第3章 可変と、不変と

《1》変化と不安

「へー、夏休みに入ったんだ?」

「はい。私は昨日で試験が終わったので、今日から。この時期はバイトもほとんど呼ばれないし、もうちょっとしたら実家に帰省しようかなって思ってまして」

「そっか。こないだ話してたもんね、ご両親のこと」

「はい。どっちかっていうと、父よりも母のほうが心配で」

「そう。えらいね真由ちゃん……あ、それって陽介にはもう伝えてる?」

「い、いえ」


 急に飛び出した彼の名前に、びくっと身体が跳ねそうになる。

 郁さんにはバレているだろうから隠しても仕方がないのかもしれないけれど、いちいち過敏に反応してしまう自分が恥ずかしい。


「まだ言ってないの?」

「そ、その。最近は、職場でも顔合わせることってほとんどなくて。連絡先も聞いてないし……」


 しどろもどろに答えると、郁さんは口を開けたまま固まってしまった。


「えっ、だってあの日、帰り際……」

「え?」

「ううん、こっちの話」


 しまった、みたいな顔をした郁さんは、すぐにはぐらかすようにぱたぱたと片手を振った。その反応と〝帰り際〟という言葉が気に懸かったけれど、強引に意識を逸らし、続く話に耳を傾けることにする。


「って連絡先、それ本気で……? あいつ、もしかしてホントにただのバカなのかな」

「えっ、そ、そんなことは」

「だって! あれだけ真由ちゃんのこと『ロックオン全開ッス俺!』みたいな顔しておいて、連絡先も聞いてないとかどこまで腑抜けなのッ!?」


 ……危うく、口に含んでいたお茶を噴き出すところだった。

 顔が熱い。ゴフゴフと咳き込んだ私に、郁さんは慌てて「ごめん」とお手拭きを差し出してきた。涙目になりながら、今日だけでもう何度目か、郁さんの誤解を解くために必死に声を絞り出す。


「ごほっ……あの、郁さん。違うんです、都築さんはそうじゃなくて単に……」

「嫌なことを思い出させちゃったお詫びって話? そんなの単なる口実だよー、あの顔見たでしょ?」

「あの顔、とは」

「あの顔はあの顔だよー。っていうかここに真由ちゃんを連れてきた時点で確定なんだってば。言ったでしょ? あいつが女の子連れてくるなんて真由ちゃんが初めてだよって。だからもうあいつがバカで腑抜けなのも確定」


 容赦ない最後のひと言に、自分のことを言われているわけではないのに若干心が抉られた気がしたのはなぜなのか。

 これ以上は無理だ。郁さんの頑なな誤解は、私には解けまい。こうなってくると、いっそ都築さん本人が解いてはくれないかとさえ思い始めてくる。


『あの顔見たでしょ?』


 どの顔だ。私は見ていない。自分にだけ都合のいい話を信じてしまえるような都築さんの顔なんて。

 ……都築さんの、顔。不意に別れ際の抱擁を思い出しそうになり、私は慌てて首を横に振った。あれは思い出してはならない。特に、今は。


 どのみち、どれほど頑張ったとしても私には郁さんの説得などできない。

 そう割りきった私は、最近になって抱え始めていた新たな悩みの種について相談しようと、郁さんに向き直って話を切り替えることにした。


「それよりもですね。実は、ちょっと困ったことがあって」

「あら、どうしたの?」

「……その。郁さんに髪を整えてもらってから、周囲の反応がちょっと……すごくて」

「どんなふうに?」

「知らない人に話しかけられることが急に増えて、なんというか、どうしたらいいのかよく分からなくて……」


 普通なら、そんなことは悩みにならないのかもしれなかった。イメージチェンジをして、それまでよりも明るい印象を周囲に持ってもらえるようになって、新しい友人ができたり出会いがあったり。むしろそれは、普通なら喜ぶべきことだと思う。頭では分かっていて、でも。

 きっと今、私はよほど途方に暮れた顔をしてしまっているのだろう。私に視線を向けつつうーんと小さく唸った郁さんは、唇に人差し指を当てて、なにやら独り言を呟き始めた。


「そっかぁ。ちょっと男ウケいい感じにしすぎちゃったかなぁ? 正確には男ウケじゃなくてあいつウケを狙っただけだけど……」

「え?」

「ううん、なんでもない。ねぇ真由ちゃん、もし良かったら少し雰囲気変えてみない? そうだな、例えばもうちょっとこう、女の子っぽい感じを抑えるっていうか。真由ちゃんって背が高めでスラッとしてるし、そういうのも似合うと思うの!」

「……いいんですか?」

「うん。今日は道具を準備してないから無理だけど、そうだな……帰省しちゃう前にまたおいでよ」


 にっこり笑う郁さんに釣られ、私も口元が緩んだ。

 そのお誘いが純粋に嬉しかったからだけれど、心に巣食った真の不安を郁さんに打ち明けることは、結局できなかった。


 ……急激な変化が始まって、間もなく一ヶ月だ。


 同じ学部の人だけでなく、まったく面識のない他の学部の人まで、不自然なくらいに私に接触してくるようになったのだ。

 前日までは私になど見向きもしなかった人が、満面の笑みを浮かべて親しげに近寄ってくる。透けて見える打算をそこに見出してしまいそうになるのは、私の悪い癖なのだろうか。

 例えば『経済学部の教授の研究室に案内してほしい』とか、あるいは友人と一緒に食堂でお昼を取っているときに、他にも席がたくさん空いているのに『隣いいですか』とか。そのたびに困惑してしまう。多分それはバッチリ顔に出ていて、それでも、相手の誰もがにこやかな顔を少しも崩さない。


 メイクは、自分ひとりではいまだに上手にできない。だから普段はほとんどしていなかった。洋服だって、すぐにあれこれ買い足す余裕はないから基本は今まで通りだ。コンタクトレンズは作ったけれど、それだけ。


 なのに、私を見る人の目が、こうも変わってしまうなんて。


 可愛くしてもらえて、確かに嬉しかった。あの日、都築さんや郁さんと過ごした時間は、大切な思い出として胸にしまってある。それは間違いようのない事実で、でも。

 私、本当にこんなことを望んでいたんだっけ。そんなふうに考えては、そこはかとない不安を感じて竦んでしまう。


 私を取り巻く周囲の目まぐるしい変化に、誰よりもついていけていないのは、他ならぬ私自身だ。


 郁さんと別れ、歩いて自宅に帰る。その途中、不意に思い出したのは、あの夕方の別れ際のことだった。

 きっと、さっきまで郁さんと話していたからだ。彼のそれとどことなく似た郁さんの笑顔を思い出すと、それは一気に記憶の底から引き出されてくる。


『ごめん。その、可愛くて……つい』


 あの声を思い出してしまったら、回想はそれだけで終わるはずもない。

 男の人にあんなふうに抱き締められるなんて、初めてだった。塞がれた視界の隙間から微かに覗いた尖った喉仏や、私が痛くないようにとわずかに力が緩められた両腕や、緩く髪を撫でる指先や、ふと鼻を掠めた大人の男の人の匂い。そういうものが私をおかしくする。私を、普段の私とは違う私にしてしまおうとする。


 知らない。あんな、心臓が壊れそうになる感覚は。


 間違っても、学校やバイト先で思い出していい記憶ではなかった。そんなことをしてしまったら最後、恥ずかしさのあまり立っていられなくなるに違いない。

 あれ以来、バイトに行くたびに異様に緊張する。新崎さんをはじめとした社員の人たちもバイト仲間も、私の外見の変化に楽しそうな声をあげて、けれど私自身はそれどころではなかった。もし彼と鉢合わせることにでもなったらどうすればいいのか、気が気ではなかった。とはいっても、ここひと月はそんな事態にはならなかったが。


 あの日、彼はなにを思って私を抱き寄せたのだろう。

 考えたくなかった。想像するだけで、恐ろしさに足が竦みそうになるからだ。


 ――可愛くなかった私の外見が、変わったからなのか。


 その推測に辿り着くたび、心臓がじくじくと痛み出す。

 声が出せなくなって、呼吸が乱れて、涙が滲んで、底の知れない恐怖にどこまでも落ちていくような気分になる。


 都築さんも、学校で声をかけてくる男の人たちと同じなのかな。可愛くないままの私が相手だったら、あんなことはしなかったのかな。

 答えがほしいはずなのに、知りたくないとも思う。相反するふたつの思いに翻弄され、結局、最後にはなにも考えられなくなる。からっぽの頭に、与えられた温度だけが残って、それがいつになっても抜け落ちてくれなくて……さすがにこの件は、郁さんに相談するわけにもいかない。


 昨日も今日も、おそらくは明日も、感情が入り乱れた私の頭は、同じ問いかけを延々と繰り返すばかりだ。



     *



 嫌な予感はしていた。


『明日のゼミの飲み会、真由も参加するでしょ?』


 同じゼミの友人であるぐちあやに声をかけられたのは、昨日の午後のことだった。

 他人にとって、以前の私と今の私は別人同然。そのことに思い至ったのは、軽い気持ちで了承してしまった後だ。

 今からでも断ろうかとギリギリまで悩んだものの、十名程度のゼミ仲間のみの集まりなら、そこまで気にしなくてもいいかもしれない。そうやって強引に不安を払い落として向かった先で、私はその選択を大いに後悔する羽目になったのだった。


「あ、真由~こっちこっち! まえくん見て見て、あの子だよ!」

「へぇマジで? すっげー可愛くなってんじゃん、ホントにあの眼鏡っ子!?」

「でしょー、ね、言った通りでしょ!? ……どしたの真由、早くこっち座りなよ~!」


 目の前に広がっている光景に、私の視界は一瞬で暗転した。

 その場にいたのは、飲み会の誘いをかけてきた張本人である彩香以外、知らない人ばかりだった。しかも大半が男性であり、背筋を嫌な汗が伝っていく。


「……彩香。今日って、ゼミの飲み会じゃ」

「あぁ、ごめんごめん。だって真由、ああでも言わないと来てくれなかったでしょ? 皆ね、真由と仲良くなりたいって言ってる子たちばっかりなんだよー?」


 目の前のテーブルの喧騒が、ひときわその音量を増した。

 こっちに座って、いやこっちに来てよ。あちらこちらから差し伸べられる手が、霞んだ視界に滲んで映る。


 真由ちゃん、真由、真由ちゃん、真由さん。

 私の名前を呼ぶ声が、薄っぺらい音になって、重なって。


「……あ……」


 違う。皆、私を見ていない。

 ここにいる誰もが、本当の私を見てくれてなどいない。


「ホラ、どうしたの真由ちゃん! ここ座りなよ、聞きたいこといっぱいあるんだからさ~!」


 いかにも軽そうな男の声がすぐ傍から聞こえ、間を置かず右手を取られた。

 こちらの意向をまったく気にしていない接触に、不快感がついに臨界点を超える。


「触らないで……ッ!」


 渦巻く感情に任せ、触れる手のひらをばしりと払い落とす。

 きょとんと私を見つめる目の前の男が、我に返って次の行動を取るよりも前に――その一心で、今来た道をふらつく足で戻り始める。


「え、真由っ!?」


 遠くから彩香の声が聞こえたものの、混乱のまま動き続ける私の足は、ひたすら歩く速度を上げていくだけだ。

 細い廊下を突っ切り、倒れ込むように店の外へ飛び出した。途中ですれ違った店員が驚いた様子で私を振り返り、けれど私は、それにも少しも気を回すことができなかった。



     *



 やめて。やめてよ、誰も私のことなんて見ていない癖に。

 馴れ馴れしく触らないで。べっとりと貼りつけた笑顔の下に、醜い下心をひそませて、それが私にバレていないと思っている。不愉快にもほどがある。


 違った。触れ方も、体温も、なにもかも。

 急ぎ足を休めることなく、知らない男に掴まれた手を見る。いつもと変わらない荒れた自分の手のひらが、汚らしいものに見えた気がして、ぞっとした。


 綺麗に塗られていたネイルは、もう私の指先を彩ってはいない。バイトに行くためにと、あの週の金曜日には落としたから。かけられていた魔法が解けてしまったみたいに、今私の手で目を引くのは、荒れてところどころひびが入った箇所ばかりだ。


 それが、あの日起きたことはすべて夢だったのではないかと思わせる。

 あの日、彼に与えられた抱擁さえ、ただ単に自分の願いが集まって形を成しただけの妄想でしかないのでは。簡単にそう思ってしまいそうになる。それが、他のどんなことよりずっと恐ろしかった。


 気持ち悪い。こんなのは嫌だ。

 助けて。助けて。お願い、助けて。


「……都築さん……っ」


 まともな思考は、とうに巡らせていられなかった。

 自分が誰の名前を口に乗せたのかも碌に分かっていないまま、乱れに乱れた心を持て余しながら、私は自宅を目指して走り続けた。

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