《5》あんなに可愛いのに
多分、本人よりも俺のほうがずっと驚いていた。
開いたドアへ弾かれたように視線を向ける彼女は、大きく目を見開いていた。目尻と頬が微かに濡れていたことは、鉢合わせたのが俺以外の誰かだったとしても、きっと簡単に分かっただろう。
俺の姿を認めるや否や、彼女は顔を伏せた。同時に、飾り気のないソファに三角座りをしていた足が、そっと床に下ろされた。ひじかけに置かれた眼鏡を慌てた素振りで装着する姿を見て、ようやく俺は、目の前の相手が誰なのかということに思い至った。
『お疲れさまです』
泣いていたことを隠したがっているみたいな、抑揚のない声だった。
なんでもないと言いたげなその挨拶は、俺の耳には切実なSOSに聞こえた。
*
向こうはもう忘れてしまっているかもしれないが、俺ははっきり覚えている。
バイト初日にいきなり無茶な指示を受けたあの子が、今にも泣き出しそうな顔をしながら俺に声をかけてきたことを。
結局、彼女は泣かなかった。目的の物を探す手伝いをした俺に向かって深々と頭を下げるその顔が、妙に強く印象に残った。
初日からわけの分からない指示を出され、その上、周囲の誰もがまともに取り合ってくれない。俺だったら、そんなバイトはその日のうちに辞めると思う。
だが、彼女はそうしなかった。
それから一ヶ月も経たないうちにホール内のサービス業務を遜色なくこなすようになり、今ではバイトであるにもかかわらず、サービスの主力メンバーのひとりとして数えられている。現場の事情にさほど明るくないウェディングプランナーの間でも、彼女の名前を知らない人間はいない。
バイトだから、本業は学生だから。一種の甘えと言っていいだろうその手の思考や雰囲気が、あの子からは感じられない。たまにしか現場に顔を出さない俺みたいな人間にも分かる。
不意に見せる心細そうな顔に、初めて違和感を覚えたのはいつだったか。
初めは単純に、仕事に対する緊張や不安が原因かと思っていた。だがやがて、それだけではあるまいという根拠のない考えが、俺の胸に妙な燻りを残すようになった。
その燻りの正体を探ろうとするたび、誰かに呼び止められたり話しかけられたりして、忙しく走り回ってはさまざまな対応に追われる。ふとまた視線を向けたときには、その頃にはもう、彼女の表情からは心細さのようなものは消え失せている。
そのたびに感じるもどかしさは、いつだって忙しさの波に飲まれ、すぐさまふつりと姿を消してしまうのだ。
そもそも、毎週見かけるわけではない。披露宴の件数が立て込んでいるときにヘルプの要請がある程度で、基本的には、俺は自分が担当する披露宴以外で現場に顔を出さない。
異動して間もなかった頃は、受け持っている担当が少なかった分、現場に駆り出されることは確かに多かった。だが、今では声をかけられたとしても、プランナー業務の比重が大きすぎるために断ってばかりだ。
そんな中で、どうして俺は、あの子のそれに気づくことができたのか。
まるで糸だ。ピンと張った、今にも切れてしまいそうな、細い糸。
あの糸がブツンと切れる日が来たら、あの子は一体、どうなってしまうんだ。それ以上考えるのはとても恐ろしいことに思えて、いつも俺は、不穏な思考ごと無理やり振り払う羽目になる。
思い当たる節は、いくつかあった。例えば仕事の内容だ。普通ならアルバイトには任せない難しい仕事も、現場の連中は、彼女の働きに甘えて頼んでしまうことがときおりあるという。
そういうことが、連中が知らない間に大きな負担をかけているのではないかと、傍から見ているこちらこそが不安になってくる。プレッシャーだって感じるだろう。他のバイトと同じ時給で働いているのに、彼女だけが重い負担を強いられるのは理不尽だ。
だとしても、それを諌めることも咎めることも、俺にはできない。俺は他部署の人間だからだ。
協力や連携が必要な業務以外、現場の人間は、基本的にプランナーの業務について口を挟まない。無論、自分たちに不利益が生じる場合や、顧客に迷惑がかかる場合を除いて。
逆もまた然りだ。プランナー側も、現場の細かな業務に逐一口を挟むことなどしない。元々在籍していた部署だといっても、もし俺がそんなことをしでかせば、各々の仕事に対する向き合い方や矜持を揺らがしてしまいかねない。
近頃は、見かけるたびに思い詰めたような顔をしてさえ見える。
そう思っていた矢先のことだった。たまたま立ち寄った休憩室で、身を屈めて泣くあの子と鉢合わせたのは。
強引に聞き出した涙の理由は、極めて不愉快な類のものだった。
男がそうでないとまでは言わないが、女同士での付き合いというものは、やはりそういう面が厄介だと思う。真面目に働いているほうが文句を言われ、良かれと思って伝えた助言はお小言と解釈される。そんな理不尽な経験をするのは社会人になってからで十分だろうに、学生のうちからそれを強いられているとは。
……何様だ、そいつら。どうせお前らは、暇なときだけ働けばいいとでも思ってるんだろ。遊ぶ金ほしさに。
荒れた思考が脳裏を掠め、あからさまに顔が強張った自覚はあった。それと同時に、素朴な疑問がひとつ浮かんだ。
この子は、働いて得た収入を、なにに使っているんだろう。
ほぼ毎週、土日が巡ってくるたびに出勤してきている。先日も、バンケットの社員が勤務表を覗きつつ、『海老原さん、今月も皆勤賞だよー』と話していたところを見かけたばかりだ。相当な稼ぎになっていると思う。下手をすると、非常勤扱いのパート従業員よりも手取りが多いのではと思えるくらいに。
彼女がバイトを始めておよそ一年の間、その外見には特に変化はない。私服姿を見たことはほとんどないが、必要最低限のメイクにひっつめ髪がトレードマークの彼女だ。派手な様子は見受けられない。そんな彼女がバカスカお金を使っているところなど、まったく想像がつかなかった。
昨年、初出勤のときに嫌な思いをして、それでもバイトを辞めなかった。ほぼ毎週、必ずと言っていいほどきちんと出勤している。その理由は、本当に〝真面目だから〟という、ただそれだけなのか。
不意に、近頃よく浮かべている心細そうな顔が脳裏を過ぎった。
君は一体なにを抱えている。
その細っこい身体の中に、どんな不安を隠し込んでいる。
『ブスだとか地味だとか、別に普段から言われ慣れてるんですけど』
ひどい言葉を投げつけられて、どうしてごまかそうとする。
傷ついていないとでも言うつもりか。さんざん泣き腫らした痛々しい両目をしておいて。
ひどい目に遭わされたにもかかわらず、結局、彼女は自分を傷つけた張本人たちのことを一度も悪く言わなかった。そのことがまた、彼女の内面を克明に映し出しているようにも思える。
いつも一緒に仕事をしている現場のスタッフが相手だったら、きっとそこまで詳しく内心を明かさなかったのではないかと思う。ほとんど面識のない俺が相手だったからこそ、少しずつでも打ち明けられていたのかもしれない。
無理やり作っていますと言わんばかりの笑顔は、ひどく脆いものに見えた。
だから、つい、言ってしまった。
『可愛くなっちゃおうか。ねぇ海老原さん、明日って暇?』
……そう。
ついうっかり、そんなことを口走ってしまった。
*
ハンドルに頭を埋め、軽率にもほどがある自分の言動を思い起こす。
「……駄目すぎるだろ……」
せっかくまた笑ってくれるようになったのに。
今日は楽しかったと、笑って言ってくれたのに。
最後の最後に、どうしてわざわざそれをぶち壊すみたいな真似をしてしまったんだ、俺は。
いい加減、車を動かさなければ。不審車扱いされては堪らない。
頭では確かにそう思っているのに、鉛が積まれたかのごとく重く軋む身体はぴくりとも動かない。
……わざとだ。
郁は、あの子のイメージチェンジの仕上がりの照準を、俺の好みにわざと合わせた。
随分遅いと思っていた迎えの連絡は、午後五時過ぎに入った。気合い入りすぎだぞ、バカ姉が――心の中で悪態をつきながら急いで姉のマンションに駆けつけ、インターホンを鳴らした。
得意げな顔をした郁の後ろからおずおずと姿を現した彼女をひと目見た瞬間、全身が強張った。
――いくらなんでも、あんなのは反則だ。
実際、つくりのいい顔をしているとは思っていた。
眼鏡を外して泣いていたところを見つけたときに一瞬見えた素顔の両目が、パッチリとした二重瞼だったこともチェック済みだ。
誰だ、彼女のことをブスだなどと嘲笑った奴は。野暮ったい眼鏡なんかにコロッと騙されて、まったくどこまで腐った目をしていやがる。
可愛いと告げたときにみるみるうちに赤くなっていく頬も、仕事中にはきっちりとタイが締められている首元から覗く白い肌も、直視なんてできるわけがなかった。
あんなに、可愛いのに。
「……ちっくしょう……」
赤い頬を見て、期待しそうになった。
帰り際の笑顔が少しだけ寂しそうに見えたから、まだ帰したくないという一心で細腕を引いた。壊れ物に触れるようにそっと抱え込んだ身体は、想像以上に華奢だった。微かに体温が上がった気すらした。
このまま絆されてはくれないかと本気で思って……だが。
首筋まで真っ赤になった彼女は、車を飛び出して行ってしまった。
動揺した様子だった。困っているみたいにも見えた。自分がどれほど身勝手な期待に浮かれていたのか、思い知らされた気分だった。
しかも、謝ろうにも連絡先を知らない。
そのことに気づいて、ただでさえ弱りきったメンタルはさらに抉れた。溜息もまともにつけないまま、屍のように生気を失った腕を無理やり動かし、俺は車のエンジンをかけたのだった。
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