうなのに、正直もうやってらんないんスよ」
目の前で顔を青褪めさせている新崎さんが、自分とは別の次元にいるみたいな錯覚を受ける。
まずい。余裕がない。頭がパンクしそうなのは、むしろ今だ。もっとひどい言葉を投げつけてしまいそうで、いや、投げつけてしまいたくなって、その欲求に抗いきれずに口を開きかけたそのときだった。
「……都築」
不意にかかった声に、驚くよりも前に、ある種の覚悟が芽生えた。
「し、支配人……」
弾かれたように背後を振り返った神崎さんは、驚いた様子でそう呟いたきり絶句している。
俺はと言えば、ついにやってしまったという半ば諦めの心情で、その人物へちらりと視線を投げただけだ。
「言いすぎだ。そろそろやめなさい」
「……申し訳ありません」
「でも新崎さん、都築くんが言ってることも分かるよね?」
「は、はい」
「土曜日の件だろう。私も、他の式場に人員の余裕がないか当たってみよう。それでいいね?」
「……はい」
静まり返った事務所内に滔々と流れる支配人の声は、不自然なほどに穏やかだった。
茫然と返事をした新崎さんが、支配人に深々と頭を下げている。軽い気持ちで始めた手伝いのお願いがとんでもない事態になってしまったと、ようやく気づいたのかもしれなかった。
「都築。ちょっと来なさい」
「……はい」
「
「はい」
……これはお説教コースかな。
コーヒーなんて要らない、そんなものより時間がほしい。経理事務の南さんと支配人とのやり取りを眺めながら、ぼんやりとそう思う。
最悪。また仕事が先延ばしだ。
いつになったら帰れる。いつになったら、楽になれるんだ。
ふと、脳裏にあの子の顔が思い浮かんだ。
脈絡なくしかけた抱擁に耳まで赤くしていたことを思い出し、場違いにも笑いそうになる。一ヶ月近く、顔も見ていなければ声も聞いていない。記憶の中の彼女は、あの日のままで時間を止めてしまっていた。
会いたいと思う。顔を突き合わせてちゃんと謝りたいと。それが駄目なら、声だけでも聞きたいと。それなのに。
時間もまともに作れない。連絡先さえ知らない。頭がおかしくなりそうだ。なにがここまで自分を追い詰めているのか、要因のひとつひとつなどすでに碌に理解できていない。
呼び出された先は、滅多なことでは使用されない貴賓室という部屋だ。
部署異動の通達があったときにしか入ったことがない部屋の、無駄に重厚そうなその扉を、蹴り破ってしまいたい衝動に駆られた。
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